デカルト『省察』徹底解読|目的、主題、要約、名言、有名な箇所を分かりやすく解説

デカルト『省察』徹底解読|目的、主題、要約、名言、有名な箇所を分かりやすく解説

概要

 ルネ・デカルトの『省察』は、『第一哲学についての省察』(Meditationes de philosophia)として第一版が1641年にパリで、第二版が1942年にアムステルダムで出版された。第一版の副題は「神の存在と精神の不死が証明された」で第二版の副題は「神の存在と、人間存在と身体との区別が証明される」である。

省察が執筆された意図

 形而上学に関する論文を執筆し、世界の究極原理を明らかにしたいという情熱があった。スコラ哲学(神学)的形而上学では満足できなかったのだろう。1628年には「神性」についての論文を構想。1629年には「神の存在と、身体から切り離された場合の精神の存在証明であり、そこから精神の節が帰結する」論文を書いていた。当時、カトリック宗教界は危機的状況で無神論やプロテスタントが横行していた。その時代背景もあって、デカルトも神と人間との関係について書かざるを得ない状況ではあったが、デカルトのいう神は信仰の対象としての神ではなく、究極原理としての神である。実際問題としてデカルトはこの『省察』がオランダの聖職者に読まれることを懸念しており、異端と見られてもおかしくなかった。

 1637年に『方法序説』を書き上げる。第四部は「神と人間精神との存在を証明するのに用いられた諸根拠」であり、そこで形而上学的な内容を執筆するが議論の細部は描かれておらず、それに対する批判があった。そこで彼の形而上学を細部にわたって書き上げようとしたのが『省察』である。

主題

 省察の本当の題名は『第一哲学についての省察』である。第一哲学というのは古典的にいえば形而上学のことである。つまり、形而下の法則としての世界の究極原理の探究と発見こそがこの『省察』の主題だ。

3つのステップで簡単要約

 主題は究極原理の獲得なのだから、やりたかったことは超簡単。まずは究極原理を獲得するための準備(第1ステップ)が必要。これが方法論にあたる。次に究極原理が何かが明らかにされる(第2ステップ)。最後に究極原理からそれまで世界の事象を基礎づけることをする(第3ステップ)。

ステップ1:あらゆるものを疑え《方法的懐疑》

 まずデカルトが考えたのは究極原理を獲得するためにどうすれば良いのかということだ。究極原理は唯一完全で正しい真理である。しかし、わたしたちってよく間違ったりするからおいそれとこれが究極原理だなんてことはいえない。そこで持ち出してきた方法が方法的懐疑というやり方だ。これは、少しでも疑いうるものはとりあえず嘘ということにしようということだ。このように懐疑されるだけで嘘だということになってしまうので、又の名を誇張的懐疑ともいう。

むしろ理性がすでに説得しているところによれば、全く確実で疑いえないわけではないものに対しても、明らかに偽であるものに対するのと同じく注意して、同意をさし控えるべきであるので、それらの意見のどれか一つのうちに何か疑う理由が見出されるなら、それだけで、その全てを拒否するのに十分であろう。

『省察』35頁

 このようにデカルトはとりあえず全部を疑ってみて、それでも残る疑い得ないものを究極の原理としようとしたのである。

ステップ2:究極の原理を発見せよ《我思う、ゆえに我あり》

 それではデカルトが発見した究極原理とは何だったのだろうか。『省察』には発見の瞬間が記述されている。

それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私はある、私は存在する」という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。

『省察』45頁

 つまり私が存在するということが唯一疑い得ない究極の原理だったのである。疑えば疑うほど疑っている私は存在しなければならない。それゆえ私の存在が疑いえない究極原理として姿をあらわすのだ。

補足:もう一つの究極原理《誠実な神》ーー我思う我ありだけじゃ確実な知識は得られない!

 ただし『省察』の場合ちょっとややこしい。究極原理を発見したのに、究極原理からは正しい認識を導けないのである。デカルトだと、正しい知識や認識をえるためには、私が明晰判明に捉えた事柄は正しい、ということを保証する存在が必要なのである。それが誠実な神である。カントだと究極原理は人間(主観)だけになるが、デカルトだと究極原理は我(主観)と神の二つである。

 というわけで誠実な神の存在が証明されなければならない。〈誠実な〉を加えているのは、デカルト は第一省察で欺く神の存在の可能性を挙げていたからだ。それでは神の存在証明である(一つ目の存在証明)。

 理屈としてはこうなる。私は有限な実体である。ところで私には無限の観念が存在する。しかし無限は神の性質であって私のものではないので、そういった性質が観念に上がってくるのは神が存在するからである。よって誠実な神は存在する。

 考える私と誠実な神が協働することで、正しい知識が得られることになったのである。

 ちなみに、この神の議論はフーコー=デリダ論争でのデリダの『省察』解釈でも言及される。

ステップ3:あとは今まで通り世界を構築し直すだけだーー物体の存在の証明と心身の区別《心身二元論》

 神と私の存在が証明された結果、私が神から与えらた判断力を正しく使えば判断が誤ることはないことが分かった。そこから方法的懐疑によって今まで誤謬とされてきた物体の存在が証明されていくことになる。

 さらに物体の存在が証明されたことにより、この世には私という精神とそれとは別の物体が存在することが明らかとなった。しかし両者は質的に異なるので、どうしてその複合体として身体と精神が連関しているのかも考察する。これで世界は懐疑前と同じように構築されたことになる。

この著作に登場する名言・有名な概念。

 一つ目は「我思うゆえに我あり」である。すでに引用もしたが、『省察』では実際のところは「我ある、我存在する」である。「我思う、ゆえに我あり」が登場するのは『方法序説』である。

 二つ目が「神の瞬間創造説」である。第三省察に登場する。有名だが、由来はスコラの連続的創造説らしい。デカルトは時間を非連続の集合のように捉え次のように述べる。

私が少し前に存在したことから、私がいま存在していなければならないということが帰結するためには、何らかの原因が、この瞬間に私をいわば再び創造する、つまり私を保存するということがなければならないからである。

『省察』77−78頁

 三つは松果腺である。デカルトは第六省察で精神と身体の区別を証明したあと、どのようにして精神と身体が結びつくのかという問題に直面した。そこででてきたのが松果腺である。『省察』では「脳の小さな一部」と言われており、「精神の座」の役割を果たしているとされる。しかし、松果腺自体は物体であり、さらに後に、松果腺は実際デカルトが考えていた機能を持っていないことが判明。そういったこともあり、デカルト的心身二元論を信じている人はほとんどいない。

参考文献

ルネ・デカルト『省察』山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2006年。

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