一人で歩くための練習ーー新海誠『言の葉の庭』|内容あらすじ、解説、考察・感想

一人で歩くための練習ーー新海誠『言の葉の庭』|内容あらすじ、解説、考察・感想

概要

 『言の葉の庭』(ことのはのにわ)は、2013年5月31日公開の新海誠の中編アニメーション映画。前作が『星を追う子ども』、次回作が『君の名は。』である。カナダ・モントリオール ファンタジア国際映画祭 今敏賞 & 劇場アニメーション部門 観客賞を受賞。

 キャッチコピーは ”愛よりも昔 孤悲こいのものがたり”。

 新海はほかに初期の名作『ほしのこえ』、中編『秒速5センチメートル』、長編『雲の向こう、約束の場所』『天気の子』、5分短編『彼女と彼女の猫』などがある。

 また「新海誠監督のおすすめアニメ映画ランキング9選」もぜひご覧ください。

登場人物

秋月 孝雄(あきづき たかお):主人公。靴職人を目指す高校一年生。雨の日は午前中の授業をさぼって庭園で靴のデザインを考えている。その庭園で雪野に出会う。

雪野 百香里(ゆきの ゆかり):ヒロイン。27歳。秋月が通う学校の古典の教師をしていたが、生徒からの嫌がらせにより退職に追い込まれる。一時は味覚障害などの症状にも悩ませるが、秋月と出会うことで徐々に回復していく。

内容あらすじ

 靴職人を目指す高校生の秋月は、梅雨入り前のある雨の日、いつもどおり庭園のあるベンチへ向かうと、チョコレートをつまみに酒を飲む雪野に出会う。雪野はそこで、秋月に対して『万葉集』の短歌 雷神なるかみの 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか きみを留めむ」 を言い残して去っていく。

 梅雨入りとなり、雨の日の午前中だけの庭園のベンチでのささやかな交流が始まる。秋月は靴職人になりたいという夢を語り、雪野は秋月の弁当をもらいながら味覚障害を回復させていく。弁当のお礼にと、雪野は秋月に『靴づくりの本』をプレゼントし、秋月は雪野が歩きたくなるような靴を作ることを約束し採寸する。

 梅雨が明けお互い合わなくなるが、二学期のある日に秋月は雪野と学校ですれ違い、雪野が古文の先生であり、嫌がらせにより退職せざるを得なくなっていたことを知る。秋月は嫌がらせの首謀者に会いにいき、かっとなって頬を叩くが、その取り巻きらに返り討ちにあい、顔に傷を受ける。後日、庭園で秋月は雪野と再会し、万葉集の返し歌 「雷神の 少し響みて 降らずとも 吾は留まらむ 妹し留めば」 を口にする。雪野は、同じ学校で古文の教師をしていると気づくと思ったからあの短歌を詠んだのだと語り、方や秋月は怪我の理由を他愛もない喧嘩だと話す。そのあと、急な土砂降りに遭い、傘を持たない2人は雪野のマンションに避難する。

 雪野のマンションで、秋月は料理を作り、雪野はコーヒを淹れる。秋月は今が一番幸せだと感じ、雪野に「好きです」と告げるが、雪野は1週間後には地元の四国に帰ることを告げる。秋月は部屋を出ていくが、過去を回想し雪野は涙を流す。そして裸足で秋月を追いかけ、マンションの階段で秋月に追いつく。秋月は振り返り「やっぱりあなたのことは嫌いでした」と言い、涙しながらこれまでの思いをぶつける。雪野もこれまでの思いをぶつけ、お互い涙しながら抱き合う。

 冬。秋月のもとには地元の四国で教師に復帰した雪野から手紙が来るようになっていた。秋月はあの庭園のベンチで完成した雪野の靴を手にとり、「歩く練習をしていたのは自分も同じだ」と思い、「もっと遠くまで歩けるようになったら会いに行こう」と心に決める。

名言

秋月:あんたは……あんたは一生ずっとそうやって、大事な言葉は絶対に言わないで、自分は関係ないって顔して、ずっと一人で、生きてくんだ。

雪野:どうせ人間なんて、皆どっかちょっとずつおかしいんだから。

解説

年齢差のある二人の男女の物語

 前作『星を追う子ども』はアガルタ世界という別世界を旅するというSF的な話だった。今作『言の葉の庭』はそれとは真逆の日常的な世界が描かれる。舞台は庭園のベンチ。話の半分以上がそこでの話である。さらにそこに新海監督のフェティッシュなこだわりが加わる。庭園の木々の移り変わり、第3の主人公と呼ばれる雨、そして靴とあし、どれもがすべて美しい。新海監督はアニメーションの力を使ってすべてを美しいものに仕立て上げてしまう。

