フーコー=デリダ論争とは何か

フーコー=デリダ論争とは何か

フーコー=デリダ論争の概略

 フーコー=デリダ論争とはフーコーのデカルト読解に端を発する一連の論争である。詳しく見てみると次のようなものとなっている。

 まずフーコーが1961年に『狂気と非理性ーー古典主義時代における狂気の歴史』において斬新なデカルト『省察』読解を披露する。その著作に対し、1963年デリダが講演「コギトと『狂気の歴史』」で批判、その批判を受けてさらにフーコーが1972年に「私の体、この紙、この炉」で反論を展開した。ここまでのフーコーとデリダの対決が、一般にフーコー=デリダ論争と呼ばれている。

 邦訳についてであるが、フーコーの読解はどちらも『狂気の歴史––古典主義時代における』(田村俶訳、新潮社、1975年)に収録されており、デリダの講演は『エクリチュールと差異〈改訳版〉』(谷口博史訳、法政大学出版局、2022年)に収録されている。

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おさらい:デカルト『省察』の内容

 まず『省察』がどのような内容だったのかをみておこう。

 『省察』という題名からであるが、そもそも本当の題名は『第一哲学についての省察ーー神の存在、および人間の精神と身体の区別が証明される』である。つまり『省察』で行われるのは第一哲学なのだ。

 それでは第一哲学とは何か。これはアリストテレスが提唱した哲学の一分野で、いわゆる形而上学と呼ばれるものだ。形而上学では物事の根本原因だったり根本原理が追求される。デカルトも『省察』で物事の究極の原理について考えようとした。しかしどうやったら究極の原理を突き止めることができるのか。

 デカルトのやり方は一風変わった斬新なものであった。それが有名な方法的懐疑(誇張的懐疑)と呼ばれる方法である。少しでも疑いをさしはさみうるものについては一切信じないという方法だ。例えば知覚を例にとって考えてみよう。私たちは普段、ある色とかある形とか椅子とか人間とかを知覚する。ほとんどの場合私たちはそれを間違ったりはしない。しかし時としてある人を別の人だと誤ってしまうことがある。ということは人間の知覚は間違うことがありうるわけだ。方法的懐疑においてはそれを知覚一般にまで拡張し、知覚そのものも間違う可能性があるんじゃないかと考える。すると知覚は間違う可能性がある(少しでも疑いをさしはさみうる)わけだから、これを信じることはできない。こうやって唯一確実な真理に到達するまで、疑いうるものを排除していく。これが方法的懐疑だ。

 方法的懐疑の結果、デカルトはある真理を発見する。「我あり」という真理である(これも知っている方はいるかと思われるが『省察』にはあの有名な「我思う、ゆえに我あり」は登場しない。「我思う、ゆえに我有り」は『方法序説』に登場する(【名言解説「我思う、ゆえに我あり」*なるほう堂】参照))。そして「我あり」という絶対的な真理を起点として、副題にもなっている神の存在や人間の精神と身体の区別、他に事物の存在などが徐々に証明されていく。『省察』は第六省察まであり、第二省察で「我あり」が導き出されたあと、神の存在や事物の存在などが残りの省察で証明されていくという構造になっている。割とシンプルな著作である。

フーコーの『省察』読解

 このうちフーコーが取り上げたのは、第一省察に登場する狂気と夢に関する記述だ。デカルトは方法的懐疑を進めていく中で狂気と夢における状況を検討するのであるが、そこにフーコーは目をつけた。『狂気の歴史』第一部第二章「大いなる閉じ込め」でそれが展開される。

 フーコーの根本的な主張はこうだ。すなわち、『省察』では、夢においては真理の残滓が含まれており真理と夢は反発し合わないということになっているが、狂気に関していえば、「考える私」が狂人ではないからこそ真理が保たれるということになっており、狂気は真理と反発する。つまり、夢の場合は真理との緩いつながりがあるのに対して、狂気は真理から断絶している。言い換えれば、考える私(我思う、ゆえに我ありの私)は夢の中でさえも成立しうるが、狂気においては成立しない。考える私は狂人ではないからである。というわけでデカルトには狂気の追放や排除というモチーフがあり、それがフーコーによって17世紀社会の強制収容政策の導入などに結びつけられることで、「狂気の歴史」の転換点としてデカルトがとりあげられることになったわけである。

人は、自分が狂人であるとは、思考によってであれ、想定することことはできないのである。というのは、まさしく狂気は思考の成立を不可能にする条件であるのだから。「私自信もやはり彼らにおとらず気違いということになるだろう・・・」から。

