霊魂不死説と魂の個別性について

霊魂不死説と魂の個別性について

はじめに

 これより『パイドン』における霊魂不死説について論じる。ソクラテス[1]によると、魂は死によって肉体から解放され、「教養と自分で養った性格」だけを備えて冥界ハデスへ行く(『パイドン―魂の不死について』153頁(107D))。そして、生前に養っておいた教養と善い性格が死後の命運を決めるのである。このように、ソクラテスは魂が肉体の死後も生前持っていた個性を保持すると考えていたようだが、これは彼の霊魂不死説と矛盾するのではないだろうか。『パイドン』において語られている不死なる魂は個性を持ちえないのである。以下そのような観点から『パイドン』における霊魂不死説(特に「霊魂不死説の最終証明―イデア論による証明―」)を検討する。はじめに、この最終証明で魂がどのようなものとして扱われているかを確認し、その後それが個性を保持するか否かをについて論究する。

 

「霊魂不死説の最終証明―イデア論による証明―」の概要

 まず、最終証明における議論の展開を『パイドン』から確認しよう。ソクラテスは霊魂不死説を証明する前に、「なにか個々の形相が存在するということ、そして、他の事物はこれらの形相にあずかることによって、その形相の名にしたがって呼ばれるということ」の同意を得る(135-136頁(102A-B))。つまり、「各々のものには、それが分有している固有の本質というものがあ」り、「この固有の本質の分有によって各々のものは生ずる」(133頁(101C))という前提が証明の土台となっているのである。

 ソクラテスはこの前提に基づき、「固有の本質」あるいは「形相」は自身と反対のものを拒否する、と議論を展開する。例えば、「大」という形相について以下のように述べられる。

「大」そのものだけが同時に大きくありかつ小さくあることをけっして望まないばかりではなくて、われわれのうちにある「大」もまたけっして「小」を受け入れず、陵駕されることを望まない

『パイドン』139頁(103B-C)

 ソクラテスはこれ以前の議論のなかで「『等しさそのもの』、『美そのもの』、なんであれ正にそのもの自体、正にそれで有るところのもの、は、いかなる変化であるにせよ、変化なるものを受けいれることはまさかあるまいね」と確認している(72頁(78D))。ここで行われている議論もそれと同種のものである。つまり、「形相」は変化を被らず、そのためそれは自身と反対の性質を斥けるのである。

 そして最後に、存在するかぎりある形相と不可分であるような事物ついて論じられる(140-148頁(103C-105E))。例えば、「三」は「奇数」という形相の特徴をつねにもつ。また、上で確認したことから分かるように、「奇数」という形相は「偶数」という形相を斥ける。そのため、「三」はつねに「偶数性」を斥け、そのことから「非偶数的」なものと呼ばれることになる。つまり、「三」のようにある形相と不可分であるような事物については、事物自体が自身の形相と反対のものを斥けるということができるのである。そして、魂はまさにこのようなものなのである。霊魂不死説の証明は「三」の例で確認されたこの定義に魂を当てはめることによって完成する。つまり、魂は「生」と不可分に結びつき、また、「生」は「死」を拒否する。そしてこのことから魂が「死」をつねに斥けることが確認され、魂は不死である、ということが証明されるのである。

 以上が最終証明の概要である。この証明の要点は以下の三つである。第一に、全てのものがイデアを分有しており、そのことによってそのものが成立するということ。第二に、イデアは排他的に自己同一性を保つということ。そして最後に、魂は生のイデアと不可分であるということである。冒頭に掲げたとおりこの報告の主題は不死なる魂が肉体の死後自身の個性を保持し得るか否かであった。これを論じるにあたって注目すべきなのは、イデアと個物の関係である。そのため、ここでは上記三つの要点のうち一つ目と三つ目、つまりイデアの分有によって個物が存在するということ、そして魂が生のイデアと不可分であるということについてより詳しく検討する必要がある。

イデアと個物の関係

 まず以下の記述を検討し、イデアと個物の関係を明らかにする。

「そこで僕は」とあの方は言われました、「他のあのような賢い原因については、学びもしなければ、理解することもできないのである。いや、もしだれかが、何か美しいことの原因として、輝かしい色をもっているとか、形とか、何にせよ他のこのようなことを挙げたとしても、そういうものは全て僕を混乱させるから。これに対して、僕は単純に、素直に、そして恐らくは愚直に次のようなことを固く保持しているのである。すなわち、これらのものを美しくあらしめているのは、他ならぬかの美そのもの臨在か、それの共有か、あるいは、両者の関係がどうであろうとそれは構わない。この点については、僕はこれ以上なにも強く主張しない。ただ僕は美によってすべての美しいものは美しい、と主張するのである。(以下略)

