新海誠『君の名は。』忘却の代償、バッドエンドのゆくえ|あらすじ解説|内容考察|感想

新海誠『君の名は。』忘却の代償、バッドエンドのゆくえ|あらすじ解説|内容考察|感想

概要

 『君の名は。』は、2016年に公開された恋愛ファンタジーアニメーション映画。監督・脚本は新海誠。声優は神木隆之介と上白石萌音。前作は『言の葉の庭』、次作は『天気の子』。

 東京に住む高校生の瀧と飛騨地方に暮らす高校生の三葉の奇跡の物語。1200ぶりに地球に接近する「ティアマト彗星」の前後で起きた入れ替わりとそれにまつわる出来事を描く。

 当時、世界歴代興行収入で日本映画のなかでは『千と千尋の神隠し』に次いで2位となった。

 新海はほかに短編『ほしのこえ彼女と彼女の猫』、中編『秒速5センチメートル』、長編『雲の向こう、約束の場所』『星を追う子ども』などがある。

 アニメ映画はほかに『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』『怪盗グルーの月泥棒』『千と千尋の神隠し』『ミュウツーの逆襲』『幻のポケモン ルギア爆誕』などがおすすめである。

 また「新海誠監督のおすすめアニメ映画ランキング9選」もぜひご覧ください。

登場人物

立花瀧(神木隆之介):都心に住む高校生。母親はおらず、父との二人暮らし。美術系が得意。レストランでバイトをしおり、先輩の奥寺に恋心を抱いている。。

宮水三葉(上白石萌音):糸守町に住む高校生。一葉、四葉とともに暮らしている。父に対する葛藤があり、街で会っても無視しようとする。宮水神社の巫女を務める。瀧と入れ替わった際には、奥寺先輩とのデート取り付けるなどの活躍をする。

宮水一葉(市原悦子):三葉と四葉の祖母。三葉と四葉とともに生活している。歴史や伝統を重んじ、孫たちに日々教えている。三葉と瀧の入れ替わりに気づいた唯一の人物。

奥寺ミキ(長澤まさみ):瀧のバイト先の先輩。瀧が好意を寄せていたことを見抜いており、デート後も手助けしてくれる。2021年、近々結婚の予定である話を瀧にする。

勅使河原克彦(成田凌):三葉の同級生。テッシーと呼ばれてる。建設会社の社長の息子。機械とオカルトが好き。将来は地元で家を継ぐと考えている。三葉に好意を持っている。2021年、名取と結婚の話をする。

名取早耶香(悠木碧):三葉の同級生。サヤちんと呼ばれる。勅使河原に好意を持っている。住民退避のために学校から放送するという重大な役割を担う。2021年、勅使河原と結婚の話をする。

宮水俊樹(てらそままさき):三葉と四葉の父。婿入りし神職に就いたが二葉の死後、神社を出て糸守町の町長となる。

宮水四葉(谷花音):三葉の妹。入れ替わっている間の三葉の奇怪な動きに警戒している。三葉と一葉とともに生活している。父への葛藤はない。

宮水二葉(大原さやか):三葉と四葉の母。三葉が若い時に亡くなっている。

雪野百香里(花澤香菜):う高校の古典教師。ユキちゃん先生と呼ばれる。前作『言の葉の庭』のヒロインでもある。

あらすじ

 ある日、東京で暮らす瀧が目を覚ますと、糸守町に住む女子高生であり宮水神社の巫女でもある三葉に入れ替わっていた。一方で三葉は瀧に入れ替わっていて、互いにそれを夢だと思い込む。

 現実に戻ると記憶も薄れ何事もなく日常に戻るのだが、周囲に昨日の行動を笑われる。それが週に2〜3回も起きることから、夢ではなく現実に入れ替わっていると確信する。

 性別や生活環境が正反対であるため、互いに禁止事項をつくり1日の出来事を記録するようになる。三葉に入れ替わった瀧は、男勝りの行動をとり同級生の女子からモテるようになる。一方で瀧に入れ替わった三葉は、バイト先の奥寺先輩と親しくなりデートの約束をとりつける。