 新海誠は物語作家ではないといわれることが多いが、今作は物語の筋のうまさにも定評がある。高校生の秋月はある日庭のベンチで雪野に出会う。雪野は朝っぱらからそこでビールを飲んでいる不思議な人間で、秋月にとってはそれはまるで「世界の秘密そのもの」である。その「世界の秘密そのもの」みたいな雪野は、帰り際に万葉集の短歌を詠む。もちろんその意味は秋月には分からない。前半はこの秘密の余韻を携えながら進行していくが、後半で雪野を学校で見かけた時にその秘密が暴かれる。なんということはない。朝っぱらからビールを飲んでいたのは学校に行けてないだけであり、短歌を詠んだのは古典の教師だったからだ。観客はふいに現実に引き戻される。こういうアクロバティックな物語の展開は新海作品にはあまりないものだが、それがあるのもこの作品のある意味新海作品らしからぬ魅力だ。

 さてこの話の主役は秋月と雪野だが、新海は今作で「年齢差のある二人の男女の関係を描きたい」と語っている(https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1369999495)。秋月は15歳。雪野は27歳。この二人はどのようにしてどのような関係を築き上げていくのか。

 キャッチコピーには、”愛よりも昔 孤悲こいのものがたり”とある。そう、彼らの関係は「孤悲」である。孤悲というのは要するに「恋」のことだが、万葉集などで当て字として多用されたらしい。日本国語大辞典にはその意味が載っている。

孤悲:目の前にない対象を求め慕う心情をいうが、その気持ちの裏側には、求める対象と共にいないことの悲しさや一人でいることの寂しさがある。その点、『万葉』で多用された『孤悲』という表記は漢籍の影響も指摘されてはいるが、当時の解釈をよく表している。

『日本国語大辞典』

 彼らが出会えるのは雨の日の午前だけだ。雨が降らないと庭園のベンチで会わない(実際は秋月が来ないだけで雪野は来る)。どちらも実は会いたいと願っているが、雨が降らないと出会えないのだ。とりわけ雪野が晴れの日に庭園のベンチにいる時の心境はまさに孤悲だろう。最初に雪野が詠んだ短歌「なるかみの・・・」は「雨とか降ってあなたをひきとめてくれないだろうか」という意味である。すでにここに彼女の心のうちが反映されている。そして返歌は「雨が降らなくてもいますよ、あなたが引き留めれば」という意味である。実際秋月がこの返歌を返したときは雨が上がっている。

人生の雨宿りーー「彼女と彼女の猫」の続き

 新海監督はまた、今作は「『彼女と彼女の猫』の語り直しの側面もある」語っている(https://febri.jp/topics/kotonohanoniwa01/)。『彼女と彼女の猫』では猫の視点から彼女のことが語られるが、そこでは彼女は非常に不安定な人物として描かれている。今作はその続きだというのだ。

 雨が第3の主人公であると先ほど述べたが、雨によってできるのが雨宿りだ。秋月も雪野も庭のベンチで雨宿りをしているのだが、この雨宿りは人生の雨宿りも兼ねていると深海は述べている。雪野は秋月と異なり、学校に行こうと思ったが行けずにあそこにいた。そしてチョコレートとビールの味しか感じられない。『彼女と彼女の猫』の彼女のように、これからどうなっていくのか漠然とした不安を抱えていただろう。

 そこに秋月が登場して、今まで見てきた風景は一変し、雨宿りは練習の場に変わる。これから歩いていく練習をしなければならない。秋月は靴職人になりたい高校生だ。雪野は「歩けなくなっちゃった」と言い、秋月は「あの人が歩きたくなるような靴を作りたい」と思う。雪野の靴は毎回違って華やかなのに歩くことができない。逆に秋月の靴は自分の作った靴で毎回同じだ。この非対称は象徴的で、歩くことになんらかのメッセージが込められていることが分かる。最終盤、秋月と雪野が雪野の部屋でお話しする場面で、雪野は「靴なしで一人で歩く練習をしていた」といい、最終的には裸足で秋月を追いかけることができる。裸足はなんらかの回復を意味するだろう。しかし、靴が人を歩きたくさせるのも事実だ。だからこそ、秋月は最後に雪野の靴を完成させるのである。

