無意識とは何か
一般的には無意識とは、その名の通り意識されてない、あるいは意識されえない意識のことだ。だから例えば、爪が伸びる、ということも無意識の一つに数え入れることができるだろう。
もちろんフロイトの無意識はそういう意味ではない。なぜ彼の無意識概念が注目されたのかというと、それが深層心理的、つまりメタサイコロジー的無意識だったからだ。層で考えるとわかりやすい。心というものを考えたときに意識が表層で、無意識が深層だ。つまり意識の土台だ。土台だということは意識よりもある意味で重要だということである。無意識の方が重要だ、という考え方は哲学の伝統ではあまりなかった。時代背景もあり、その考えを覆したのがフロイトの無意識だ。
無意識と抑圧
時代背景もあり、と述べた。そうフロイトが育った19世紀後半というのは、汎理性主義の高まりなどの中で無意識的なものに注目が向けられる時代だった。もともと夢や幻覚というのは自分にも統御できない心的活動としては関心が向けられてきたが、それは非合理的なものとして重要視はされなかった。18世紀の理性主義の視点から見ると、無意識は非合理すなわち反理性だ。その考え方が反転してきたのが19世紀後半で、その時代背景の中でフロイトが登場してきた。
だから、フロイトが無意識を発見した、ということがよく言われるがそれは間違いである。例えば1869年にはフォン・ハルトマン(哲学者)による『無意識の哲学』という研究書が出版されている。
それでも「無意識」といえばフロイトだ、と思うだろう。そう、フロイトの無意識には革新性があって、だからこそ無意識といえばフロイトなのである。さてその革新性とは一体なんなのだろうか。
それが無意識は「抑圧された欲望」(『フロイト思想を読む』97頁)を持っているという考え方である。それをフロイトは心理学的な哲学的な概念として扱ったのである。反理性の時代、理性主義的な信仰が崩れると、その背後にある動めく何かが探究されるようになってきた。ニヒリズム、ルサンチマン、永劫回帰といった概念で有名なニーチェならそこに「力への意志」を置くわけである。フロイトはそこに無意識を置いた。しかもそれが抑圧された欲望だとした。それが非常に的を得ていたので広く受けいられたのである。逆に、さきほど述べた爪が伸びるという例を見てみると、これは何も抑圧されていないし欲望でもない。だからフロイトの無意識概念には当てはまらない。
「抑圧された」とはどういうことだろうか。ここも画期的なところである。なんと「そのまま意識までのぼることができない」ということなのである。それではどうやってそれが無意識だと知ることができるのだろうか。意識に登っているということは、それは無意識ではないことの証明ではないか!
実はそんなことはない。「そのまま」という言葉が重要である。つまり直接には上らないけど、間接的に、歪曲されたり変形されたりして意識まで上ってくるのである。しかしそれではその無意識の痕跡が残っているものとそうではないものをどうやって見分けるのかという話になるだろう。たとえばリンゴが食べたいなあ、と思ったら、これは意識の欲望なのか無意識の欲望なのか。全然見分けがつかないじゃないかという話になりはしないか。
しかしよく考えてみよう。人の心は不思議だということを。様々な謎めいた心的現象を私たちは体験しているということを。それらは幻想的だったり非合理的だったりして、通常の論理ではなぜそのようになっているのか理由がわからないということを。
フロイトはその無意識の痕跡がわかる現象を三つ取り上げている。それが神経症、夢、失錯行為(言い間違い、書き間違い、度忘れなど)である。
神経症
神経症にもいろいろあるが、フロイトが無意識を発見したと言われるのがヒステリーの分析においてである。フロイトの『ヒステリー研究』からその分析を一つ見てみよう。
症例エリーザベト・フォン・R嬢の分析である。この女性はある時期から足に疼痛を訴え歩行困難になっていた。フロイトはその心的原因を探るため、横になってもらって何か思い出さないかと聞く。最初は何も思い出さないと言っていた彼女だったが、ある時フロイトは思い出したことを語らないだけなのではないかと考える。そこで問い詰めてみると、この患者は姉の夫と散歩したときに、自分もこのような夫を持ちたいと思ったこと、数日後その散歩の時のことを思い出すと、足に激しい痛みを感じたということ、を思い出した。
