『オメラスから歩み去る人々』あらすじ解説|内容考察|オメラスの犠牲者と天皇

『オメラスから歩み去る人々』あらすじ解説|内容考察|オメラスの犠牲者と天皇

概要

 『オメラスから歩み去る人々』はアメリカの小説家アーシュラ・クローバー・ル=グウィンの短編小説。アーシュラ・K・ル=グウィンはSF作家でありファンタジー作家で、1929年に生まれ2018年に没した。『闇の左手』『所有せざる人々』さらに『ゲド戦記』シリーズで有名である。

 『オメラスから歩み去る人々』は1973年の作品で、ハヤカワ文庫の『風の十二方位 』に収録されている。本作は「SFおよびファンタジー作品を対象とする」世界的なSF作品賞であるヒューゴ賞を1974年に受賞している。

 さらに主演を西島秀俊が演じる『MOZU』というドラマで、長谷川博己が演じる東和夫という人物から「オメラス」という単語がでてくるが、元ネタはこの作品『オメラスから歩み去る人々』である。

 ここでは、あらすじの解説、内容の考察、感想などを簡潔に記す。

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オメラスが収録された短編集、他の作品も面白い

あらすじの要約

 あるところにオメラスという、平和で豊かで幸せなユートピアがあった。オメラスには飢えも差別も苦しみもない、とても素晴らしい国なのである。

 だが、オメラスには一つだけ秘密があった。オメラスの地下に、痩せ細り汚物に塗れた一人の子供が、鎖につながれ監禁されているというのだ。オメラスの平穏はこの子供の犠牲によって保たれているという。この子供の解放はもちろんのこと、気をかける、綺麗にするという些細な行いだけで、オメラスという理想郷は終焉を迎えてしまうのだ。

 驚くべきことに、オメラスの国民の誰もがこの事実を知っている。物心がついて犠牲の意味を理解できると判断されたとき、オメラスの若者は犠牲になれている子供のことを知らされるのである。

 オメラスの人々はこの秘密を知ると、誰もが苦しみときに憤慨する。だが、何もすることができない。この子供を助けることでオメラスが危機に陥ることは避けねばならない。しかも、この子供は知能も劣り自分の状況も把握していないうえに、解放してもすぐ死んでしまうかもしれないし、ましてや幸せになることはないだろう。そうやって、オメラスの犠牲の存在を納得するのである。

 だがまれに、この秘密を知った後にオメラスから姿を消す人がいる。その人たちは、この事実を知った直後に、あるいは何年も経ったある日に周囲の人に告げることもなく、オメラスから静かに去っていくのである。この人たちがどこに向かったかは誰も知らない。だが人々は、東へあるいは南へ、自分の行くべき場所を知っているかのように、しっかりとした足取りで歩み去っていくのである。

解説

サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』でも取り上げられた道徳の問題

 オメラスは誰もが羨むユートピア。そこは美しく綺麗なものに満ち、不満や不安、飢饉や争いとは無縁の国家である。

 だが、表面的に取り繕われた美しさというものは、醜い秘密を隠しているものである。オメラスの地下に監禁されている、盲目で痩せ細り汚物に塗れた少年の存在がそれだ。古くからの契約なのだろうか、監禁された少年という一人の犠牲によってオメラスの秩序は成り立っている。オメラスというユートピアに醜い秘密を抱え込んでいるのでなく、犠牲自体がオメラスというユートピアの存在の条件なのである。

 したがって本書のテーマは「多くの人の幸せのために一人の犠牲は許されるか」ということになる。これは道徳哲学の大問題であり、例えば「正義」と「道徳」の問題を扱ったベストセラー本のマイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』でも、『オメラスから歩みさる人々』は取り上げられている(p.56)。

 功利主義の立場であるならば、一人の犠牲者の不幸度とオメラスの住人の幸福度を比べることになるだろう。住人が多くなればなるほど全体の幸福度はふえていき、犠牲は容認されていくかもしれない。しかも、犠牲者は自分の不幸を認知していないと書かれている。そうであるならば、功利主義の観点から言えば、犠牲者の存在は仕方がないということになる(ちなみに、もし本当に犠牲者が幸せを掴んでしまったら妬ましく思うという問題もある。これは倫理や道徳というより、内面の利己的な感情である。この問題は芥川龍之介の『鼻』で鋭く指摘されている。