 元の体に戻った瀧は奥寺とデートをするも気持ちが乗らず、奥寺に「好きな人がいるでしょ?」と心のうちを見抜かれる。解散後、三葉に電話をするが繋がらない。その日以降、入れ替わりが起こらなくなってしまった。

 記憶にある糸守のスケッチを頼りに飛騨に向かう。瀧の様子を心配した友人の司と奥寺は同行することになる。手掛かりのないまま入ったラーメン屋で、スケッチの場所が糸守町で三年前に「ティアマト彗星」の破片に直撃し壊滅したことを知らされる。当時の記事を調べていくうちに、住民は500人以上が、三葉一家も全員亡くなっていることが判明する。

 瀧は口噛み酒が奉納された宮水神社を思い出し、一人でそこに向かう。入れ替わりの相手が三年前の三葉であることを確信した瀧は口噛み酒を飲む。目を覚ますと隕石落下前の三葉に入れ替わっていた。友人の勅使河原や名取を説得して、変電所を爆破し町内放送で高校に非難を呼びかける作戦を決行する。

 しかし町長である父に馬鹿にされ作戦は失敗する。三葉なら説得できると考えた瀧は、宮水神社に向かう。道の途中、三年前に三葉があらわれて紐をくれていたことを思い出す。山に登り三葉の名前を呼ぶと、三年の時間を超えて、三葉が瀧を呼ぶ声が聞こえる。そして黄昏時、お互いに元の体に戻り出会うことができる。想いを伝えた後、忘れないようにとお互いの手に名前を書こうとするが、途中で元いた世界に戻ってしまう。

 瀧は何故ここにきたのか、そして三葉のことを忘れてしまう。一方で三葉は、避難計画を続行する。途中道を転げ落ち諦めかけそうになるも、瀧が手に書いた「すきだ」の文字に励まされ父を説得する。そしてティアマト彗星は糸守町に落下する。

 舞台は瀧視点で5年後。ティアマト彗星は落下したものの、住民は避難訓練をしていて奇跡的に被害者はゼロだった。就活をする瀧は、糸守町も三葉のことも忘れていたが、いつも誰かを探しているという感覚に襲われていた。

 ある日、並走する電車のなかに三葉を発見する。それに気づいた三葉と瀧は、街中を走り互いに探す。そして二人は階段で出会いお互いの名前を聞くのだった。

解説

美しい悲劇、綺麗な東京

 2016年は日本のサブカル映画史において重要な年になった。庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』、片渕須直監督の『この世界の片隅に』、そして新海誠監督の『君の名は。』の三作がすべてこの年に公開されたからだ。これらはどれもメガヒットを記録し、様々な批評と評価が飛び交った。その中でも『君の名は。』は特別で、日本アニメとしては宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に次ぐ興行収入を記録し、新海誠を一気に国民作家へと昇格させた。次回作『天気の子』は気候変動と絡めた青春アニメ映画で各方面から高く評価され、いまや新海の地位は盤石なものとなりつつある。

 新海のアニメーションは風景描写の美しさに特徴がある。特に、広大な空の青さが絶妙で多くの人を魅了してきた。彼はその得意な情景描写を用いて、東京を美しく描いた作家でもある。高層ビルの立ち並ぶ都内は元来、生茂る山や青々とした海などの豊かな自然と比べると、汚く見苦しく鬱陶しい場所であった。アニメ界の大御所宮崎駿や細田守の作品を思い返してみればわかるように、日本のアニメ界は長らく都会よりも田舎を、ビルよりも自然を肯定的に描いてきたのである。新海も星や空を肯定的に描いてきた点において、ほかのアニメ作家と大差がないようにみえる。しかし彼の風景描写の美しさは、対象そのものの美しさというよりも、悲しみや汚さを包み込む美しさである。つまり新海の手にかかれば、雑踏も高層ビルもそして東京も、自然豊かな山やどこまでも広がる空や光り輝く流れ星と同様に、美しく描かれるのだ。