フロイトはここに抑圧された欲望を見てとった。実は、患者は姉の夫に愛情を抱いていており、そして姉がなくなったときにこれで義兄を夫にできると考えたのでは?と解釈したのである。つまり、姉の夫と結婚したいが欲望なのだが、それは道徳心などの制約により抑圧されている(無意識)。そしてその抑圧された結果としての折り合いのつかない葛藤が、足の疼痛という症状に現れている(意識)。実際、このような解釈を患者に披露すると、患者は「そんなことはない」といって激しい痛みを訴えたのである。無意識的な欲望を示す良い例である。
夢
夢といえば『夢判断』である。そこでフロイトは夢の機制について詳細に研究している。実はフロイト自身の夢を検討しているところがあるので、それを一つ例として見てみよう。
それは、友人Rの顔をした伯父ヨゼフが登場し、フロイトはその偽伯父ヨゼフにかなり親しみを感じたという夢である。この夢に関して事実と異なるところが二つある。一つが伯父の顔は友人Rに全く似ていないこと、もうひとつがフロイトは伯父ヨゼフに全く親しみを感じていない、ということである。また、夢分析の過程で自分が伯父のことを「ちょっと足りないところがある」と考えていたことを思い出す。それではどのように解釈できるのか。
実はフロイトは、この夢を見る前日に自分が教授に任命されるかもしれないという噂を聞いていた。しかしユダヤ人である自分が教授に任命されるのは難しいことだということが分かっていた。そして同じ友人Rは教授になれていなかった。それらを総合的に精神分析的に解釈すると次のようになる。
まず、フロイトにある無意識の欲望は教授に昇進したいという欲望である。ユダヤ人は昇進は難しく、友人Rも同様の理由で昇進ができていない。しかし、友人Rが昇進できてないのは、ユダヤ人だからではなく彼に「ちょっと足りてないところがある」からではないのか、だとしたら、自分には昇進の可能性がまだ残っているという考えが頭の中にあった。しかし友人Rを貶めるのはフロイトの道徳心が許さない。そこで抑圧である。「ちょっと足りてない人物」として伯父を登場させることで、友人R=ちょっと足りてない説を回避する。さらに親しみを感じさせることで、自分の昇進への欲望も覆い隠す。
これが夢で見られる無意識の欲望である。
失錯行為ーー言い間違い、書き間違い、置き忘れ、度忘れ、紛失
詳しくは『日常生活の精神病理学』(1901年)を見てほしい。ここではそのうちの一つを見てみることにする。
例えば次のような例。会議を開くにあたって、「ここに開会を宣言します」というところを「ここに閉会を宣言します」と言ってしまったときである。このような場合は、背後に〈会議を開きたくない〉という願望が潜んでいる、と述べている。〈会議を開きたくない〉というのが無意識の欲望ということになるだろう。
意識、前意識、無意識
無意識というのは一般に意識の対になる概念であるが、フロイトの場合、意識には「意識、前意識、無意識」の三種類ある。
意識はまさに今目の前に生じている心的現象のことで、無意識は抑圧された欲望、すなわち目の前に直接生じることはなく特定の操作によって間接的に意識へと上がる欲望ということでいいだろう。問題は前意識だ。
前意識は意識化しようとする意志によって意識化可能な心的内容のことある。だから簡単にいえば、抑圧されてない欲望だったりがここに入るだろう。例えば「新海誠作品見たいなあ」とかは基本的に前意識となる(時と場合による)。また、単に潜在的な観念、注意を向ければすぐに思い出せるような観念、すなたちフロイト以前の「無意識」も「前意識」のうちに入るようになる。
関連項目
このような無意識を扱った映画作品ではクリストファー・ノーランの『インセプション』が有名だ。この作品では夢がインセプションするのに重要な役割を果たす。文学作品では漱石の『夢十夜』が思い出される。
フロイトの概念としては他に「不気味なもの」がある。ハイデガーの「不安」や「良心」などもそういった心の作用に分類される概念なので、知っておくと便利だろう。
参考文献
竹田青嗣・山竹伸二『フロイト思想を読む 無意識の哲学』NHKブックス、2008年。