私、宇宙、詩―映画「宇宙探索編集部」感想―

私、宇宙、詩―映画「宇宙探索編集部」感想―

0.はじめに

私とは何者なのか?この広大な宇宙の中で。そう思うこと、誰しもいつかはあるだろう。

その一つの答えを、この映画は示すのかもしれない。

「宇宙探索編集部」(コン・ダーシャン監督・中国・2021年)を観てきた。笑っちゃうような演出がある一方で、約2時間のこの映画で我々が辿り着くのは、深遠な世界だ。この作品を思い出す時、自分の中で確かなあたたかさを感じる。この映画の主張するようであるなら、自分も生きていけるかもしれないと思える。

魅力的な映画なので、自分の感想を交えつつ紹介したい。以下、まず、あらすじを確認する。そして、この映画の中で重要なテーマである詩について述べる。それは、私と宇宙について、そして私の存在について考えることと繋がるのだ。そして、この映画でインタビューのような場面が織り込まれることも踏まえつつ、私達と宇宙についても考えたい。映画は、真実は単純ではなく複雑であることを示しつつ、しかし私個人だけでなく、私達、人類についても考えている。それを追っていきたい。

この映画のメッセージを身に染みて感じ取れたなら、私も、私達も、救われるのかもしれないから。希望を持って、以下書いてみる。

1. あらすじ

第1節で、あらすじを確認しておこう。「宇宙探索編集部」は、UFO雑誌「宇宙探索」のメンバーとその仲間が、UFO目撃情報をもとに旅をする話だ。読者は減る一方である中で、「宇宙探索」編集部の編集長タンは、遠方への取材によりその危機的状況を打開しようと考えた。

編集部メンバーと友人達は、中国の奥地で不思議な現象のあった石像に辿り着く。そしてその側の家に住む、スン・イートンに出会う。彼は頭に鍋を被っていて、時折気絶したり、何かに憑かれたように話し出す人物だった。スン・イートンの感受したお告げに従い、タン達の旅はスン・イートンを加えて続けられる。一行は、更に西の山奥へ進んでいく。

そして途中で忽然と消えたスン・イートン追い、タンは他の仲間が旅を諦めた後も、もっと森深くへ行く。タンはスン・イートンと再会するも、彼は「タンさん、僕は行くよ」と言い残し、光に包まれて消えてしまう。

タンはその後、皆のもとに帰ったらしい。映画の最後で、「宇宙探索」が休刊となり事務所が片付けられているところに、タンはいる。彼は甥の結婚式に出たり、「宇宙探索」関係者との打ち上げで、スピーチをする。彼は旅で、大事なものを得たようだった。

以上がおおまかな映画の流れだ。このようにまとめると、よくある冒険モノのように思える。しかし、タンが最後にする話を聞くと、長旅の結果彼が見つけたのは、超常現象にとどまらないのだとわかる。彼は宇宙における人間の存在意味を考える、糸口を見出したらしい。「宇宙において人類が存在する意味は何か?」とは、彼の娘が自殺する直前に、彼に問うたことであった。

タンが辿り着いた、人間存在の理由とは何か。鍵となるのは詩である。次節で見よう。

2. 私、宇宙、詩

ここでは、映画が私達に伝える、人間のいる意味について考える。これは、直接には、タンが山から街に帰ってきて、甥の結婚式で話す内容からわかる。彼は、そのような夢を見たのだ、という語り方で、スン・イートンとの別れを述べていくが、その中で人類が存在する意味について言及があるのだ。

彼は、スン・イートンと共に宇宙の果てまで行ったらしい。しかし、スン・イートンは「あなたはここまでだ」と言って、タンを残して更に遠くに行ってしまった。その時タンはわかったという、宇宙とは私であると。私の中にも神秘があり、詩がある。そして私が生きること、人類が生きること、それも詩になると。私は宇宙の詩の中の一文字なのだ。私達が生き続けてその詩が十分に長くなれば、宇宙において私達が生きている意味もわかるだろう。タンはそのような答えに辿り着いたらしい。

タンのスピーチから詩が重要であることがわかるが、この映画では、詩が随所に出てくる。例えば、章の区分けにおいてナレーションによる詩の朗読があったり、スン・イートンが詩を作り町で放送していた。スン・イートンが宇宙に飛んでいく時も、彼がタンに詩を朗読する声が響いていた。そのような映画内での詩による演出は、映画の最後の私と宇宙と詩に関する上記の結論に、結びついていったのだった。