131頁(100C-D)

 この引用部分には「何か美しいことの原因」についての二通りの主張が提示されている。ひとつは「輝かしい色」や「形」を「何か美しいことの原因」とするものであり、ここではアナクサゴラス的な「原因」が想定されている。この原因は要するに、個々の美しいものが実際に持つ特徴を挙げたものである。ソクラテスは、このような個物の特徴を美の原因とする主張を批判し、「美によってすべての美しいものは美しい」と主張する。ソクラテスにおいて個物の特徴は本来的な原因ではなく、「美そのもの」が「すべての美しいもの」を美しくしているのである。

 さらにソクラテスは、「前提そのものに拘泥」し原理や原因を問いもとめる者は「前提から帰結する事柄が相互に調和するかしないかを考察する」必要があると説き、そして、個物の特徴を原因とするアナクサゴラス的な主張を、「原理(前提)について話しながら同時にその原理(前提)からの帰結についても話したりして、議論をごた混ぜにする」ものとして批判する(134頁(101D-E))。つまりソクラテスは、原理と帰結を峻別する必要性を説き、個別的な事物を原理からの帰結としてのみ考察することを勧めるのである。

 この方法で原因を追究する場合、常に個物の個別的な特徴を超える原理だけが原因として採用されることになる。たとえば「美そのもの」が何かを問うならば、すべての美しいものに批准するような同一の形相を問い求めることになり、限られた事例だけに当てはまる特徴を「美そのもの」とすることはできないだろう。つまり、個別性は常に捨象され普遍的に通用する純粋な原理だけが取り出されるのである。

 以上の考察から、イデアと個物の関係について次のように述べることができる。つまり、イデアは個物の個別性を超越するものとして考えられるべきものであり、純粋に同一のものとして個物に分有されるのである。

魂と「生の形相」の関係

 では、次に霊魂不死説の最終証明における三つめの要点、魂と生の不可分性について詳しく見ていく。

 すでに確認したように霊魂不死説は、ある形相が対立する形相を退けるということ、つまり、イデアが排他的に自己同一性を保つということを基礎にして展開している。そして、このようなイデア論に則って霊魂不死説を証明するためには、魂がイデアと結び付けて考えられる必要ある。つまり、生が死と対立するということを根拠に魂の不死を証明するためには、魂が「生の形相」に不可分に結びついていることが確証される必要があるのである。

 ソクラテスはこの結びつきを、「三」と「奇数性」という形相の関係と類比的に説明していた(141-148頁(103E-105E))。「三」が奇数であると同様に、魂は「生の形相」をもつのである。この説明はある程度まで有効である。しかし、ここでソクラテスが示している魂と「生の形相」の結びつき方は全面的なものではなく限定されたものではないだろうか。まず、ソクラテスのこの議論の展開を詳しく見ていこう。

 ソクラテスはこの議論において、「『三』のイデアがある事物を占拠すると、その事物は必然的に三であるばかりでなくて、奇数でもある」ということ、そして「そのもの(=「三」)をそのもの(=「奇数」)たらしめている特徴が「奇数性」」であり、それが「偶数性」と「反対である」ことを確認する。このことから、「三に対しては、偶数のイデアはけっして近づか」ず、「三は偶数と関わりがない」ような「非偶数的なもの」ということが確証されるのである。これと同様に魂についても、「なんであれなにかを占拠すると、そのものに常に生をもたらす」ことが確認され、「自分が常にもたらすもの[生]とは反対のもの[死]を、けっして受け入れない」ということ、「魂は不死なるものだ」ということが確証される。

 ここでソクラテスは、ある事物Aになんらかに形相aが不可分に伴うこと、そしてその形相aが自身と反対の形相bを退けるということから、その事物Aが自身のもつものと反対の形相bを退けるという議論を展開している。この議論の展開には警戒すべき点がある。というのも、事物Aは形相aだけではなく形相cをもつこともありうるのである。そしてこの形相cが形相aと特に対立するということはない。それゆえ事物Aが全面的にaであり、全面的に非bであるということを主張することはできないのである。

 ソクラテスが用いた「三」の例を用いて説明しよう。まず、「三」が持つ性質は「奇数性」だけではない。「三」をほかの奇数から差別化するような性質が存在するのである。例えば、「三」は「一」より二つ大きく、「七」より四つ小さい。このように「三」はほかの奇数に比較して、幾分か大きく幾分か小さいという性質をもつのである。そして、この性質自体がとりわけ奇数的であり、「非偶数的」であるということはない。つまり、「三」のもつすべての性質をあえて「奇数的」であり「非偶数的」であるということは出来ないのである。

