完璧なトリックには犠牲も必要だ|『プレステージ』考察

完璧なトリックには犠牲も必要だ|『プレステージ』考察

概要

 『プレステージ』(原題: The Prestige)は、2006年に公開されたアメリカのサスペンス映画。監督はクリストファー・ノーラン。前作は『メメント』、次作は『バットマン ビギンズ』。

 第79回アカデミー賞撮影賞と美術賞にノミネートされている。

 ある出来事によって運命を狂わされた2人のマジシャンが、真実を探し復讐を企てる物語。

 ノーラン監督はほかに『インセプション』、『ダークナイト』、『ダークナイト ライジング』、『ダンケルク』、『インターステラー』、『TENET テネット』などがある。

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登場人物・キャスト

ロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン):奇術師。芸名は「偉大なるダントン(グレート・ダントン)」。ボーデンの失敗で妻を亡くしたため嫌悪感を抱いている。貴族出身で演技力は高いが、発想力はボーデンに劣る。
(他の出演作:『レ・ミゼラブル』)

アルフレッド・ボーデン(クリスチャン・ベール):奇術師。芸名は「教授(プロフェッサー)」。下積み時代に自らの失敗でジュリアを死なせてしまう。孤児で独自の奇術を考案するが、演出面でロバートに劣る。
(他の出演作:『3時10分、決断の時』)

ハリー・カッター(マイケル・ベイン):下積み時代のアンジャーとボーデンの直接の師匠。

オリヴィア(スカーレット・ヨハンソン):アンジャーの奇術の助手。
(他の出演作:『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』『LUCY / ルーシー』)

ニコラ・テスラ(デヴィット・ボウイ):実在した交流電気を開発した科学者。本作ではクローンを作ることのできる機械を開発している。

アリー(アンディ・サーキス):テスラの助手。

ジュリア・マッカロー(パイパー・ペラーボ):アンジャーの妻。ミルトンの助手。アンジャーの芸名である「偉大なるダントン」の名付け親。水槽の脱出マジックの際にボーデンの失敗により事故死する。

サラ(レベッカ・ホール):ボーデンの妻。ボーデンとは基本的に仲良しだが、不満も抱えている。

ミルトン(リッキー・ジェイ):アンジャーとボーデンの師匠。脱出マジックの第一人者。

あらすじ・ネタバレ・内容

 ボーデンはライバルであるアンジャーの瞬間移動マジックを見破るため、彼のマジックの最中に舞台下に新入する。するとアンジャーが、ボーデンの目の前で、2人にとっていわくつきの水槽に落ちて溺死しているところを発見してしまう。そばにいたボーデンはアンジャー殺害の容疑で逮捕される。

 遡ること数年前。若きアンジャーとボーデンは、あるマジシャンの下で互いに修行していた。ある時、助手であったアンジャーの妻が水中脱出マジックに失敗し溺死する。その原因はボーデンが結んだロープであったとアンジャーは疑った。

 2人は決裂し、アンジャーは復讐のためにボーデンの「銃弾掴み」マジックを失敗させ、ボーデンは左手の第4・第5指を失う。以後、2人は互いの邪魔をしながら激しく競い合うようになる。

解説

プレステージの意味

 本作品はクリストファー・ノーランの初期作品で主演にヒュー・ジャックマン、クリスチャン・ベール、スカーレット・ヨハンソンと豪華俳優陣を並べたことで話題を呼んだ。

 ノーラン作品らしく時間軸の反転がある。最初はアンジャーがボーデンの目の前で水槽に落ちて溺死し、ボーデンが逮捕されるところから始まる。時間系列的にはそれは最後の方で、最終的にその溺死はボーデンの片割れの溺死だったことが明らかとなる。

 またボーデンとアンジャーの話が交互に繰り返されるので、現在どの時の話をしているのかを正確に読み取るのは難しいだろう。しかもどちらも相手方が手記を読みながら回想的に話が進んでいくのでますますややこしいのだが、よくわからなくてもスリリングさを楽しめる。

 本作は主人公がマジシャンである。本作の題名「プレステージ」はこのマジックの展開に関係している。何度も本作に登場する名言を見てみよう。

マジックは三つのパートで成り立っている。最初のパートは「確認」。なんでもないものを見せる。二番目は「展開」。そのなんでもないもので驚くことをしてみせる。だが拍手はまだだ。消えるだけでは十分ではない。それが戻らねば。・・・タネを探しても、観客は何もわからない、何も見ていない、何も知りたくない。騙されていたいのだ。

 この引用は本作の最後のカッターの言葉である。「確認」「展開」ときて、最後に来るのが「プレステージ」、つまり「偉業」だ。この三つでマジックが成り立つのだが、この三つの要素自体が本作の思想も貫いている。

どちらが出し抜けるかーースリリングな展開

 アンジャーとボーデンの軋轢の発端はアンジャーの妻の死にある。水中脱出マジックを得意としていたアンジャーの妻であるが、その死の原因はボーデンが結んだロープにあるとアンジャーは睨んでいた。そこから復讐劇が始まるのである。

 相手が新奇なマジックを開発するたびに、片方がその失敗を目論もうとする。「銃弾掴み」のマジックでは、アンジャーがそのタネを見破り、指2本を失わせる大けがを負わせる。逆にアンジャーの鳩のマジックはボーデンに邪魔される。どちらかがだし抜けるかの勝負である。

 最終的にボーデンが瞬間移動のマジックを披露する。タネを見破りたいボーデンはオリヴィアをスパイとして送り込み、テスラに辿り着くが、これがボーデンからすれば全く意味のないものであった。どんでん返し1である。