 したがって新海は初期の作品から、ありとあらゆる悲劇とバッドエンドを、美しいハッピーエンドに昇華させてきた。携帯の電波の届かない場所で離れ離れになってしまった若い恋人を描いた『ほしのこえ』、死者の国を冒険する『星を追う子ども』、若いときの恋で心を喪失した『秒速5センチメートル』。どの作品も悲劇や喪失が物語の中心にあり、そして二人は会えないという意味でバッドエンドでありながら、前向きな気持ちでハッピーエンドに終わる。

 新海はこのことに自覚的だ。そしてそこにアニメーションの意味を見出している

たとえば、何か深い悩みがあるとき、心に軽い傷を負ってしまったとき、そういうときにアニメーションや娯楽を観ることで、少しその傷の治りが早くなったり、少し生きるのが楽になったりするような役割を持っている、バンドエイドみたいなものだと思うんです。

『星を追う子ども』の公開初日の舞台挨拶

 バンドエイドとしてのアニメ。それは美しい風景によって悲劇を喜劇に、バッドエンドをハッピーエンドへと変化させるアニメーションの魔法だ。現代の「可愛い」という言葉がありとあらゆるものを飲み込んだように、新海の風景は全ての悲劇をバンドエイドとして包み込む。

震災の傷を癒すバンドエイドのアニメ

 『君の名は。』は、何を包み込み何を癒してくれるのか。本作は2011年3月11日に起きた東北大震災の応答として制作された。「ティアマト彗星」の衝突で糸守町が壊滅する場面を観て、震災の風景を想起せずにはいられない。破壊される街、大きな津波、流される家。それは2011年の当時、我々が観た風景そのものである。

 東北大震災は日本に大きな悲しみをもたらした。1000年に一度の規模といわれたこの地震は、それによって生じた津波が福島県の沿岸部を襲い、多くの死者と行方不明者を生み出したのだ。

 震災に対する新海の回答は二つある。一つは震災のなかに美しさを見出すことだ。勿論、震災は多くの死者と被害もたらす悲惨なものであった。そしてそこに美しさは微塵もない。だが、そうみえたと想像することは、フィクションの力でもある。同年に公開された『この世界の片隅に』では、戦闘機から降り注ぐ爆撃をうっとりと眺める主人公すずの姿がある。それに呼応するかのように、ティアマト彗星が二つに分裂した瞬間を東京で眺める瀧と糸守町にいる三葉はこのように表現する。

瀧:あの日、星が降った日。それはまるで

三葉:まるで夢の景色のように、ただひたすらに

三葉&瀧:美しい眺めだった

 震災は悲惨だ。だが美しくも描ける。そして新海の超絶技巧がそれを可能にしている。崩壊する街も押し寄せる津波も、彼の風景描写にRadwinpsの曲に合わさることで、心昂る光景になる。新海は震災に対する一つの癒しを提供しているのだ。しかしそれだけでは癒されないことも新海は重々承知している。失恋や喪失を美しく肯定的に描いた新海ですら、震災を肯定的に描き切ることはできなかったのだ。

 だからもう一つの手段が必要になる。それが「忘却」だ。

考察・感想

震災の記憶か忘却か、継承か癒しか

 『君の名は。』のメインテーマは、震災の悲劇にたいする応答であった。そしてその一つの回答は「忘却」である。それは三年という時空を超えた奇跡、三葉と瀧による愛によって成し遂げられた、もう一つの可能性である。

 震災の起こる直前に、被害地域の全住人が奇跡的に避難訓練をしたという可能性がないと誰がいえようか。もしかしたら、今までもそのような奇跡によって多くの悲劇が回避されてきたかもしれないのだ。そして、我々はその悲劇を忘却することで、「ずっと誰かを探している」という意識に苛まれながら、日常を過ごしているかもしれない。我々もこの主人公たちのように、ありえた可能性と、起こってしまった悲劇の忘却を追い求めるべきなのだ。

 このような震災に対する新海の回答に、賛否両論が飛び交った。大事なのは忘却ではない、記憶と継承だ、という意見から、大きな傷は忘却によって癒される、というものまで。また、震災を忘却することを肯定することはクリエイターの倫理に反し責任放棄であるというものから、ヒットの理由は日本人の無意識にある震災の忘却への欲望だというものまであった。非当事者は記憶こそ重要だと訴え、当事者は「忘却」を望み「忘却」を肯定してくれる本作に癒されたのである。