『狂気の歴史』66頁(「」は『省察』からの引用)

デリダの『省察』読解ーーフーコーへの反論

 デリダはこのようなフーコーの読解に真っ向から反対し、ほとんどフーコーとは反対の意見を主張する。曰く

わたしが気狂いであろうがなかろうが、「我思う、我あり」なのである。

『エクリチュールと差異(上)』108頁。

なぜならコギト(ラテン語でコギトはcogitoであり、我思うという意味である)の確信は

狂気を避けるものではなく、狂気そのもののなかにおいて到達され、確保されるものなのです。それは、、価値があるのである。

『エクリチュールと差異(上)』108頁

 相違点は明白である。フーコーはコギトは狂気でないと言ったが、デリダはコギトは狂気であっても良いと言ったのである。どうしてこんなにも意見が分かれてしまったのか。

 まず狂気に関するデカルトの記述を見てみよう。デカルトは、自分の全身がかぼちゃだと言い張っている人の例を出す。そして仮にそういう人がいたとしたら「彼らは気が違っているのであって、もし私が彼らの例をまねたりするなら、私自身も彼らに劣らず狂人扱いをうけるであろう」という。この文言にフーコーは狂気の排除を読み取ったのだが、デリダはそれを一般人の対話者の考えとして読み取るのだ。つまりデリダはその言葉をデカルトの考えとして読み取るのではなく、常識人が言った反語(そんなことしたら狂人扱いを受けるだろう。しかしそんなことはしない、という反語)として読み取るわけである。

 すると次に登場する夢の話は、狂気の話と連続した話となり、狂気というのは常識人には縁遠い話なので、もっと身近な夢の例をとってみましょうという風に夢の話と接続させるのだ。そういうわけで、デリダに言わせれば、順番を考えると「眠る人、あるいは夢みる人は、狂人以上に気狂い」(『エクリチュールと差異(上)』99頁)ということになる。このような読解ならば、狂気を排除する必要も確かになくなるだろう。そもそも夢のほうが狂気よりも狂気的な状態なわけであり、夢が排除されないのに狂気だけ排除されるということはありえないからである。

 面白いのは、かといってフーコーが提示した狂気の追放というアィディア自体を捨て去るわけではないということである。それ自体には一定の評価を与えるのだ。「わたしの知る限りでは、この『省察』において、錯乱や狂気を感覚や夢からこのように分離させたのはフーコーが最初である。それらの哲学的な意味と方法論的な機能においてそれらを分離した、最初の人である。それは、彼の読み方の独創性をなすものである」(『エクリチュールと差異(上)』92頁)。デリダの主張は、仮に狂気が追放されるならば、このコギト以前の状況においてではなくて、コギトを発見したあとの誠実な神が登場する場面においてであるということである。

たとえ《コギト》がどれほど狂的な狂人にとっても価値あるものだとしても、それを反省し、それを記憶にとどめ、それを伝達し、その意味を伝えるためには、実際に狂人ではない必要があるからである。そうしてここにおいて、神とある種の記憶とともに、本質的な《失神》と危機とがはじまるのである。またここにおいて、誇張法による狂気の彷徨からあわただしくもろもろの理由の領域に復帰し、そこに隠れて安心を求め、打ち棄てられていた真理をふたたび把握しようとする動きがはじまるのである。少なくともデカルトのテクストにおいては、監禁作用はこの点において生じるのである。

『エクリチュールと差異(上)』112−113頁。

 『省察』における神をここでおさらいしておこう。デカルトは究極の原理「我あり」を発見したあと、第三省察で欺く神の可能性について検討する。仮に欺く神というのが存在するなら、自らがいくら明晰判明だと思う事柄でも欺く神によって欺かれている恐れがあり、そうだとすると真理の保証ができなくなってしまう。そういうわけで神が存在し、それは欺く神ではなく誠実な神であることを証明するわけだ。そして誠実な神の存在が証明されることによって、自らの明晰判明な確信も保証されるということになる。