 これと同じことが魂の議論についてもいえる。というのも、魂が「生の形相」を不可分にもっていたとしても、これだけで魂のもつ性質をすべて表現できるわけではない。それゆえ、魂がもつ「生の形相」以外の特徴がとりわけ「死」と対立するということはなく、この特徴をあえて「不死である」ということはできないのである。つまり、「霊魂不死説の最終証明」では「魂が全面的に不死である」ということまで証明できたわけではないのである。

不死なる霊魂は個別性をもち得ない

 さて、以上の考察で霊魂不死説についての二つの洞察を得ることができた。第一にイデア(=形相)は個別性を超越するものであり、純粋に同一なものとして個物に分有されるということ。第二に「霊魂不死説の最終証明」では魂の不死を全面的に証明できてはおらず、「生の形相」以外の特徴の不死を証明できていないということである。

 ソクラテスの最終証明は魂の不死を「生の形相」に基づいて証明していた。第一の洞察より、この「生の形相」は個別性を超越するものであり、すべての魂が普遍的にもっているような特徴しか含意していないということが分かる。そのため、ソクラテスが行った証明では魂の個別的な特徴が不死であるということまでは証明できていないのである。

 しかし、ソクラテスは魂が肉体から解放されたのちも魂が自身の個性を保持すると考えていたようである。例えば、ソクラテスは以下のように述べる。

さて、端正な賢い魂は、この導き手に進んで従うが、あの世で彼が出会うものは、かれにとって未知のものではない。これに対して、肉体への執着で一杯の魂は、先にも言ったことだが、長いあいだ肉体のこの目に見える世界のまわりをうろつきまわり、さんざん反抗し、たくさん痛い目にあって、無理やりに、やっとのことで、その任に定められたダイモンによって連れ去られてゆくのである。そして、他の魂たちが集まっているところに到着すると、浄められていない魂、なにか不浄な行いを犯した魂、すなわち、不正な殺人に関わったり、なにか他のそれと同類の仕業とか、あるいは同類の魂がなすような仕業をしでかした魂は、すべての人によって逃げられ避けられて、誰もかれに同行者とも導き手ともなろうとしない。そのような魂は、ある一定の時が来るまで、まったく途方にくれてさ迷うのだ。その時が来ると、その魂にふさわしい住処へ否応なしに連れていかれるのである。これに対し、浄らかにまた端正にその生を送り終えた魂は、神々が同行者ともなり導き手ともなってそれぞれが己にふさわしい場所に住むのである。

154-155頁(108A-C)

 この引用箇所では、「端正な賢い魂」と「肉体への執着で一杯の魂」がそれぞれ自身の性質にしたがって肉体の死後異なる命運をたどるということが描かれている。「魂がハデスに赴くにあたってたずさえて行くものは、ただ教養と自分で養った性格だけであり、これらのものこそが、死出の旅路の始めからすぐに死者をもっとも益しあるいは害すると言われているものなのである」。そしてそうであるが故に、魂は「自分自身の救済」を行うべく、「できるだけ善くまた賢く」ならなければならないのである。

 しかし、すでに見てきたようにソクラテスの証明は、霊魂が個別的にもつ性質の不死性までは証明できていない。そのため、上述の引用で述べられているように、魂が自身の性質にしたがって利益や害悪を得る、ということを『パイドン』における証明では確証できないのである。ソクラテスの証明が「生の形相」に依存するかぎり、そこで証明することができるのは形式的な魂の不死である。それにもかかわらず、ソクラテスはこの証明で個別的な魂の不死まで正当化しているのである。

 このようなソクラテスの誤謬は、形式的な魂と個人の魂を混同していることに起因する。霊魂不死説の証明を整合的に通用させるためにはこの両者を明確に区分する必要があるのではないだろうか。ソクラテスの証明は、個別性を排した形式的な魂に関わる限りでその真価を発揮するのである。

客観的な認識の土壌

 では、魂の不死を証明可能な本来の範囲に限定して考察するならば、それはどのようなものとして理解されるべきなのであろうか。まず、上で示唆した形式的な魂がどのようなものかを明らかにする。