 だが、本当にそうだろうか。犠牲者は道徳的にも倫理的にも許されるのだろうか。犠牲者を前にして心がざわつくことはないのだろうか。本書で問われていることは道徳と倫理の普遍的な問題なのである。

本当の主題は、犠牲を受けいれた極限の状態で何をすべきか

 そのあとオメラスの犠牲の存在が必要悪であり、犠牲者の救済ができない可能性がいくつも示される。

 まず先ほど言及したように、子供は知性が弱く不幸を把握していないという事実がある。汚物にまみれていようと、痩せ細っていようと、そのことがわかっていないのだ。次に、子供を救いだしたところで、ずっと地下にいたために死んでしまう可能性が示される。救いだすことは、本当の意味での犠牲者の救済にはならないかもしれないのだ。

 最後に、もし子供を救いだすとすると、オメラスという理想郷は崩壊するということが再確認される。しかもこれで犠牲になるのはオメラスの住人だけではない。救いだしたはずの犠牲者も含めて不幸が招かれるのだ。

 したがって『オメラスから歩み去る人々』のもう一つのテーマは「ユートピアの存在の条件である犠牲者の存在を知り、さらに助けることができないと知ったとき、あなたは何をするのですか?」という問いになる。

 本書の回答は「何もすることはできない」だ。だが、それにもかかわらず「歩み去る人々」がいるという。それは自分の無力を知ったとき、あるいは、社会を変えることができないと悟ったとき、犠牲をただ受け入れるということをしない人々の存在のことである。

 これは倫理的な行動だ。去るということは、諦めではなく、無言の抵抗であり、犠牲のシステムをもつオメラスには属さないという意思表示である。さらに、去る人々は「行くべき先を知っている」という。もしかしたらオメラスの外部から犠牲を救済するすべを考えだすかもしれない。

 このことは、「考察」の最後に日本にとっての身近な問題(天皇)にひきつけて考えてみることにする。次は文章の巧みさについて解説しよう。

構成の巧みさ

 『オメラスから歩み去る人々』は日本語版で十数ページしかない短編小説である。かなり短いのだが読み応えは長編にも負けず劣らずで、さらに人間本性の深い洞察に満ちていて大いに楽しめる。読み終わったあとは何が正解だったのかを思い悩みボーッとした人も多いのではないか。

 そのような独特な感覚が味わえるのは、情景描写や明かされる事実の奇抜さが優れているのに加えて、文章の構成が巧みな点によるところも大きいと思われる。

 大雑把にいうと『オメラスから歩み去る人々』は序盤、中盤、終盤の3つに分けられる。序盤はオメラスという理想郷が如何に素晴らしいか、中盤はオメラスの汚点と国民の欺瞞、終盤はオメラスから歩み去る人々について語られる。読者は序盤にオメラスへの安心感を覚えるが、中盤になるとそれは疑惑に変わり、終盤では希望に変わる。このような心情の変化が数ページごとに起こることで物語に迫力がついている。

 だが、この小説の真価はこれだけではない。序盤と中盤、さらに中盤と終盤に挿入される一節が、オメラスの理想状態にあるいはオメラスの汚点に慣れてきた読者に、我に返ることを強いるのだ。

信じていただけたろうか?この祝祭を、この都を、この喜びを、受け入れていただけたろうか?だめ?では、もう一つのことを話させてほしい。

これであなたにも納得いただけたろうか?彼らの存在が、さっきよりは信じやすいものになったのではなかろうか?しかし、話すことはまだもう一つ残っており、そして、これはまるで信じがたいことなのである。

 投げかけられた問いは、作品に没入していた読者自身に、オメラスの住人がしてきたように現状を問い直すことを促す。ユートピアを維持するための犠牲、現状を知ってオメラスから歩み去る人々の存在。それらは欺瞞であり希望でもある。それらの存在を知ってなおこれまでのように生きられるか、『オメラスから歩み去る人々』はオメラスの住人に語りかけるように我々に問いかけるのである。

