『声と現象』第五章における『内的時間意識の現象学』批判の検証

『声と現象』第五章における『内的時間意識の現象学』批判の検証

はじめに

 デリダは『声と現象』第五章「記号と瞬き」においてフッサール『内的時間意識の現象学』(の要解はこちら)(以下『時間意識』)を批判的に論じている。今回の主題はデリダによる批判を検証し、フッサール時間論をより明確化することである。まず初めに『講義』第二章までの概要を示す。デリダによる批判と関連する箇所を優先的に取り上げつつフッサールの記述を追って見ていこう。

『内的時間意識の現象学』第二章までの概要

 『時間意識』においてフッサールは「アプリオリな時間法則」(第二節、37頁)への通路を、ブレンターノの学説を批判する(66−83頁)ことによって手に入れる。そしてこの学説の動機となっているのが以下のような思想である。それはつまり「{〔時間的な〕対比関係(Verhältnis)を表現している}これらの表象すべては、〈表象する〔作用〕〉それ自体が時間的に継起して〔そのつど〕すっかり消えてしまうとしたら、不可能だったことだろう」(第七節104頁({中括弧}内は筆者の補足)というようなものである。そして「この捉え方(Auffassung)にとっては、〈ひとつの時間区間の直観は、ひとつの今において、ひとつの時点において、生じる〉といったことが、まったく避けようのない想定に見える」(第七節、104-105頁)。フッサールはこの考え方を批判する。しかし、後の議論でフッサールは「把持それ自体がまたもや〈ひとつの今〉、〈ひとつの現下的に現にあるもの〉なのである」(第七節105頁)と述べるが、このことから彼が上記の考え方の一部を受け継いでいることが分かる。つまり、時間的客観[1]全体が今意識されている限りその客観の「過ぎ去った」部分は今知覚されているといわれるのである。

 ところが一方で、フッサールはこれと両立しないように思える洞察も示している。彼は「時間的変様は、時間契機と呼ばれるひとつの契機―(中略)―が付け加わってくることによって理解されうる」(第六節、79頁)というブレンターノの学説を批判して、「〈Aが意識のなかに―新たな契機が結びつくことによって―現在的にある〉ということからは、(中略)〈Aは〔(まさに)あったが〕過ぎ去った〉(es sei A vergangen)ということを説明することができない」(第六節80-81頁)と述べる。そして、フッサールはブレンターノの対抗馬としてシュテルンの学説を取り上げる。それは「〔瞬間的でなく〕時間的に延長した意識内容にもとづいてはじめて統握(Auffassung)が生じ、この統握が時間区間(いわゆる「現前時間」(„Präs-enzzeit‟))へと広がる(第七節、105頁)という説である。つまり「〔まとまった全体としての〕メロディ」を生じさせる「もろもろの心的な出来事」はそれ自体〈ひとつの次に他のひとつという順序系列〉(第七節106頁)として与えられるのである。フッサールはこの考え方についても一部を受け継いでいる。彼は「時間的な〈存在〔=ある〕〉はいずれもみな、なんらかの〔時間〕様態、そしてなんらかの連続的に変転する〔時間的な〕経過様態のなかで『現出する』」(第九節、116頁)と述べる。つまり、「意識されてある」すべての存在は縦の時間系列のなかで恒常不断に過去方向へ退いていくのである。

 このように時間意識は相反するふたつの性格をもっている。つまり一方で「〈いつも新たな音-今〉は〈変様に移行した音-今〉に恒常不断に交代する」。ところが他方で、「音-今についての意識すなわち原印象が把持へと移行するときにも、この把持それ自体がまたもや〈ひとつの今〉、〈ひとつの現下的に現にあるもの〉なのである」(第十一節120頁)。このような記述が示している時間の両性格は「流れる現在」と「立ち止まる現在」として表現することができるかも知れない。つまり、フッサールは明証性一般の可能性を保証する「立ち止まる現在」を堅持する。しかし、その同一性を破壊するかにみえる「原印象」の「途切れなき変転」(=「流れる現在」)もまた彼のブレンターノ批判を支える一つの根拠となっているのである。

