『内的時間意識の現象学』要解(序論から第二章まで)

『内的時間意識の現象学』要解(序論から第二章まで)

はじめに

 今回の主題は「時間」である。現象学にとって時間はもっとも重要でありかつ難解なテーマの一つである。そしてこの時間という問題に深く切り込んだ重要著作に、E.フッサールの『内的時間意識の現象学』がある。今回は本書の序論から第二章までを要解する。しかし、すべて網羅するのは不可能であるので、ここでは私なりの解釈にしたがって本文の流れを概説することを目標とする。筋道だった根拠のある解釈を行ったつもりではあるが不十分な部分もあるだろう。そのような点に関しては、批判や疑問を皆さんから投げ掛けていただくようお願いしたい。

外在的な時間に対する判断停止

 現象学的な時間論に入るにあたってまず行わなければならないことがある。それはつまり、私たちがいわば無意識にとっている「自然的態度」に気付き、それを停止させることである。これはフッサールが「判断停止」と呼ぶ操作であるが、判断停止が十分に遂行されていないとわれわれの「態度」が正確に見ることを妨げ「事象そのもの」を見えなくしてしまう。とはいっても、よほど注意しない限りこの隠れた前提に気づくことは難しいし、むしろ気が付かないのが「自然」である。そこで、『時間講義』本文にのっとって我々が陥っている時間に関するいくつかの先入観をまず指摘しておく必要がある。

 私が見るところによると本書の展開上まず注意しておく必要があるのは以下二つの予断である。それはつまり、①時間は私の意識の外にそれ自体として存在し、②そして主観的な時間は外部にある客観的時間の反映である、という考え方である。このような素朴な考え方に留まると例えば、「時間は色や形と同じく外部からの刺激によって感覚される」といった学説が出てくることになる。後に指摘するがこの学説はあらゆる面において問題を引き起こす。

 フッサールの時間論はこのような「自然」な態度を注意深く観察することからはじまる。そして私たちが信じる「素朴な」時間論は突き詰めると矛盾を引き起こすということを明らかにし、それを「括弧にいれる」ことで根源的な時間-「内的時間意識」への通路が確保されるのである。

ブレンターノの功績

ブレンターノの時間論

 フッサールは自身の時間論の導入としてまずブレンターノの時間論を紹介する。ブレンターノこそがはじめて客観的な時間と主観的な時間を区別し、そのことによって「本来的な問題」への可能性を拓いたのである。このブレンターノの功績は上で述べた二つ目の先入観②を取り除いたというものである。今一度繰り返すとそれは「主観的な時間は客観的な時間の反映である」というものであり、それは「時間は色や形と同じく外部からの刺激によって感覚される」という学説を産んだ。ブレンターノの時間論に入る前にまず彼以前の素朴な時間論が引き起こす問題を見ていこう。

 時間を考えるにあたってヒントとなるのは継起や持続である。ここで仮に「ド・レ・ミ」というメロディ(つまり音の継起)を例として用い上述の考え方を検証する。すると「時間が外部からの刺激によって感覚される」という説の問題点が直ちに明らかになるのである。

 例えば、今「ド・レ・ミ」のミの音が鳴っているとしよう。するとド・レの音は既に過ぎ去ったということになる。もし外部からの刺激によって音が感覚されるとするなら、現にミの音を聞いているひとはただミの音だけを聞いていることになってしまう。そうするともはやこのミの音は「ド・レ・ミというメロディの一部」として聞かれなくなり、そもそも「ド・レ・ミ」というメロディが成立しなくなってしまうだろう。

 あるいは、「過ぎ去った音の刺激が意識の中にそのまま保持されればよい」という考えもあるかも知れない。つまり頭の中に音が残響するといった考え方である。たしかに、「ド・レ」の刺激が消え去ったとしてもそれがそのまま意識内に響いているならば、「ド」と「レ」と「ミ」の音を同時に持つことができる。しかし、この考え方も不十分であると言わざるを得ないだろう。なぜなら、単に三つの音を一緒にもっているとするなら、その人は「和音」を持つのであり「メロディ」(音の継起)を持つのではない。単に「音」が保持されればよいのではく、「過ぎ去った音」が意識されなければならないのである。

