二つの無意味
一方の〈意味がある無意味〉とは、無限の多義性としての無意味である。
- 「無限に多義的」であるものは意味が分からない、要するに無意味である。
- 対象は無限に多義的であるため、その意味を汲み尽くすことはできず、どれだけ様々な見方からアプローチしても、言えることがまだ残っている。
- だから、もっと何かを言いたくさせる(すると意味がますます増殖する)
- 〈意味がある無意味〉は、けっして埋まることのない「穴」に喩えられる。
>この「ブラックホール」ないしは「排水口」に引っ張られて、意味の雨が降り続ける。
それに対して、〈意味がない無意味〉は、〈意味がある無意味〉をめぐる意味の増殖を止めるような無意味である。
- この無意味は、意味の雨を吸い込む排水口に蓋をする「石」のようなものに喩えられる。
>〈意味がない無意味〉は、我々を言葉少なにさせ、絶句へと至らせる。
千葉は、〈意味のない無意味〉を「行為する身体」と同定し、さまざまな新概念を駆使して、独自の身体観を提示する。
- 身体で行為するとき、我々は頭が空っぽになる(「頭空っぽ性」:ギャル男論参照)。
- ドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』における「接続過剰から非意味的切断へ」というテーマも、思考から身体へという転換(意味を考えすぎることから脱し、〈意味のない無意味〉に身を任せることで、行為する人になること)に相当する。
- 「行為する身体」は「パラマウンド」、「不気味でないもの」として概念化される。
ラカン的構図
「我々の思考は〈意味がある無意味〉を中心に空回りしている」と要約できる定式は、ジャック・ラカンの精神分析の理論において、もっとも洗練された形をとっている。
- 一方に、意味を成立させる「イメージ」(=想像界)や「言語」(=象徴界)があり、他方に、意味づけできない「不可能なもの」(=現実界)がある。
- 現実界は、意味づけされた世界における「穴」である。
- この「想像界&象徴界/現実界」という対比は、カントの「現象/物自体」という対比に対応する(フロイト=ラカンは、超越論哲学に「性」の次元を導入した)。
東浩紀(1998)は、このような「不可能なもの」をめぐって組織される思考のあり方を「否定神学システム」と呼び、その外部をどのように考えるかという問題を提起した。
→ 千葉は2000年代のフランス現代思想の展開を追うことで、この問題を再発見する。
物質的なもの
カトリーヌ・マラブーによると、脳の物質的な変化は〈意味がある無意味〉=現実界をめぐる多義性の生成とは異なるレベルで意味の変化を生じさせる。
- 精神分析の理論においては、精神の変化(精神疾患の発症)が、性的トラウマ(現実界)との関係のなかで意味づけられる。
- 脳の物質的な破壊は、トラウマとは無関係に無意味に精神を変化させる。
>ラカン的構図における精神の変化性に対して外的な、物質的な変化性が可塑性(plasticité)と呼ばれる。
- 可塑的な変化は、意味がなく無意味に破壊的な影響を与える。
カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論によると、相関の外部には理由なしに変化する(数的にのみ思考可能な)物質が実在している。
- 相関主義は、相関の外部の実在を思考不可能なものとみなす。
>この思考不可能な実在が〈意味がある無意味〉に相当する。
- この思考不可能な実在のポジションには、どんなに不合理な命題でも代入できる。
> 相関主義は信仰主義に陥る(千葉はこれを「相対主義」と言い換える)
>【疑問】この何でもありの状態が〈意味がある無意味〉をめぐる意味の増殖に相当する?