また、タンのこの結論は、タン個人のことも考えるなら、彼の変化も感じさせるものだ。映画冒頭から、タンは宇宙の神秘を求めていた。「宇宙探索」という雑誌の編集長で、宇宙人のシグナルを探して発表したりしていた。貧しい食事をしつつ、テレビの砂嵐から宇宙との通信を感じ、それを熱っぽく語っていた。頭の中は宇宙でいっぱいのようであった。現実生活には一切関心がないみたいだった。傍から見れば狂っているくらいに。

しかし、タンはスン・イートンと洞窟にいる時、スン・イートンが宇宙人に迎えられて宇宙に行くのだろうと予期し、彼にこう頼んでいた。宇宙に人類がいる意味は何か、宇宙人に会えたら聞いてほしい、と。それは彼の自殺した娘が、死の直前に送ったメッセージでタンに聞いていたことであった。しかし彼はそれに答えられず、そのまま娘は自死した。

彼は宇宙のことばかりを考えていた。本当に遠くのことばかりに目が行っているようであった。例えば、編集室の暖房を経費がなくてつけることができないとか、窓が壊れているとか、編集長として対応すべきことはあるのに、それは後回しにして、遠方への取材を決行しようとした。そして、他のメンバーに憤慨されていた。

でも、宇宙の果てを追いかけたら、タンは最後には自分の問題に辿り着いていた。どれだけ宇宙を見ても、自分からは逃れられないし、自分の娘を救えなかった事実もずっと残るのだ。  

しかし、それでも生きていかなければならない。そしてその生自体が詩なのだと気付いた時、希望が生まれる。生きていくことが詩だ、私が詩なのだ、そしてそれは宇宙の詩の一部なのだ。映画の最後は、慟哭するタンのアップから引いていき、地球、太陽系。銀河、宇宙となる映像だ。ああ、この卑小な私の生も、広大な宇宙の詩の一片なのだ、という感動。

長い、長い旅を、映画を観る人もタン達と一緒にし、タンの巡り着いた答えに、共に震えるのだ。宇宙を考えることは、最終的には私自身を考えることに繋がる。タンが宇宙に夢中になっていたところから、自分と自分の娘のことにも向き合おうとした変化は、それを感じさせるものだった。

第2節では、人類が宇宙に存在する意味についての、タンの結論を確認した。「私は宇宙の一部であり、私が生きて、人類も生きるなら、その詩が長くなり、宇宙において人間のいる意味もわかるだろう」、文字にすると説教臭いかもしれないが、映像は、それを迫力を持って納得させるものだった。しかし、映画はそれだけでは終わらなかった。タンの答えが、単純に映画内で肯定されるわけではない。その様子と、その複雑の意味を、第3節で考える。

3. 真実

第2節で見た、私のいる意味、つまり、私は詩だ、私達は詩だ、それは宇宙の詩の一部なのだ、というタンの結論は、何て素晴らしいのだろう。涙が出る。でも、映画はそれを単純に提示した訳ではなかった。自分の考えが、必ずしも他人に共有されていないかもしれないこと、自分の感動は誰にも理解されないかもしれないこと、それは確実も表現されている。

例えば、タンが熱っぽく宇宙人の到来について語っている時、うんざりした顔の同僚チンの顔が彼の肩越しに見える。また、タンが新幹線で宇宙について語り出すと、トンネルに入って轟音となる。そして彼の話は聞き取れないままに、彼がパクパクと口を動かし話している姿だけが映される。

一方で、タンの宇宙への熱中を冷ややかに見ていたチンは、旅の途中では、他の人が何も反応していないところで、高笑いをしたり大泣きをしたりした。その声が異様に響くことにより、彼女の認識も相対化されているのかもしれない。自分は現実的だ、タンは実生活に目をくれない馬鹿だと思っている人間は、実は思慮足らずで他人を傷つけている、そのような示唆ともとれる。

加えて、この映画では登場人物のインタビューのような箇所が織り込まれている。例えば、タンが、テレビの故障は宇宙人の来訪と関係があると、こちらに向かって自宅で話す。また、宇宙人について、彼は新幹線のデッキでもこちらに語っていた。