 ブレンターノは以上の問題を解決する過去変様という意識作用を発見した。それはつまり、刺激として与えられた音が恒常不断に変様し、それが「過去の音」として意識されるという作用である。この過去変様は意識の自発的な創造として語られるが、この考え方が、まさに外界に依存しない自立した時間意識という領野を切り拓いたのである。

ブレンターノの時間論とその批判

 このようにブレンターノの時間論には「過去変様」という重要な発見があった。しかしそれでもこの時間論は十分であるとはいえない。たしかにブレンターノにおいて上述の二つの「態度」のうちの一方(先入観②)は解決された。しかし、一つ目の「時間は私の意識の外にそれ自体として存在する」という態度については未だ判断停止が行われずそのまま前提され続けているのである。ブレンターノの時間論はこの前提に由来していくつかの問題かかえている。まずその問題点を見ていこう。

 ブレンターノの時間論の弱点として注意を要するのは以下の二点である。それはつまり、⑴過去変様を受けた音が実在しない空想として理解されていることであり、もうひとつは⑵過去変様によって過去のものとされたはずの音が現下の音と共にいま空想されているということである。これらがなぜ問題になるのか簡単に説明しよう。

 まず前者の⑴過去変様を受けた音が非実在だとする考え方は、その音が客観的時間においてはすでに過ぎ去ってしまったという事実に引っ張られて生まれたものであろう。しかし、それを突き詰めると原本的な今が存在しなくなるという問題を引き起こす。たしかにブレンターノは現下の今については実在すると主張するのであるが、今は訪れた途端もうすでに過去になっているのである。このことを考えるのであれば、過去だけでなく現下の今までもが実在しないことになってしまう。

 後者⑵については、「過ぎ去った」が今において意識されるという矛盾を引き起こしている。たしかに知覚された音は過去へと退いて行くのであるが、それは音を過去のものとして今空想することとは違う。今思い浮かべているものに「これは過去のものだ」という規程を加えたところでそれは過去のものにはならないのである。

 そしてこの問題はシュテルンの提起した反論とも関わる。シュテルンはブレンターノのような心理学者を批判し、意識は「時間区間」に広がっているのだと主張する。例えば「ド・レ・ミ」という音の知覚はドの音がなり始めた時点から始まり、レの音が鳴り、そしてミの音が鳴り終えた時点で完成する。もしこのように意識に時間的な幅を認めるならば、「第二の音と並んで第一の音の記憶像が成り立っていることによって{メロディの知覚が}生じる」といった想定は「不自然」であり、ブレンターノは時間的に経過するメロディの知覚を瞬間の中に押しこむ「意識全体の瞬間性のドグマ」に陥っているということになる。

 以上のようにブレンターノの時間論は欠陥を含んでいる。しかし、ブレンターノがこのように論じるのに理由がないわけではない。というのも上で確認したように彼は客観的で外在的な時間の存在を前提しており、それに基づいて論を展開している。ところがこの枠組みのなかで「過去変様」を論じようとしているのである。過去変様という考え方が示唆する「知覚されたものが意識のなかで恒常不断に過去へ転ずる」という根源的な時間経過は客観的時間に属することができない。上記のような二つの齟齬はまさにこの根源的な時間を客観的な時間の中で説明したことによって生じているのである。

 そしてこのことが現象学的時間論を探求する動機付けになる。ブレンターノは「外界から自立した時間経過」を発見したがしかし上手く語ることができなかった。これを一貫した仕方で記述するべく現象学的な時間論が開拓されるのである。

縦の志向性

 ではブレンターノの時間論にはどのような要請が含まれていたのであろうか。上で確認した二つの問題点⑴と⑵に含まれているポイントを整理し、その解決策としてフッサールの「縦の志向性」を導入していこう。