 と思ったら、テスラの機械でなんと複製人間が作れてしまうことを知る。これでアンジャーにも瞬間移動マジックが可能になった。どんでん返し2である。

 ボーデンは瞬間移動の秘密を割らなかったため絞首刑となり、娘をコールドロウ卿に引き渡すことになるが、なんとそこに現れたのがあのアンジャー。生きていたのかということで、どんでん返し3である。

 さらにさらに最後アンジャーが自らの舞台装置で作業をしているとそこに現れたのが、ボーデンである。実はボーデン、ファロンと双子だったのである。どんでん返し4。というわけでボーデンの勝ちということでこのスリリングな展開は幕をとじる。これもまた「プレステージ」=「偉業」と言えるだろう。

考察・感想

マジックが現実世界を忘れさせる

 この話を貫くのはマジックと犠牲の問題だ。

 そもそもの世界観から考えてみよう。クリストファー・ノーラン作品には多いが、世界観としてはある種のペシミズムが宿っている。そもそも現実世界ではうまくいっていない場合が多い。本作品でもアンジャーの妻が亡くなったところから始まっている。それゆえアンジャーは現実世界に対して暗いイメージを持っている。『メメント』の主人公は記憶が続かず、実は奥さんとうまくいっていなかったことが最後に明かされる。『インセプション』でもコブの妻はすでに亡くなっている。彼らは皆心に傷を抱えて生きている人間なのである。

 そこで必要となるのが現実世界を幾ばくか忘れさせてくれる装置だ。それが本作ではマジックなのである。アンジャーもボーデンもマジックに取り憑かれる。その原動力は、裏返せば現実世界からの逃避である。

 なるほど、皆が皆愛する人を失ったわけではないし、日々悲しみを抱えて生きているわけではないだろう。しかしどうなのだろうか。何かしらの不満を皆抱えているのではないだろうか。そもそも世界がそんなに面白いものだったら、マジックとは一体なんの価値があるだろうか。アンジャーが死ぬ間際にボーデンに語ったことは、この作品の思想を貫いているのではないだろうか。

君は我々のしたことがよく分かってない。観客は本当のことを知っている。世界は単純で、哀れで、全てが決まりきっている。だから彼らを騙せたら、たとえ一瞬でも・・・、彼らを驚かせることができれば、そのとき何か特別なものを見ることになる。知っているだろ?・・・観客のあの表情。

「世界は単純で、哀れで、全てが決まりきっている」。そんな世界に一つの光を与えてくれるのがマジックだ。その意味でマジックそのものが現実世界を表している。マジックに必要なのは、より高度で完璧なマジックに必要なのは、犠牲なのだ。その犠牲があることを承知で、しかし犠牲など存在しないということを信じ込ませれば、そこには特別な瞬間が生まれている。一瞬の美とでもいうような瞬間だ。その時観客は現実を、「単純で、哀れな」現実を忘れることになるのだ。

マジックと犠牲

 マジックに犠牲はつきものだ。しかしマジックに騙されない人間もいる。無邪気なも子供だ。象徴的なのは鳥が生き返るシーンで彼はこう泣き叫ぶ。

殺しちゃった!鳥を殺しちゃった

 実際ボーデンはそのマジックが終わった後、死んだ小鳥を捨てている。実はこの犠牲について、本作品は限界を暗示しているようにもみえる。

 というのも本作品ではアンジャーが復讐に取り憑かれ犠牲も厭わない悪者のように描かれるからだ。「完璧なトリックには犠牲も必要だ」というはアンジャーの発した言葉で、アンジャー自身も犠牲を認めている。にもかかわらずアンジャーはボーデンの心情について「知るか」と言い放ち、批判し、殺してしまう。

 象徴的なのはカッターの態度であろう。カッターはアンジャーを批判する。お前のせいでボーデンは死んだんだと。しかし、ボーデン(ファロン)がその後アンジャーをピストルで撃つことに関しては全く非難しない。これは復讐だから正当化されるということであろうか。だとしたらアンジャーの行為も、発端は妻の死なのだから、正当化されるのではないだろうか。

 少なくともアンジャーに関しては、ボーデンを計画的に殺すことに関しては、やりすぎだというふうなメッセージがこの映画には込められているようにも思える。ボーデンを絞首刑に追い込んだのはまさにトリックが絡んでいる。しかもそのトリックは自分を殺すことによって成立するトリックだ。逆にボーデンの瞬間移動マジックは誰も殺さない。犠牲は必要だと言いつつ、誰も殺さない。彼にとって犠牲とは人生をマジックに捧げることであって(ファロンとボーデンを生きること)、殺人という罪を犯すことではない。それは禁断のマジックであり、ここにマジックの限界がある。

 「偉業」なんてものは存在しないかもしれない。最後ボーデンが娘と再会するところで終わるわけだが、あの人物は厳密にはボーデンではなくてファロンである。ということは「偉業」、つまり戻ってくることは厳密な意味では成立していない。しかし、何も知らない方が幸福である。娘もそうだろう、そしてそのように生きるだろう。この暗いメッセージをどう受け取るべきだろうか。

 ノーラン作品の現実と虚構が混じる作品の通奏低音として読み取ることができるのでないだろうか。現実はそこまで素晴らしいものではない。だから虚構(本作品の場合マジック(トリック))には価値がある。しかし虚構に完全に取り憑かれるのも良くない。それは罪深きものである。そしてその間で常に揺れ動く人間。本作品はそういったノーランの世界観をあらわにしてくれているのではないだろうか。

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