 デリダの読みによれば、コギトの瞬間というのは、別に狂気であってもなくても構わない。逆に普通の状況よりはかなり狂気的な状況とさえ呼べるような状況である。しかしそれではコギトの保証を誰が行うのか。それが神なのである。コギトが口に出され、反省され、時間化されるとき、コギトは一種の狂乱状態から解放される。その解放が始まるのが神の登場によってなのである。したがって、デリダに言わせれば、狂気の追放は神の登場と同時に行われるのであって、フーコーはそれを読み取る場所を間違えていたということである。「フーコーの解釈は、《コギト》が組織的な哲学的言語表現によって反省され語られる瞬間から、啓示的となるように私には思われる」(『エクリチュールと差異(上)』113頁)。デリダはフーコーの『省察』読解を批判的に継承することで、あらたな『省察』読解を提示したのである。

フーコの再『省察』読解ーーデリダへの再反論

 実は論争はそれで終わらなかった。フーコーは「私の身体、この紙、この炉」で再反論を試みたのである。そこではデリダの考えを五つの観点に分けて検討し批判している。例えば一つ目の観点ではデリダの「夢は狂気に比べると、いっそう普通の、しかもいっそう普遍的な経験である」という文章を引いてきて批判している。フーコー曰く、デカルトは夢のほうが狂気よりも「いっそう普通で、いっそう普遍的」であるなどとは一言も言っていないということである。確かに夢が狂気に対して優越性を持つことは認める。それは夢の途方もなさと頻発さに関してである。しかしこの両者を混同することはできないのに、デリダが両者を〈普遍的〉という言葉で一緒くたにしてしまったと批判する。デカルトがより重視していたのは〈頻発さ〉の方であり、〈途方もなさ〉の方ではない。デリダはテクストをちゃんと読んでいないというわけである。

 残りの四つもこんな感じである。全体として、デリダがテクストにそってちゃんと読めてないと批判するわけである。しかし、それに対するデリダの再々反論は発表されなかった。

 これがフーコー=デリダ論争のおおまかなあらましである。詳しく知りたい方は翻訳をあたってみるとよいだろう。これよりも詳しいあらましは石川氏の「コギト、狂気、表象のキアロスクーロー」に載っている。是非読んでもらいたい。

おわりにーー感想

 この議論どっちが正しいとか間違っているとかそういった議論は尽きないようだ。我々の目に触れる文献もいくつかあり、宮崎裕助氏が「いまやフーコー=デリダ論争を検討するさいの不可欠な二次文献」と呼んでいる、ジャン=マリ・ベザート「しかし彼らは狂っているのだ ーー「第一省察」の論争の的になった一節について」などはネット上で公開されている。こちらはフーコーのデカルト読解に鋭い批判を放っているようだ。

 間違っているかあっているかは別として、わたしとしても腑に落ちないのはフーコーの読解の方である。フーコーの思考している私は狂人ではないという前提に面くらうからだ。というのもフーコがどうして思考している私は強靭でないのかと問われたら、少なくとも「大いなる閉じ込め」の章のデカルト読解の箇所を読んだ限りでは、狂気は思考不可能だからだ、と答えるだろうからだ。つまりトートロジーであり、ここにフーコーとしては何らかの限界・基底を置きたいようなのだが、現象学的議論に馴染んでいた私としては、そんな常識に基底を置いてしまうのか?と思ってしまう。

 石川氏もそういった哲学と非哲学という区別からデリダとフーコーの読解を分析していた。デリダの『省察』読解はいわば哲学的・形而上学的な読解なのである。フーコーの読みは「なによりテクストの「読みの手法」に関わるもの」だったのであり、形而上学的な解釈などを必要とするものではなかったのである。

 デリダの読み方はどちらかというと、哲学とかやってきた人、現象学とか学んできた人の読み方だ。実際リシールもデカルトは狂気を追放したのではなく、狂気を哲学に持ち込んだ内の一人として考えている。そういう読み方の方が私などは素直に受け取れるのである。逆に狂人は思考不可能という超素朴な常識的な前提は、え?そんな風にテクストをある意味ではつまらなく読んじゃっていいの?というような感じになる。これはその人の問題意識がどこにあるかの違いでもあろう。さて、みなさんはこの論争をどう考えるのであろうか。

参考文献

ミシェル・フーコー『狂気の歴史––古典主義時代における』田村俶訳、新潮社、1975年。

ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』谷口博史訳、法政大学出版局、2022年。

石川友広「コギト、狂気、表象のキアロスクーロー フーコー/デリダ論争から17世紀表象論へ」(『人文学報』vol. 511, pp. 189-228)首都大学東京人文科学研究科、2015年。

※引用は全て参考文献からのものであるが、適宜翻訳を変更した。

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こちらは哲学用語特集 – 〇〇とは何か – に収録されています。こちらもぜひご覧ください。

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