概要
ドイツ観念論とは、18世紀末から19世紀半ばにかけて、カント哲学に対する反動として展開された思想潮流のことである。
主だった人としては、フィヒテ(1762 – 1814)/シェリング(1775 – 1854)/ヘーゲル(1770 – 1831)の3人を指す。そしてそこにヤコービやラインホルトが加えられる。また、稀であるが、ドイツ観念論にカント(1724 – 1804)が加えられる場合もある。
解説
ドイツ観念論は誰が命名したのか
これはよく間違えられやすいことだが、ドイツ観念論というのはフィヒテやシェリング、ヘーゲルが考案した概念ではない。確かに、シェリングは『世界年代』(1813年)で「ドイツ観念論」という言葉を使っており、それが「ドイツ観念論」の初出であるようだ。しかし、彼の意味ではドイツ観念論の中にシェリング自身がふくまれていない。シェリングはフィヒテを頂点とした観念論をドイツ観念論と呼んだのである。
現代の意味でのドイツ観念論、つまりカント以後のフィヒテ 、シェリング、ヘーゲルの運動を指すようなドイツ観念論という言葉は、リュートゲルトの『ドイツ観念論の宗教とその終焉』(1922年)やニコライ・ハルトマンの『ドイツ観念論の哲学』(1923)あたりが始まりだと言われている。つまりドイツ観念論時代から約100年経って、彼らの歴史的な運動を理解するために使用された言葉なのだ。
ドイツ観念論という命名は妥当なのか
その頃はヘーゲルを頂点としたドイツ観念論の発展史のようなものが考えられており、その中で彼らがドイツ観念論と命名されたのだが、そのようなヘーゲルを頂点としたドイツ観念論史を現代において信じているものは少ない。というのも、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルのこの三者は互いに批判しあいまくっていたからである。超簡略化された関係図を見てみよう。
フィヒテ、ヘーゲル、シェリングの関係図
誰一人としてお互いの哲学を認めていない。まずフィヒテとシェリングの関係だが、シェリングが『超越論的観念論の体系』で超越論的哲学(フィヒテは自分の哲学を超越論的観念論と標榜していた)を格下げしたことで、フィヒテと論争になり2年後には絶交となる。フィヒテとヘーゲルはというと、フィヒテはヘーゲルをシェリングの代弁者程度にしか見ておらず、そもそもヘーゲルの哲学なるものがあると思っていない。ヘーゲルはというと絶対的観念論を標榜し、フィヒテの超越論的観念論を主観性の原理に立つものとして批判。さらに『精神現象学』(1807年)においては、直観的に一挙に絶対知に到達する立場、つまりシェリングのような立場の考えを「ピストルを打つかのように」や「闇夜の牛」といった辛辣な揶揄を使って批判する。シェリングはその批判に心を挫かれたが、しかしそれでもめげずに応戦する。『世界年代』(1813年)でヘーゲルの哲学を消極哲学と呼び、自らの実在論を「積極哲学」と銘打つことで、ヘーゲルからの乗り越えを図ったのである。
このようにみていくと、三者がそれぞれ批判しあっており、そこにハルトマンなどが描いたドイツ観念論の発展的なプロセスは存在しない。さらにいえばシェリングの哲学は「実在論」寄りである。そういうわけで、彼らをドイツ観念論という一括りしてしまってもよいものか、別の歴史的な視野から見てみる必要があるのではないかと疑問に付されている(例えば当時の文学運動、とりわけゲーテとの関わりや、当時の政治的状況であるフランス革命からの影響が指摘されている)。
ドイツ観念論の共通点ーー神とニヒリズム
もしこの三者をひとまとめにくくる根拠があるとするなら、それは「絶対知」の哲学という徴表のゆえである。
「ドイツ観念論の全体像」72頁
ドイツ観念論と絶対知=神