 形式的な魂について考察するにあたって、『パイドン』にはある次の一節を参考にすることができる。

「(前略)それとも、君には等しさそのものがこれらの等しい事物とは異なる、とは見えないかね。では、次のようにも考えてみたまえ。等しい石材とか等しい木材とかが、時に、同じものでありながら、ある人には等しく見え、他の人には見えない、ということがあるのではないか」
「はい、たしかにあります」
「ではどうだ。等しさそのものが不等であると君に見えたり、等性が不等性であると見えたりしたことが、かつて一度でもあるか」
「けっしてそんなことはありません、ソクラテス」
「そうすると、これらの等しい事物と等しさそのものとは同一ではないのだ」

58-59頁(74B-C)

 このように、ソクラテスは、同一の事物が「ある人には等しく見え、他の人には見えない」と述べる。見る人が違えば同一の事物であっても別様に認識されるのである。しかし、それに対して「等しさそのもの」は常に「等しさそのもの」としてのみ認識される。つまりソクラテスはイデアが客観性をもつということを念頭に置いているのであり、「等しさそのもの」は単に一人の人間にとって常に同一なものとして認識されるのではなく、全ての人にとって同一なものなのである。

 これにつづいて、ソクラテスは「感覚を働かせ始める以前に、われわれは等しさそのものが何であるかについての知識をどこかで得てしまっていたのでなければならない」(62頁(75B))と議論を展開する。つまりソクラテスは、人によって認識が異なることの原因が「感覚」の不確かさにあるとしているのである。

 この後の議論でソクラテスは「感覚を通してなにかを考察するということは、肉体を通して考察することに他ならない」とし、「肉体の助けを借りる場合」、「魂は肉体によって一時も同じ有り方を保たない」(75頁(79C))と述べている。つまり、感覚の不確かさの原因は肉体による魂の非同一性にあるのである。そして、このような事情からソクラテスは、「等しさそのもの」の知識を得たのは魂が肉体に囚われる以前であると考える。客観的な認識がありうるためには、「魂が純粋に自分自身だけになり」それが「いつも恒常的な同一の有り方を保つ」必要があるのである(76頁(79D))。

 しかし、この説明は十分でない。上で確認したように、ソクラテスは「賢い魂」とそうでない魂があると考えていた。ソクラテスがいうように「賢さ」という点で個々の魂が異なるのであれば、それらの魂がそれぞれ同一の事物について別様の認識をえるということは十分にありうる。つまり、魂が肉体から解放されていたとしても自分自身が「いつも恒常的な同一の有り方を保つ」ことまでしか保証できず、それだけでは別々の魂のあいだに違いが存在するという問題を克服することはできない。客観的な認識が成立するためには自分自身の恒常的な同一性だけでなく、個別性を越えてすべての魂が同一性を保つ必要があるのである。

 以上で、イデアが客観的なものとして認識されるためには個々の魂が純粋に同一でなくてはならないということが確認できた。ソクラテスが証明した不死なる魂もこのような純粋に同一な魂として理解されるべきではないだろうか。最終証明は魂がもつ「生の形相」に基づくものであった。そのため魂が客観的な認識をえることができるか否かが最終証明の是非に直接関わるわけではない。しかし、霊魂不死説の最終証明と『パイドン』におけるそれ以前の議論(例えば想起説)が一貫性を保つためには、証明された不死なる魂が客観的な認識の可能性の条件を満たしている必要があるだろう。つまり、最終証明における不死なる魂は個性をもたない純粋に同一な魂として理解されるべきなのである。

哲学とは相互主観的な営みである

 しかし、個別性を越えて同一性をもつ魂が『パイドン』で論じられることはない。そのため、この純粋に同一な不死なる魂についての積極的な規程を『パイドン』から得ることはできないのである。そこで、このような魂を論じている別の哲学者のテキストを参照してみよう。

 例えば、晩年のフッサールは「幾何学的対象」のような「理念的(イデア的)対象」が歴史的に発生し継承されるものとし、そのうえで、「全歴史性を貫く目的論的理性」の存在を説く(「幾何学の起源について」『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』533-534頁)。そして、フッサールはこの「目的論的理性」に関連して以下のように述べる。

「精神的形態としてのヨーロッパ」とは、一体何なのでしょうか。それは、ヨーロッパ(=精神的ヨーロッパ)の歴史に内在する哲学的理念を示します。同じことですが、それは普遍的人間性一般という観点から見た場合、人間の新時代の出現、あるいは発展の出発点として明らかにされるような目的論、すなわち、理性の理念に基づき、無限の課題を担っている人間の現実存在や歴史的生活が、以後、自由な形態で営まれていくだろうし、また営まれうる、そういった人間の時代の発端として明らかにされるヨーロッパの歴史に内在する目的論なのです。/いかなる形態の精神であれ、それらはすべて本質的にある歴史的空間のうちに、あるいは同時的存在と継続的存在とに従った歴史の特殊な統一性のうちに、存在するものです。つまり、それらは自己の歴史をもっているということです。(中略)このように追及を進めてゆけば、人間性とは、様々な型の人間性と文化で満ちている、だが流動しつつ互いに流れ込んでくる、精神的関係を通じてのみ結ばれている一つの人間生活、民族生活として現われてくるでしょう。それは海のごときものであり、その海のなかで人間たちや諸民族が、あるものは一層豊かに一層複雑にもつれあい、あるものは一層原初的に、迅速に形成され、変化し、そして再び消滅していく波に譬えられます。