 いうまでもなく、この賛否はどちらもナンセンスである。記憶を願う人がいれば、忘却を望む人もいる。記憶が未来の悲劇を取り除く可能性があるとすれば、忘却は現在の悲痛を取り除く。どちらも多かれ少なかれ望まれていることなのだ。そして仮に望まれていなかったとしても、その作品の好き嫌いを分けることはあれど、良し悪しを決めるものではない。ましてや無責任や倫理に反するなどといわれる筋合いはない。

 むしろ問題は震災を「忘却」することによって、意図せずして失われてしまったもののほうだ。新海は震災を忘却するというビジョンを提示することによって、あるものを失ってしまった。それがコミュニケーションの可能性である。

『ほしのこえ』と『秒速』のコミュニケーション可能性

 新海の一貫したテーマにコミュニケーション可能性がある。『ほしのこえ』では若い恋人たちが宇宙と地上に引き裂かれた。そこで問われたのが、携帯の電波の届く範囲、つまり「セカイ」から消えてしまった相手とのコミュニケーションの可能性である。『ほしのこえ』のラスト、出会う可能性が限りなくゼロになりながら、前向きに将来に向かえるのは、コミュニケーション可能性を二人が信じたからだ。ノボルは言う。「でも想いが、時間や距離を越える事だって、あるかもしれない」。ミカコが送信したメールは8光年の道を辿ってノボルのもとに届く。そのメールはノイズだらけでありながら、コミュニケーションの不可能性ではなく、可能性を信じるに足る根拠になる。最後にミカコとノボルが言う「ここにいるよ」とは、まさにコミュニケーション可能性そのものである。

 それと同様のことが『秒速5センチメートル』でも起こる。『秒速5センチメートル』のラスト、タカキとアカリは出会うことはない。電車を挟んで振り返った先に彼女はすでにいないのだ。それでもタカキが喪失を克服できたのは、アカリとすれ違った瞬間に、「いま振り返ればきっとあの人も振り返ると強く感じた」からだ。テレパシーのような根拠のないこの確信は、コミュニケーション可能性を意味している。タカキの独りよがりという批判があるかもしれない。しかしアカリも多分そう感じている。だからこそ電車が通る寸前、アカリは振り返るそぶりを見せたのだ。

 『ほしのこえ』と『秒速5センチメートル』に共通することは、どちらも悲劇でありながらハッピーエンドなことである。その明らかな矛盾を両立できるのは、そこにコミュニケーション可能性が示されているからなのだ。

忘却したいのは震災ではなく、葛藤のない我々の存在の記憶だ

 では『君の名は。』におけるコミュニケーション可能性はどのように提示されているのか。そこに回答をだす前に、三葉と瀧の非対称性について注目しておこう。

 三葉と瀧は性別が違うだけでなく、育った環境も大きく異なる。三葉は女性で宮水神社に仕える巫女でありカフェもない田舎者である。一方で瀧は男性でカフェバイトに勤しむ都会者である。二人は入れ替わった先の見ず知らずの環境で、大いに楽しみ大いに学ぶ。だが問題は環境の非対称ではなく、内面の非対称生のほうだ。

 三葉と瀧はどちらも母がいない。その境遇は同じでありながら、父との関係は真逆である。瀧は父と二人暮らしをして当番制の朝食を作り合う仲である一方、三葉は父との葛藤を抱えている。家を出て村長になった父を意識する三葉は、街中で出会っても会話をすることができない。さらに三葉はこの街から出たいと強く願っている。巫女としての役割、父との確執、田舎への不満、そのどれもが彼女のアイデンティティーを形成ている。だが瀧はその真逆だ。都会で生活している瀧は東京をでることなど露とも望んでいない。母がいないことも父と二人暮らしであることも葛藤の対象にはならない。高校の友人とカフェをし、日々バイトに明け暮れ、奥寺先輩に恋い焦がれる瀧には、葛藤も焦燥も不満もない。つまり深みがない人間なのだ。