考察

犠牲と理想郷ー「オメラス」システムの作り方

 カール・シュミットという政治哲学者は、「政治的なもの」という概念を規定するのは友敵理論だと提唱した(詳しくはこちら:友敵理論とは何か—シュミット*なるほう堂)。「政治的なもの」とは、友と敵を分別し敵を滅ぼすことを目的とする。同じ考えを持つ友から成る集団は、敵を認定することで結束することができるのだ。敵を認定する、つまり、敵を排除し外部を発見することで共同体の秩序が守られるという現象は、人生において誰でも大なり小なり経験することである。考えてみれば、クラス対抗リレー、右翼vs左翼、フェミニズムvsアンチフィミニズムなど枚挙に遑がない。

 敵をつくることで友の結束を固める友敵理論は、敵なくして集団の結束はありえない、ということを暗に示している。排除が外部を生み、外部があることで内部が安定する。理想郷を作るためには排除と外部が必要不可欠なのである。

 ここで思考実験をしてみよう。外部に属する人を一人また一人と減らしていくとしよう。するといつしか敵の集団は小さくなりだんだんと勢力は衰えてしまう。そして最終的には敵が一人になったとする。だが敵集団の勢力が友集団に比べてあまりに弱いとき、それはもはや敵とはいえなくなってしまう。しかしそれでも友集団の平安を保ちたい場合、どうすればいいのだろうか。答えは簡単である。一人になってしまった敵に、責任を負わせればいいのだ。このとき敵は外部に存在しているわけではない。一人になった敵は友集団に囲まれて、内部に吸収される。集団の平穏を保つために一人に責任が負わされ、その負債は内部に置かれるのである。

 まとめると(i)外部をつくることで内部を安定させる。(ii)一人になるまで外部の敵の人数を減らす。(iii)敵が少数になると外部はなくなり敵は内部に置かれる。(iv)内部に置かれた敵は、力はないが責任が負わされる。さらに敵は敵と呼ばれず犠牲や汚点、負債などとよばれるようになる。

 このようにして出来上がったのがオメラスという理想郷である。だから地下牢に繋がれた子供を助けると理想郷が崩壊するという設定は理論的にも正しい。敵や外部のないところに平安はありえない。オメラスの国民はそのことがわかっているからこそ、子供を救うことはできないのである。だからここで問われているのは善意や憐みといった倫理や感情ではない。変えることも救うこともできない強固な構造を前にしたときどのように行動すべきか、それが問われているのだ。

オメラスの犠牲と日本の天皇

 犠牲者によって理想郷が成り立つという「オメラス」システムは、実は普遍的にみられる現象ではないか。古くはイエス・キリストから、学校でのいじめられっ子まで、共同体の安定のために犠牲が強いられてきたのである(最近では、新海誠の『天気の子』も「オメラス」システムを扱っていた。帆高は犠牲者である陽菜を救おうとする。そのせいで世界は崩壊し東京は水没する。)

 この問題を日本にひきつけてみれば、それは天皇の問題と一致すると思われる。天皇には自由も人権もない。天皇はオメラスの地下牢に繋がれた子供である。天皇の犠牲のもとに、日本という国家が成り立っている。

 小説家の三島由紀夫は、天皇は国民の犠牲になるべきだと主張した。天皇はオメラスの地下牢に閉じ込められた犠牲者のように耐え忍べというのである。この意見に私が賛成することはないが、天皇の問題を真摯に考えた三島なりの回答なのだろう。

 オメラスと違って日本では天皇について語ることは禁止されていない。それだからか、人権の観点から天皇制をなくすべきと主張する人も多い。しかし何千年も天皇制が廃止されていないことからもわかるように、天皇制の即時撤廃は現実的には非常に難しいだろう。そうであるならば、人権の観点からなどと主張する天皇制廃止論者は、地下牢に繋がれた子供から目を背けたオメラスの住人となんら変わるところはない。

 『オメラスから歩み去る人々』が問いかけるのは犠牲を知りながら理想郷に留まり続ける人々に対してだ。「オメラス」システムは壊れることはない。犠牲者は救われないし理想郷は崩壊しない。そのことを知ってなお君達は何も行動しないのか、と。

 果たしてこの国に、オメラスから歩み去った人々のように、何も言わず行く先を見据えながら歩み去る人々はどれだけいるのだろうか。

参考文献

アーシュラ・K・ル=グウィン『風の十二方位 』小尾芙佐共訳、ハヤカワ文庫SF、1980

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳、早川書房、2010

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