 最後にフッサールが「完全な図像である」と評する縦と横の交差する時間軸(=時間図式)について確認しよう。フッサールはこれに関連して以下のように述べる。「〈客観の持続〉の経過様態たちの連続性に、その持続〔を形作るところの〕それぞれの点の経過様態たちの連続性を対置して〔比較して〕みると、後者は、もちろん、あの最初の〔=〈客観の持続〉の〕経過様態たちの連続性に含まれている」(第十節118頁)。この引用部分は〈客観の持続〉をつくるところのそれぞれの点がそれ自体で経過様態(=縦の経過連続体)をもっており、この縦の経過連続性は始点(=今点)において客観の持続(=横の経過連続性)に含まれているということを意味していると読める。つまり客観的時間に今点において交わる縦の時間系列という考え方はまさに「流れる現在」と「立ち止まる現在」を両立させているということができるのである。もしフッサールが、ブレンターノのように過去が現在において意識されるということを単純に認めるのであればこのような縦の時間系列を考慮する必要はなかったであろう。その意味でも時間の「流れる性」と「立ち止まる性」の両契機は『時間意識』に不可欠な要因となっているのである。

デリダのフッサール時間論批判

 では以上を踏まえて次はデリダによる批判を見ていこう。

 デリダによる批判の大枠は「現在の分割不可能な統一性」がフッサールの時間論の「全責務を担っている」と断じ(『声と現象』135頁)、そのうえで「Augenblick〔瞬間〕の自己同一性の中に他者」の存在を指摘する(144頁)ことによってフッサールの論証を突き崩そうというものである。より具体的にいうとデリダは『時間意識』において主張される一次想起(=過去把持)と二次想起のあいだの差異を問題にする。フッサールはこの差異を、「知覚と非-知覚のあいだの差異」とするのに対して、デリダはこれを「非-知覚の二つの変様のあいだの差異なのである」とし、そこに根底的な差異を認めない(鉤括弧内は共に144頁より引用)。デリダからすると、過去把持は非-現前性との関わり方の一様態に過ぎないのである。このように過去把持を捉えなおしたことによって、フッサールが説く現在の点性、同一性は崩壊する。

 さて、以上のような批判を検証するにあたって特に注目すべきなのはデリダが依拠している以下の二文である。一つ目が『時間意識』第一六節の一文「〈知覚〉という言い方を〈〔時間的な〕所与性の諸区別〉―時間客観はこうした諸区別を持って登場するのだが―に関係づけるならば、そのとき知覚に対立するのは、ここで登場する第一次記憶および第一次予期(把持および予持)であり、この場合、知覚と非-知覚は連続的に〈ひとつの内に他のひとつ〉というように移行する」(138頁(『声と現象』143頁))である。そして、もう一つは第一七節の「〈すべての「根源」をおのれのうちに含む作用〉、〈原本的に構成する作用〉を知覚と呼ぶのであれば、第一次記憶〔=把持〕は知覚である」(142頁(『声と現象』142頁))という一文である。

 この二文をデリダは食い違っているものとして読む。つまりデリダによると、フッサールは「知覚と過去把持のあいだに根底的な断絶はないと思いたがっている」(142頁)のであり、第十七節の「一次記憶(=把持)は知覚である」という記述はフッサールの願望の表れにすぎない。そして、「生き生きとした今は、非-知覚としての過去把持と連続性においてしか、知覚の絶対的源泉として構成されない」ことを明白にする第十六節こそが「経験と『事象そのもの』に対する忠実さ」に由来する記述なのであり(146頁)、これがフッサールの「現前の形而上学」を「ぐらつかせる」のである。