しかしながら、彼らに共通点がなかったわけではない。彼らはカント哲学の反省として現れた。カント哲学はどういう哲学だったかというと、理性を格下げした哲学であった(詳しくは【アンチノミーとは何かーカント*なるほう堂】参照)。「物自体」には決して到達できず、我々がみているものはその現象でしかなく、神の存在といったものは超越論的錯覚のうちに含まれる。理性は経験に対して「統制的」にしか働かせてはならず、その領分を超えると錯覚を生み出してしまう。それに満足いかなかったのがドイツ観念論の哲学だ。
絶対知というのはほとんど絶対者、すなわち神のことである。神は死んだと言ったのはニーチェであるが、神を殺したのはカントである。カントは『単なる理性の限界内における宗教』という本も書いているが、それとは逆に、ヘーゲル、シェリング、ヘーゲルは宗教的なものに理性の可能性を見ていた。カントの場合、限界というのは人間の形式(超越論的形式)にあるが、ドイツ観念論はその限界を突破するのである。その突破の先には絶対知=神がいる。いうなれば、彼らの哲学は神学的(キリスト教的)哲学なのである。
もちろん、この絶対知=神に対する考え方は、三者でそれぞれ異なる。フィヒテ哲学の基礎には自我の反省性があるゆえに絶対知と絶対的自我の同一視は困難なはずであるが、自我は絶対者に通ずるという。シェリングも同じで、知的直観によって絶対知に到達することができるという。ヘーゲルはというと、一挙に与えられる知的直観ではなく、学のプロセス・歩みの最終段階において絶対知が成立するという。三者とも、絶対知=神に至る精神であったり自我であったりの何がしかが存在すると考えているのである。それゆえドイツ観念論とは何かと問われたときの一つの答えとして、いかにして絶対知=神(無限)に自我(有限)が到達できるか考えた人たちと言うことができる。そう考えたときに、その頂点にはヘーゲルが君臨することになる。つまりは、ヘーゲルを頂点としたドイツ観念論という考え方は、絶対知=神への到達度を前提とした考え方だったのである。
ドイツ観念論とニヒリズム
もうひとつの共通項がニヒリズムである。ニヒリズムというとニーチェ(他の概念:ルサンチマン、永劫回帰)を思い浮かべるが、哲学の中で登場したのはこのドイツ観念論の時代である。実はヤコービという人がフィヒテに対して「観念論はニヒリズムへと導く」(David Hume über den Glauben oder Idealismus und Realismus. Ein Gespräch, in : Werke, 2. Bd., 1815, S. 19.)と非難したのが始まりだとされる。なぜニヒリズムかというと、観念論すなわち主観性を基礎とする哲学は、主観の外側に実在するであろう「物自体」や「神的なもの」に永遠に届かず、その像(現象)しか見ることができないからである。カントみたいに諦めがよければ良いが(もちろんヤコービからすればカントもニヒリストである)、絶対知に到達せんとする立場でいくと、ニヒリズムだけでなくペシミズムも混ざってくることになり悲壮感漂う。
もちろんこの批判に対してドイツ観念論はへこたれたりしなかった。逆にニヒリズムこそ絶対知を根拠づけると、その非難を逆用したのである。「我思う、ゆえに我あり」のような論法だ。ニヒリズムは神の否定的側面であり、だからこそ神は到来するのである。なるほど、ニヒリズムの到来に対してドイツ観念論は悲観的ではなかったが、主観との対立でその外部にある絶対者=神を考えるという思索のあり方が登場したことは注目に値する。デカルトの場合は、神は無限の観念の中にあるので、ある意味で主観の中にある。もうそういった考え方は通用しなくなってきた。このあとドイツ観念論と同時代にはショーペンハウアーが登場してきてニーチェへとつながっていく。ドイツ観念論におけるニヒリズムまで遡って、哲学におけるニヒリズムを考えてみるのは面白いかもしれない。
関連項目
参考文献
大橋良介「ドイツ観念論の全体像」(大橋良介編『叢書ドイツ観念論との対話 第1巻 総説・ドイツ観念論と現代』ミネルヴァ書房、1993年、58−83頁)。
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