- メイヤスーは、相関の外部を思考するために非理由律という原理を打ちたて、信仰主義(相対主義)の乗り越えを図る。
> 非理由律は「必然的存在者は不可能である」という原理である。
- 非理由律は、世界がまったくの偶然性で(意味がなく無意味に)変化するという可能性を肯定する。
→ つまりメイヤスーによると、物質的世界は、根本的に変化可能であり破壊可能である。
以上のように2000年代フランスのポスト・ポスト構造主義の哲学者は、物質的なものの破壊・変化可能性を〈意味がある無意味〉をめぐるラカン的構図の外部に位置づける。
→ 物質的なものがただたんに破壊され変化するという可能性が〈意味がない無意味〉に相当する。
千葉は「身体によって意味が有限化され、行為が実現される」ことを論じるが、ここに身体のもつ物質性、すなわち、身体の破壊・変化可能性が関わってくる。
- 破壊的に変化しうるものとしての身体が意味を有限化し行為を実現する。
有限性と行為
事物の意味が有限化されると行為が現実化する。
- 意味の有限化は行為を惹起する。(たとえば、「これは白い半そでのTシャツ、暑い日に着るもの、今日は暑い、だから着る」というふうに)
反対に、事物が多義性だと行為が現実化されず、潜在的な状態にとどまる。
- 意味とは行為するための「取っ手」のようなものである。
- 事物が多義的に捉えられると、どこを掴むべきか選択できなくなり行為できなくなる。
「思考」が事物を多義的に捉えるのに対して、「身体」は意味を有限化させる。
- 思考は関係と意味の極、身体は無関係と無意味の極である。
- 思考は事物を多義的に捉えるため、行為をできなくさせる(思考が行為を潜在化する)。
- 身体が意味を有限化することで、行為が可能になる(身体が行為を現実化する)。
身体による意味の有限化は『動きすぎてはいけない』では「非意味的切断」と呼ばれていた。
- 意味がなく無意味に、意味を有限化すること。
- 以下でも、身体による意味の有限化が非意味的切断と呼ばれる
身体=形態
千葉は「形態」という概念を身体と同じ資格で用いる。
- 身体という語は人間や生命を連想させるので、より抽象的な概念として形態を用いる。
「パラマウンド」も、身体の意味よりもむしろ形態に着目して提案された概念である。
- パラマウンドは身体=形態に相当すると千葉は言うが、それはどういうことか。
以下、「パラマウンド―森村泰昌の鼻」の内容を部分的に見る。
「パラマウンド―森村泰昌の鼻」
森村泰昌の「変身型セルフポートレート」の「女優」シリーズは、女装した自己の姿を撮影することで、性差をめぐる権力関係をユーモラスに乱調するものと一般に評される。
- 森村の身体イメージは、それがもつ政治的なクィアさに着目されることが多い。
→ 千葉はむしろ、その身体イメージがもつ存在論的なクィアさを問う。
千葉は「変身型セルフポートレート」の核となっている「鼻」の形態に着目することで、女装森村の現前性がもつ存在論的なジェンダーを不分明にする。
- 争点となるのは森村の「鼻」の解釈。
- 森村は「変身型セルフポートレート」が、子供時代に「強いコンプレックスの原因」だった「大きな鼻」によって可能になったと語る。
- 精神分析的には、鼻はファルス(理想的な勃起した男性器)の隠喩と解される。
> ラカンはあらゆる「盛り上がり」を勃起と解釈する。
> つまり、精神分析的には女装森村は男性として性別化されてしまう。
- 千葉は、ペニスの「良い形」が「ある」か「ない」かという単純な二者択一によって性別化がおこなわれるというJ-D・ナシオの説を受けて、鼻の形態のうちにはペニスとヴァギナが共存することを「屈託なく肯定しすぎる」ような存在論へと向かう。
> 鼻に隠喩的な意味を見出すことを避け、単純に(≒無意味に)鼻の形態に着目する。
>鼻はペニスのようなマウンド(盛り上がり)であると同時に、ヴァギナのような襞をなすマウンド群(盛り下がり)でもある。
- 「盛り上がり」という身体の形態に着目すれば、二つの性が単純に共存してしまう。
千葉は森村の鼻に着想を得て「パラマウンド」(paramound)という概念を提案する。
- この造語は「マラマウント」(paramount)という語と語の形態が隣接している。
- パラマウントは「至上の」という意味だが、「上に乗る」(mount)こと、すなわち「交尾」という意味も読み込めるため、性的絶頂を表わす語として理解できる。
- パラマウンドとは、パラマウント=性的絶頂の「傍ら」(para)に並立する、非勃起的な「盛り上がり」(mound)のことである。
パラマウンドという概念は、ラカン的な「性化された相関主義」の外部に実在する存在を肯定するという狙いのもと形成された。
- ラカンはあらゆる「有の盛り上がり」を勃起と解釈する(ファルス中心主義)。
- ファルス中心主義=性化された相関主義の外部を扱う千葉の仕事は、思弁的実在論の試みに通じる。
- パラマウンドとは、非勃起的な「有の盛り上がり」、すなわち脱相関的な実在である。
なおラカンは、男性の「ファルス享楽」とは異なる女性に特有な「他の享楽」があることも認めている。
- 〈意味がある無意味〉の外部を問題にする千葉は、他の享楽を思考しているといえる。
千葉がジェンダー・トラブルの存在論を扱うのは、ファルス享楽(相関主義)と他の享楽(実在論)という二つシステムを不分明にすることである。
- 千葉は、他の享楽(実在論)がファルス享楽(相関主義)を超越しているだとか、それを下から基礎づけているなどと主張しているのではないことに要注意(!)