考察・感想

ずれからくるコミュニケーションの可能性

 確かに「孤悲」の物語と銘打っているが勘違いしてはいけない。これは恋愛の話ではなく、恋愛にまで発展する前のあるいは恋愛にまで発展しない二人の物語だ。

 秋月にとって雪野は「世界の秘密そのもの」だ。だからこそ彼は惹かれていったし、靴職人の夢も語った。実は秋月も将来に対して非常に不安な思いを抱いている。靴職人になりたいが、専門学校にいくにはお金がかかる。例えば兄からも少し馬鹿にした目で見られている。現実的にはあまり線のない仕事かもしれない。実際秋月は雪野に「あんたが教師だって知っていたら、靴のことだってしゃべらなかった。どうせできっこない、かないっこないって思われるから」と言っている。そう、雪野が素性を明かしていなかったからこそ、お互いの距離が近づきコミュニケーションが成立したのである。

 しかしコミュニケーションの成立はお互いが通じ合ったことを意味しない。秋月は雪野に「好きです」と思いを告げるが、そもそも雪野は好きとか嫌いとかそういう話ではない。「ちゃんと言ってくれよ、俺のこと嫌いだって」という秋月に対して雪野は

あの場所で、わたし、あなたに、救われていたの。

 好き嫌いなのではない、「救い」なのだ。お互い惹かれあっているにしても、それは意味が違うのだ。だから全てが分かったところでそこで物語が収束するわけではない。だからこそ雪野は予定通り地元の四国に帰っていき、秋月と雪野は離れ離れになる。つまり、近づいても近づいても全く混じり合わない関係なのだ。この構図は実は新海作品によく出てくるパターンで、「近くにいるのに届かない関係」と呼ばれている。

 しかし、コミュニケーションの可能性が失われたのではない。雪野からは手紙が来るし、秋月は雪野の靴を作る。なるほど離れ離れになってしまったのだからバッドエンドだという見方もある。しかし、このように離れ離れになるような関係性だったからこそ「救い」もまたあったのである。新海には、自分がハッピーエンドだと思っていたら(ex. 『ほしのこえ』)世の中はバッドエンドだと思っていたという衝撃的な誤解が有名だが、その理由の一端はこういったところにあるのかもしれない。そもそも15歳と27歳という年齢差の中で、二人がコミュニケーションを交わし「幸せな時間」を過ごすこと自体が、奇跡的な幸福ではないだろうか。

歩く練習とは何か

 話を単純に追ってみると、秋月は雪野の社会復帰を(間接的にせよ)手伝っているだけに、つまり雪野の「歩く練習」を手伝っているだけのようにも見える。しかし最後に秋月自身が気付くのは「歩く練習をしていたのは自分も同じだ」ということである。そして「もっと遠くまで歩けるようになったら会いに行こう」と。そう、歩く練習は二人で協力して行われていたのだ。

 社会復帰という観点からいうと、実はおそらく秋月は雪野の社会復帰にはあまり貢献していない。雪野にとって地元に帰るというのが既定路線であったが、それを決断してもといた学校に顔を見せに来たのは、梅雨が終わり、秋月が庭園に来なくなって久しい二学期のことである。秋月に励まされたのなら秋月と会っている時に学校に来るというのもありだし、なんなら地元に帰るという予定をやめて、また同じ学校で古典の先生を続けるという線もあったはずである(実際ほとんどの生徒からは慕われていた)。雪野が学校に行けなくなって地元に帰るという決断を秋月との出会いは少しも変えていないのである。

 二人が練習していたのはなんだったのだろうか。そう、それは何かしらの正直さだ。象徴的なのは晴れた日に秋月と雪野が出会う場面。そこで秋月は返歌を返すのだが、最初にあった日に短歌を吹っ掛けた理由に対して雪野は「同じ学校で古文の教師をしているのに気づくと思ったから」だと語り、秋月は怪我の理由に対して「喧嘩くらいします」と語る。どちらも正しいが、何とも思わない相手に対して「なるかみの・・・」を詠みはしないだろうし、秋月の喧嘩はかなり特別な喧嘩である。でも正直になることも時には必要だ。雨宿りの中で二人はそれを一緒に練習したのだ。

 そうすることで最終的に一人で歩くことができる。秋月と雪野は一人で歩くのを練習していた。しかし一人で歩くとは一体なんなのだろうか。この「一人で歩く」ということ言葉にするのは難しい。しかしそこには何か一歩一歩生きていくといったようなメッセージが込められている。これは大きなテーマで、新海はそのメッセージを他の作品にも込めているのが分かる。『天気の子』もそうだし、とりわけ最新作の『すずめの戸締り』でもそれが分かる。ある意味で『言の葉の庭』はその「歩く」というテーマを凝縮させて象徴的にも現実的にも日常に落とし込めた極めて濃度の高い作品だといえるのかもしれない。

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