「社会」から「シャカイ」へ
『戦う姫、働く少女』において河野真太郎が提唱した概念。「セカイ系」をもじって「社会」がカタカナで表記される。
「セカイ系」とは、「きみとぼく」の個人的な人間関係が、国家や社会などの中間項を経由せず、ひと飛びに世界の問題に通じてしまう物語を指すとされる(代表的な作品として、庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』、新海誠『ほしのこえ』、高橋しん『最終兵器彼女』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』、村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』など)。それに対して「シャカイ系」の作品では、ある意味では社会しか描かれていないとすらいえるほど、社会が描かれている。
しかし、その「社会」は、必要に応じて個人を適切に援助、保護する福祉国家的な「社会」ではなく、個人の競争が全面化した新自由主義的な社会であり、機能不全の官僚制度によって代表される無能な「シャカイ」である。
代表例として挙げられる『Doctor-X 外科医・大門未知子』では、大学病院という「社会」が、たしかに描かれてはいる。しかしその社会は、第一に「官僚的で非効率な「白い巨塔」としての大学病院」であり、第二にその官僚的体制は、有能なフリーランスの外科医大門未知子によって、痛快に打倒されるために存在している。ほかに、元敏腕営業マンの刑事青島俊作によって、非効率な官僚的警察組織が批判される『踊る大捜査線』も、同種の構造をもつ物語である。言ってみれば「シャカイ系」における「シャカイ」は、有能な個人によって批判されるための無能なヒール役として、あるいはそうした新自由主義的な勝者が活躍するための場として、描かれているのである。
隣接領域との関係
「社会」から「シャカイ」へ。ここに河野はいくつかの社会的な移行を結びつけていく。
(フォーディズム → ポストフォーディズム)
福祉国家 → 新自由主義
ウェルフェア(福祉)→ ワークフェア
施設化 → 脱施設化
(フェミニズム → ポストフェミニズム)
先ほど触れた大門未知子は、女性の社会的地位の向上を妨げる「ガラスの天井」を打ち破り、「前をはだけた白衣」に「スカートやホットパンツ」といった出で立ちで、「女性性を前面に押し出すポストフェミニスト的人物」である。こうした大門の活躍は、一方でジェンダー間の平等を目指したフェミニズムの成果だが、だからこそ彼女(ら)は「社会」に期待することなく、自力で道を切り開かなければならない。
そうした社会はまた、社会的弱者を福祉で保護するのでなく、すべての人に就労を促す「ワークフェア」の社会でもある。「シャカイ系」は、福祉国家的なものを無能な官僚組織に代表させることで、福祉国家への批判となっていると考えることもできるのだが、そうして「社会」による福祉(ウェルフェア)を細らせる新自由主義状況では、個人はそれぞれの状況に応じて「働く」(ワーク)ことが期待されるほかないのである(ちなみにワークフェア社会とその悲惨を描いたのがケン・ローチ監督『わたしは、ダニエル・ブレイク』だとされる)。
さらに新著の『新しい声を聞くぼくたち』で、河野はこの「シャカイ系」を、ハンセン病や障害にたいする政策の、「施設化」から「脱施設化」への移行とも結びつけている。顔面や手足の変形を引き起こすハンセン病は酷い差別を引き起こし、国は長く「施設」への非人道的な終生隔離政策をとってきた。これに対する人権・解放運動は、当然「脱施設化」を目指すこととなったが、症状の重い患者においては、どれほど差別的であろうとも「施設」に依存せざるを得ない状況もあった。また、ある時期以降「脱施設化」は、障害者政策における国の原理ともなっていく。国によって謳われた「施設等から地域生活への以降の推進」(「障害者基本計画」、2002年)は、「脱施設化」がもはや解放運動だけでなく国の論理にもなったことの証左であった。
このように見れば、左翼的な解放運動は、新自由主義的な社会改革と合流し、そこに貧弱化した「シャカイ」とそれに打ち勝つ有能な個人が立ち現れてくるということができる。「造反有理」を原則とする左翼的人物は、そのまま官僚組織を批判する新自由主義的人物像と一致してしまうのであり、かりにその先にあらたなコミュニティが生まれたとしても、そこは福祉を与える場ではなく、みなが働くことを求められるワークフェア的なコミュニティにしかなりえない(『もののけ姫』におけるエボシの「タタラ場」)。
おまけ シャカイ系は21世紀リアリズムか
以下雑感。「社会系」はまたの名を「19世紀リアリズム」と言う、という、説もある。そうだすると「シャカイ系」は「21世紀リアリズム」なのか、それとも、21世紀のリアルからの逃避なのか。
例えば家出した子ひとりまともに保護できず、しまいにはそこら辺に転がっていた銃で齢16の子を発砲事件にまで追い込んでしまう新海誠の『天気の子』のシャカイを見て、「いやいやほんとはそこまでひどくないでしょう」、あるいはそうでなくとも、「社会の無責任を棚に上げて家出少年の放浪を楽しむなんてことじゃなく、ちゃんとした社会を作っていきましょうよ!」という感想を持つということはありえる(実際そういう論調も公開当時けっこうあったと記憶する)。新自由主義の歴史的条件を見つめつつ、やはり福祉の必要性を訴えているように見える河野の立場も、現実的にはそういう話になるのではないかとも思う(違ったらすいません)。
しかし他方で、日本にはそもそも中間項としての「社会」が希薄なのだ、という議論もよく耳にする。未曾有の感染症流行下において、この国が効果不明の布マスク2枚すら一向に配布できなかったとき、「まさか日本がこんな「シャカイ」だったとは!」と新鮮な驚きを感じた人は、おそらく、ひとりもいなかった。
そもそも「国家」が「社会」なのかもよくわからないのだが(「社会」とは「国家」よりも目が細かく、それゆえコミットするに値する共同体だという考え方もあるように思う)、そうだとするなら「シャカイ系」は、少なくとも21世紀日本において正しくリアリズムなのだ(批判ですらなく)ということになる。
この愛すべきへなちょこシャカイ、日本。いや、愛すべきと思うかどうかは人それぞれだし、河野の議論の正しい読み方もそういう感じではないのだろうし、河野の本を手に取る読者にはどちらかというと愛すべきではないという人のほうが多いのだろうが、シャカイ系のだめ〜なよさをそれ自体で考えてみたいという気もしてしまうのが正直なところだ。
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関連項目
・不可能性の時代
・拡張現実の時代
・母性のディストピア
・アトムの命題
・動物論
・平成転向論
参考文献
河野真太郎『戦う姫、働く少女』堀内出版、2017年。136-38頁。
———『新しい声を聞くぼくたち』講談社、2022年。第4章、特に「障害の脱施設化と新自由主義のもうひとつの起源」の節。