- パラマウンドは、ファルスの「傍らパラ」に、つまり上や下というヒエラルキーの外部にファルスの「分身」として並立する。
- 千葉は、上記二つのシステム(相関主義=ファルス享楽/実在論=他の享楽)を「分身化」する
> 二つのシステムをヒエラルキー化するのではなく、置き変え可能な二つの事実としてただ並立させる。
→ 【問い】千葉の「分身化」という所作も何らかの享楽に従っているのか? そうだとすればそれはどんな享楽?(二つの享楽をあわせもつ女性のハイブリット性、とは違う気がする)
- 【疑問】」性転換ではなく、あくまで倒錯(ギャル男論にも見られる論点)?
パラマウンドを千葉は、「不気味でないもの」(das Un-unheimliche)とも言い換える。
- 「不気味なもの」(das Unheimliche)はフロイトの概念で、ラカンがそれを不安の現象として解釈した。
- 我々は通常、現実界の無限の多義性(=〈意味がある無意味〉)を、身体によって抑圧=有限化することで、「馴染みheimlich」のものと関わっている。
- 現実界の無限の多義性(=〈意味がある無意味〉)が迫り出てくると、意味の有限性が不安定になり馴染みのものに「不気味さunheimlich」を感じる。
- つまり、不気味さとは無限性の迫り出しによる有限性の破れなのだが、千葉が提案する不気味でないものは、有限性の迫り出しによる無限性の破れである。
- 馴染みさと不気味さは互いに前提し合うが、不気味でないものはこの相関性の外部に想定される。
> 無限性の迫り出しは相関性を前提するが、有限性の迫り出しは相関性を前提しない。
- 不気味でないものは不気味さ/馴染みさという相関の外部で、それ自体のみで自足する。
> 不気味なものと相関する通常の馴染みさを「自明性」だとするなら、不気味さとの相関を脱する不気味でなさは「自明性の過剰」である。
- 不気味でなさとは、有限化を引き起こす身体それ自体の性質である。
> 自明性の過剰とは「行為の純粋化」である。
つまり、「不気味でないもの」をめぐる千葉の考察も、相関主義の外部へという思弁的実在論の問題設定に対応している。
- 相関の外部に実在する身体=形態とは不気味でないものであり、それは自明性の過剰という性格をもつ。
ポスト・トゥルース
メイヤスーとマラブーは(そして東も)物質の破壊・変化可能性を問題にしていた。
→ 千葉もこれと対応して、身体=形態がもつ「有限性の破壊・変化可能性」を問題にしている。
第四節で指摘された通り、人間は有限性によって行為を現実化するため、有限性が破壊的に変化するというのは、予想を超えた行為の変化が起こることである。
- つまり、あらゆる他者や私は、何をするかわからない者である。
- 何をするかわからない者同士は、分身的な関係にある。
> 分身的関係=別様でもありえた事実同士の置き換え可能な関係
他者と共存するとは、豹変するかもしれない、裏切るかもしれない身体=形態と隣り合う不安に耐えることである。
諸々の身体=形態の、ただそのように構築されているだけの連鎖を、千葉は「儀礼」と呼ぶ。
- メイヤスーが言うような非-必然的な世界とは、最大規模の儀礼であるといえる。
儀礼的なコミュニケーションは、「社交」と定義される。
- レオ・ベルサーニによると、社交とは他者に対して全面的に関わることではなく、有限な側面だけで関わることである。