「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」『30年代の危機と哲学』34-35頁

 以上の引用箇所で、フッサールは「人間の時代」の「発端」となるような「目的論」、「哲学的理念」として「精神的形態としてのヨーロッパ」を論じている。フッサールは学問一般の発端が歴史的に普遍的な「ヨーロッパ精神」にあると見ていたのである。そして、そのヨーロッパの精神は「歴史の特殊な統一性」のうちに存在するのである。歴史の中で「様々な型の人間性」と「文化」が「流動しつつ互いに流れ込」み、人間性は個人や個々の文化を超越した「一つの人間生活、民族生活として現われてくる」のである。

 このことから、フッサールもソクラテスと同じように、時間の流れに依存せず永続する、哲学する主観性を想定しているということができる。しかし、両者の主張する主観は大きく異なっている。ソクラテスが説く不死なる魂は個人として永続しに、対してフッサールが説く「ヨーロッパ精神」は歴史的普遍性として継承されるという形で「無限性」をもつのである。

 また、フッサールは以下のようにも述べる。

いかなる種類の認識系列もいかなる個々の真理も、絶対化されたり孤立化されたりしてはなりません。自ら無限な課題の分枝の一つになろうという非常に高い自己意識をもって初めて、哲学は、己れ自らを発展させようとする機能を果たすことができ、またそのことによって真の人間性を発展させる機能を果たすこともできるのです。

「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」『30年代の危機と哲学』76頁

 フッサールの記述と照らしてソクラテスの主張を検討するならば、彼の説く不死なる魂はまさにここで批判されている「絶対化」、「孤立化」に陥っているのではないだろうか。ソクラテスにおいてもイデアは客観的なものとして考えられていた。そうだとするならば、「ものそのもの」を認識しようとする哲学は万人に開かれた「無限の課題」として認識されるべきではないだろうか。そして、哲学その本性からして相互主観的に「共同研究」されるべきものなのである。そのため、哲学することによってソクラテス個人の魂が「浄化」され、そのことが死後も彼の魂を「益する」という考えは哲学にはそもそもなじまないのである。

 ソクラテスが主張するように哲学する魂は確かに「不死」かもしれない。しかし、その魂は歴史的に複数の主観に継承される一つの精神として理解されるべきなのではないだろうか。

まとめ

 以上の考察で、ソクラテスの霊魂不死説では魂の個別的な特徴の不死までは証明できないということ、そして客観的な哲学に従事する魂はむしろ個々の魂を越えて同一であると考えるべきであることが明らかになった。つまり、『パイドン』における霊魂不死説の証明は「哲学する魂」の不死を証明することはできたかもしれないが、ソクラテスその人の魂の不死を証明することはできないのである。

 ソクラテスが以上のような誤謬に陥ったのは「個人としての生」に未練があったからではないだろうか。そう考えるならば、個人として永遠に生きようとするソクラテスの態度よりも、フッサールの主張するように「自ら無限な課題の分枝の一つになろう」という態度で自らの死に臨む方がよっぽど「端正」で「賢い」というべきである。個人としての生へ執着せず真に哲学的な態度で魂の不死を考察するならば、その不死なる魂はフッサールが説くように共同主観的なものとして理解されるべきであろう。

参考文献

日下部吉信『プラトニズム講義・4講』晃洋出版、2012年。

フッサール著、細谷恒夫・木田元訳「幾何学の起源について」『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中公文庫、1995年。

同上、清水多吉・手川誠士郎編訳「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」『30年代の危機と哲学』平凡社ライブラリー、1999年。

プラトン著、岩田靖夫訳『パイドン―魂の不死について』岩波書店、1998年。


[1] プラトンの著作を用いてソクラテスの思想を論じる場合、「この両者を載然と区別することは不可能」である。(日下部吉信『プラトニズム講義・4講』晃洋出版、2012年、p.16)今回はこの両者の区分を厳密に論究することは避け、『パイドン』でソクラテスの思想とされているものを便宜上ソクラテスの思想として扱う。

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