 まず⑴については、「客観的には今以前の音はもはや実在しない、だが一方で音が実在するためには音の過ぎ去った部分が実在していなければならない」というジレンマがある。⑵については、「メロディは知覚されるためには過ぎ去った音が今において保持されなければならないが、しかしその音は過ぎ去っているのであるから今において意識されることができない」というジレンマがある。この二つのジレンマは客観的時間の枠組みの中では解消できない。しかし、フッサールの発見した「縦の経過系列」を導入すると相互に食い違う要請が両立するのである。

 フッサールのこのアイデアはつまり、「客観の持続」の経過様態とそれを構成する意識作用の経過様態を対置して、前者を横の経過系列、後者を縦の経過系列として表すというものである。そして、右(上)の図がフッサールの時間図表である。これはどのような点で画期的なのであろうか。上で挙げた問題を解決へ導きつつこの時間図式の説明を行う。

 まず、右(上)の図の見方を示しておく必要があるだろう。右(上)の図は時間的な客観(例えばメロディ)の知覚を図式化したものである。そしてド・レ・ミのメロディの例でいけば、Aがメロディの始まり(ドの音)、Pが現下の今において知覚されている音(仮にレの音とする)、そしてEがメロディの最後の音(ミの音)をそれぞれ表現する。

 これまでの議論でも繰り返してきたように、私が現に「ド・レ・ミ」のレをきいているなら、すでにドの音は知覚されていない。これについては上の図の横軸において、A点がP点よりも過去の方向(左側)に退いていることで表現されている。つまりこの横軸において知覚されていないA点(ドの音)はもはや実在しないということである。しかし、今点P(レが鳴っている時点)において私たちが「ド→レ」という音の継起を知覚しているのもまた事実でありその意味でドの音は実在していることになる。ところが上述したようにメロディの一部として保持されているドは客観的時間には位置を持たない。それは縦の時間系列の中で実在しているのである。

 またこのドの音はレの鳴っている今において過去に過ぎ去っているのでなければならない。このことも客観的時間軸のみでは説明できない。ところが、フッサールの時間図式においてはこれを両立させることができる。つまりA点は縦軸において過去へと沈み込むのである。(右下へ伸びる矢印がそれを示している)たしかに「ド→レ」の時間系列は客観的時間の今点Pに連なるのであるが、しかし意識作用においては過去へと退いているのである。

 そして、メロディの知覚はE点(ミの音)において完成する。客観的にはミの音しか聞いていないとしてもドやレの音は恒常不断に変様しつつ今において「把持」されているのである。

まとめ

 以上、客観的な時間が判断停止されそれらが根源的な時間へと還元されていく経緯を追った。フッサールの時間論はまだつづくが、以上でその議論の基礎となる縦の時間系列、「意識経過の内在的時間」を示すことができた。

おまけ(フッサールによる時間図式の説明 谷徹訳119頁)

 「具体的な連続性に沿って行くと、われわれは、恒常不断の変転のなかで〔いっしょに〕前進しつづけて行く。そして、その変転のなかで、その経過様態〔それ自身〕が、すなわち当該の時間点たちの経過連続性が、恒常不断に変転する。新たな今がいつも登場することで、〈今〉は〈過ぎ去った〔過去〕〉に変化し、その場合先行する点がもつ過去たちの経過連続性は全体として「下方に」移動し、ひとしなみに過去の深みに入っていく。われわれの図〔=時間図表〕では、〔複数の〕縦軸の恒常不断の系列は、持続する客観のもろもろの経過様態を描いている。これらの経過様態は、A(ひとつの点)から発して、最後の今〔E〕を終点としてもつ一定の区間まで、成長していく。それから、(この持続の)今をもはやもたないもろもろの経過系列が始まる。〔これがはじまればこれまでの〕持続はもはや現下の持続ではなく、過ぎ去った、恒常不断にさらに深く過去に沈んでいく持続である。この図〔=時間図表〕は、それゆえ、経過様態の二重の連続性を表す完全な図像である。」

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