 そのことが端的にあらわれるのが、三葉に入れ替わった瀧が、三葉の父である俊樹に避難訓練をするよう直談判しにいったときに、「お前はだれだ」と俊樹に言われるシーンだ。瀧はこのことに過剰にショックを受け、自分では説得できないと悟り三葉に入れ替わる方法を模索する。このシーンは一見すると、瀧であることを見抜かれてショックを受けているようにも見える。だが、その後の俊樹の対応をみるに彼は三葉の正体が瀧であることを見破っていない。むしろこの発言は直接瀧に響いたのだ。東京で不安や葛藤もなくのうのうと暮らす、お前は一体誰なんだ、と。

 このことは瀧が震災にあまりに無頓着であることからもわかる。瀧はティアマト彗星の核が分裂した姿を眺め「美しい眺めだった」と呟く。さらに、その後の生活で彗星衝突の大惨事を忘却し、記憶の光景からスケッチした絵を見たラーメン店の店員が「糸守」と言ってなお思い出せず、あろうことかついてきた奥寺先輩と司よりも気づくのが遅いのだ。そして当時の光景を報道で目にしたから、夢に現れたと推測するに至る。

 もし震災の「忘却」が望まれているとしたら、それは当事者の福島県民ではなく、瀧のように震災を忘却していた我々である。彗星を一瞬でも「美しい」と感じ、500人以上の被害をもたらした震災を忘れ、のうのうと都内で暮らす葛藤も不安もない瀧。それは東北大震災が起きたときに大きな揺れだとはしゃぎ、津波に巻き込まれる住民たちを写したのをみて悲しみを覚えながらどこか本気に悲しくことも泣くこともできず、数年後には綺麗さっぱり記憶から消した我々そのものだ。忘却したいのは、震災ではなく、震災に見舞われてなお葛藤すら覚えない自分たちであり、そのような自分を消したいがために震災の事実を消したいという歪んだ感情である。

忘却の代償、バッドエンドのゆくえ

 新海にはもう一つ死者の国をイメージした異界のモチーフがある。『ほしのこえ』や『星を追う子ども』に登場するアガルタがそれだ。異界で死者と対峙し何かを持ち帰る、それが新海のアニメのテーマである。

 本作における異界とは、口噛み酒が奉納された宮水神社の領域であり、さらにいえば三年前に死んでしまった三葉である。ここにコミュニケーション可能性が関わってくる。『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』では、二人は出会えないからこそ、コミュニケーション可能性が希望を与えた。届かないからこそ届く可能性がある、というのが新海の根本にある。

 では本作はどうか。この作品の回答は、死者とはコミュニケーションができるというものだ。黄昏時の奇跡がそれを可能にしている。だが、問題はコミュニケーションではなく、コミュニケーション可能性のほうである。対面した二人は元の世界に戻る。そこにあるのは完全な忘却である。

大事な人、忘れたくない人、忘れちゃダメな人。誰だ、誰だ、誰だ・・・名前はー

 震災を忘却することは、そのほかの忘却も意味する。忘却は代償を払わなくてはならないのだ。そこでは相手の名前を思い出すことはない。そして届いてしまうメールや、相手も振り向くという強い確信があった前の作品と違い、ここではその可能性すら提示されない。

 だから最後は単に出会うというだけのバッドエンドに終わる。新海はこれまで電車をすれ違いのメタファーとして表現してきた。だがこの世界では全てが逆転している。電車は出会うための奇跡の道具になっている。だがこの奇跡は、可能性から生み出された奇跡ではなく、本当に純粋に有り得ないという意味での奇跡である。そこにあるのは出会いだけで、コミュニケーション可能性は存在しない。忘却によって失われたしまったコミュニケーション可能性。それは言い換えれば、死者とのコミュニケーション可能性でもある。勿論忘却することは賢い選択だ。しかし死者とのコミュニケーション可能性がない『君の名は。』の世界で、ハッピーエンドを迎えることはできそうもない。

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