 このようにデリダは、「知覚と非-知覚の連続的な移行」という記述はフッサールの願望に反するかのように主張する。しかし、本報告の前半で述べたように『時間意識』におけるブレンターノ批判は「流れる現在」によっても動機づけられていた。「知覚と非-知覚は連続的に〈ひとつの内に他のひとつ〉というように移行する」ことはフッサールにとって最も基本的な事実の一つなのである。このことを踏まえると、デリダは誤った前提にもとづいて『時間意識』を論じている可能性がみえてくる。『時間意識』の第十六節全体の文脈を踏まえつつデリダの誤読の可能性を探ろう。

デリダの誤読の可能性––『内的時間意識の現象学』第一六節の検討

 第十六節でフッサールは「知覚(„Wahrnemung”)」の説明を行っている(134頁)。ここで問題となるのは、メロディの〈通り過ぎた音たち〉を保持する機能、つまり把持が、ある時には非-知覚として扱われ、またある時にはそれが知覚として扱われていることである。フッサールはこの語義の動揺に対応すべく、ふたつの場合に分けて「知覚」の意味を説明する。

 フッサールはまず「時間客観の把握」が問題になっている場合について説明する。この場合、フッサールは「時間客観それ自体を与えるという要求を掲げる作用〔=知覚〕はそれ自身のうちに「今統握〔作用〕」、「過去統握〔作用〕」などを含んでおり、根源的に構成する作用という様式で、それらを含んでいる」と述べる(139頁)。ここでいわれている「過去統握」は明らかに把持を意味しているが、これはつまり「時間客観の統握」が問題になる場合、把持は知覚に含まれていることを意味する。この意味での知覚を本報告では「広義の知覚」と呼ぶ。

 次にフッサールは「〈知覚〉という言い方を〈〔時間的な〕所与性の諸区別〉」と関係づけてその意味射程に言及する。「知覚と非-知覚〔=把持および予持〕は連続的に〈ひとつの内に他のひとつ〉というように移行する」(139頁)。このように時間的位相の区別に焦点をおくならば「その瞬間に〈過ぎ去った〉として直観されるものは、知覚されてあるのではない」のである。つまり「狭義の知覚」には把持が含まれないのである。

 デリダが読み落としているのは二つ目の場合、「狭義の知覚」が記述されるのがどのような観点においてかである。というのも、把持が知覚から締め出されるのは「〈知覚〉という言い方を〈〔時間的な〕所与性の諸区別〉」に関連づけた場合に限ってのことなのである。ところがデリダはこのことに十分注意を払っているとはいえない。それどころかデリダは、ここでの把持を非-知覚とする考え方を『時間意識』全体にまで押し広げて論じている。

 今問題になっている箇所の少し前の記述を見てみよう。フッサールは第十六節の第一段落末尾で以下のように述べている。

 思念する志向がメロディに、すなわち客観の全体に向かう場合、われわれがもつのは知覚にほかならない。けれども、思念する志向が個々の音それだけに、あるいはひとつの拍それだけに向かうならば、まさにこの〈思念されているもの〉が知覚されてあるかぎり、われわれは知覚をもち、また、その〈思念されてあるもの〉が〔あったが〕過ぎ去ったならば、われわれは単なる把持をもつ。〔このような事情から〕客観側からの観点では、その〔把持に対応する〕拍が現出するのは、もはや「現在的」としてではなく、「過ぎ去った〔=過去的〕」[として]である。

『時間意識』134頁

 この文章は上で示した二つの場合における「知覚」の意味射程についての議論とよく類似している。つまり、「思念する志向がメロディに、すなわち客観の全体に向かう場合」が上でいう「時間客観の把握」が問題になっている場合に対応し、「思念する志向が個々の音それだけに、あるいはひとつの拍それだけに向かうならば」が「〈知覚〉という言い方を〈〔時間的な〕所与性の諸区別〉」と関係づけた場合に対応しているのである。それを踏まえて下線部の「客観側の観点では」に注目したい。この言葉遣いは、把持が「過ぎ去った」とされるのは「客観側」に立った場合であることを示している。つまり、このことからは〈〔時間的な〕所与性の諸区別〉や「知覚と非-知覚〔=把持および予持〕は連続的に〈ひとつの内に他のひとつ〉というように移行する」、「この理念的な今さえも、非-今とまったく異なったものではなく、連続的に非-今と媒介しあっている」(141頁)といった記述は客観側からなされたものであるということが読み取れるのである。