- つまり、社交においてひとは、自己を有限化し、自己を「〔自己〕以下」にする。
> ベルサーニは、社交における自己のこのような性格を「以下性」と呼ぶ。
- なおここで言う社交は、対人間的なものだけでなく事物一般との社交も含む。
- 社交における自己の有限化=以下性を、千葉は非意味的切断(身体による意味の有限化)と捉える。
- 事物が全面的な関係のなかにあるのだとしたら、事物の区別ができなくなる。
> ラカン的に言えば、存在する全ての事物(全ての「有の盛り上がり」)が、ファルスの隠喩になり、全てが同じになってしまう、ということだろう。
- 非意味的切断=以下性によって、事物の区別が可能になり、複数性が可能になる。
千葉は、存在一般を儀礼的なものと捉える態度をポスト・トゥルースと呼び、この立場から、相対主義・信仰主義を批判する。
- ポスト・トゥルース的状況は、相対主義的状況と異なる。
- 相対主義=信仰主義は、〈意味がある無意味〉(=真理)を拠り所にして作動している。
- 相対主義的状況において、誰も到達できない「真理」をめぐって生成された「解釈」は、たとえそれがどんなに非合理な解釈であっても、決定的に斥けることができない。
> 非合理な言明を斥けようとする実証科学的な言明も、けっきょくは真理に到達できない一つの解釈にすぎないから、決定打にならない。
> 真理をめぐって、解釈が無限に増殖する。
- 相対主義を斥けるためは、真理=〈意味がある無意味〉を消去し、解釈の無限の増殖を止めなければならない。
- ポスト・トゥルースの状況においては、真理とそれについての様々な解釈がまるごと消去され、根底的にバラバラな複数の「事実」だけが問題となる。
- 事実同士の争いとは、共通の真理を欠いた別の世界同士の争いである。
- 人々が同じ世界のうち共存し、同じ事実を共有するのは、偶然にすぎない
> 偶然的に成立している共同体としての世界=儀礼的なもの
- 共通の真理を前提する相対主義的状況においては、ある解釈を「これこそが真理だ」とごり押しすることがまかり通ったが、ポスト・トゥルースの状況ではそうはいかない。
- ポスト・トゥルースの状況において、同じ事実=世界としての儀礼へと人々を誘い込むような振る舞い(インビテーション)が必要である。
> 異なる事実=世界同士のすり合わせが、すなわち社交である。
自明性の過剰
『動き過ぎてはいけない』以来千葉は、潜在性にプライオリティをおくドゥルーズに対して、現実性の側にもうひとつの原理性を認められないかと思考してきた。
現実的つまり行為的な世界が生じるためには、潜在性の他者、絶対的な他者としての現実性が必要だとするなら、身体こそがそのような他者であり現実性である。
- 「ポテンシャルレス」としての身体=形態
- 「エネルゲイア」(現実態)「エンテレケイア」(完全現実態)としての身体=形態
- 「デュミナス」(可能態)に依存しない「純粋現実態」(神)としての身体=形態
意味がない無意味とは、「そうであるからこそそうだ」という真であることが自明なトートロジーとして言われるしかないような「自明性の過剰」である。
- 【問い】トートロジーの二重性において、自明性の過剰と分身という二つの主題が通じあう(?)
- 【問い】行為する身体というのはある種の「健常な」身体のことなのか。
参考文献
千葉雅也『意味がない無意味』河出書房新社、2018年。