 そうであるならば、デリダが取り上げている文章は別様に解釈されなければならない。「〈〔時間的な〕所与性の諸区別〉―時間客観はこうした諸区別をもって登場する」。そして、「時間客観それ自体を与えるという要求を掲げる作用〔=知覚〕は、「今統握〔作用〕」、などを含んでおり、しかも、根源的に構成する作用という様式で、それらを含んでいる」のである。つまり、フッサールが「狭義の知覚」を規定するさいにとりあげた「理念的な今」はより根源的な「広義の知覚」の中で構成された「時間客観」の一部分、「それだけではなにものでもありえない抽象的なもの」に過ぎないのである。

デリダを超えて––フッサールの時間論は変転する時間論である

  さて振り返ってみると、フッサールの論証の要である今に亀裂をいれその時間論をぐらつかせるのがデリダの狙いであった。しかし、デリダが亀裂を見出すのは客観の視点から抽象された理念的な今でしかない。では、そのいわば派生的な今が本当にフッサールの論述の「全責務を担っている」ということはできるだろうか。この想定には無理があるといわざるを得ないだろう。

 確かにフッサールが「時間客観それ自体を与える知覚」という作用に「統一性」を主張する文脈はある。フッサールのこのような主張の根底には明証性一般の可能性を保証しようというたくらみが隠されているという推測はできなくはない。しかし、そのような意味で『時間意識』の明証性を支えているのは「理念的な今」というより「把持-原印象-予持」を含みこんだ「幅のある今」である。実際、フッサールが客観側からみた抽象物としての今に「同一性」を求めている文脈など一度も登場せず、『時間意識』の中で繰り返し言及されているのはむしろ客観的な時間における今の変転である。つまり、第一六節の「狭義の知覚」にまつわる議論を根拠に『時間意識』全体をぐらつかせるというデリダの試みはそもそも的はずれだったのである。

 最後に『生き生きとした現在』の解説の新田義弘の文章を引用しまとめとする。

デリダに代表されるフッサール時間論への批判は、フッサールの現象学を現前の形而上学とみなす有力な手掛かりを与えている批判であるが、しかしこの批判は「生き生きとした現在」の分析が示した一つの側面すなわち「とどまる今」として理念化された現在にもとづいてすべての認識を基礎づけようとする傾向に対する批判としては正当であるにしても、「生き生きとした現在」がそれ自体、原受動的に生起する両義的事態である限り、この批判も当を得たものとはいえない。

『生き生きとした現在』305頁

 ここで述べられている原受動的な「生き生きとした現在」と『時間意識』を直ちに結びつけることはできない。しかしこれまで論じてきたように『時間意識』においても「現在」が両義的に捉えられていたという解釈は十分可能であるように思える。このことを踏まえれば、デリダのようにフッサールの現象学を「現前の形而上学」と断じ、その時間論を「今の同一性」に偏ったものであるかのように扱う読み方はあきらかに不当であるといえるだろう。むしろフッサールの時間論は存在が「変転する」という事実を深く受け止めたものである。そのように解釈するほうがより『時間意識』の実像に近いのではないだろうか。

参考文献

エトムント・フッサール著、谷徹訳『内的時間意識の現象学』ちくま学芸文庫、2016年。

ジャック・デリダ著、林好雄訳『声と現象』ちくま学芸文庫、2005年。

クラウス・ヘルト著、新田義弘他訳『生き生きした現在』、北斗出版、1988年、解説。


[1] 「時間客観」とは例えばメロディのことである。

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