一方、チンは眼鏡店で、私はタンに騙された、とこちらに言い出す。これもチンがインタビューされているような形だ。タンは自分のこともわからないのに宇宙のことばっかり喋っている、奥さんもいたのに離婚して、娘さんは亡くなった、と悲しそうにする。彼女は、タンは現実を見ていない人間だとしている。タンだけでなく、彼女の語りもあることで、タンが主人公として絶対の善ではなくなっている。

他の登場人物についてもインタビューがある。ナリスは列車の接続部で、こちらに自分の気象観測所での仕事について話し、酒は乗り物だ、酒があればどこへでも行けるもの!と目を輝かせながら言う。そして映像の切替えがあり、彼が酒の空き缶に埋もれて、デッキで伸びている映像となる。その姿を見ると、彼の中での飲酒と、周りから見た時の彼の飲酒が異なっていることが、よくわかる。

タン達の西への旅に、途中から参加したシャオシャオは、宇宙人を見たと信じたものが、父に買ってもらった眼鏡によって、デパートの看板だったわかったというエピソードを、皆が寝静まった夜に、こっそりこちらに語ってくれる。そして彼女は、父が離婚した時には、母は「父は宇宙人が連れていった」と言ったということも話す。そしてその後、ひっそりと、彼女が薬を飲んでいる姿が映される。表向き、彼女はタンの編集する雑誌「宇宙探索」のファンとして、旅に同行している。タンには、宇宙との交信は今でもあるのか?とか、好奇心があることはよいことだ、と言われる。しかし、彼女がこちらにこっそり話すことから考えるに、彼女にとって宇宙は家族の崩壊と結びついた、複雑な思いにさせるものであるようだ。しかし、そのことは、一緒に旅をする誰も知らない。

そして、映画内の登場人物それぞれの内面が示されるだけでなく、その旅に映画の観客も同行しているような演出がある。スン・イートンが日食の日に、皆、目を瞑るんだ、と言うところだ。彼は何かに憑かれているような話し方をする。そして、スン・イートンは、お前も目を閉じろ、と手をこちらに差し出してきて、彼の手で三秒間、映画の画面は真っ暗になる。観客も、中国奥地にその時、タン達と一緒にいるのだ。だから、映画内で起こる出来事は、登場人物同士で評価されるだけでなく、その場にいる我々の視線にもさらされているのだ。

このようなインタビューシーンや、我々観客が映画の中の場にいるような演出も合わせて考えるなら、真実は人それぞれの中にあるということになるのだろうか。そう思ってしまうなら不安になる。何とも不確かだ。映画の最後の感動的なタンのスピーチの内容も、彼の感じただけのことで、普遍的なものではないのだろうか。

確かに彼はスピーチで、これは夢だと思う、という語り出しで、スン・イートンが宇宙の果てまで行った時のことを話していた。それによると、雀の群に連れられ、スン・イートンとタンは宇宙の果てに行ったらしい。スン・イートンは、タンさん、あなたはここまでと言い残し、もっと先に行ったという。タンが後ろを振り返ると、宇宙の輪郭が見えたらしい。

観客である我々は、あの場面の時、タンはそのような感覚にあったのか、とスピーチの場面になって気付く。その場面とは、スン・イートンがタンと洞窟で一夜を過ごした翌日、タンが目を覚ますと、スン・イートンが雀に囲われているのを、タンが見ているところだ。そのまま、スン・イートンはどこかへ行ってしまい、彼がいつも被っていた鍋だけが洞窟の入口には残されていた。タンは立ち尽くし感動し、笑みを浮かべていた。

観客には、その時、タンは洞窟の入口に立って遠くを見つめているようでしかなかったが、タンの中では、タンは宇宙の果てにまでスン・イートンと共に行っていたのだ。でも、その時の感覚を、我々はタンと共有しない。映画内の他の登場人物達もそうだ。彼らは旅を途中でやめていたから、その場にさえ、いなかった。

タン以外の誰も、スン・イートンが高次元の宇宙に行ったなんて考えていないのかもしれない。スン・イートンは元々一人で暮らしていたし、村人と密な交流があったようではなかった。スン・イートンの近所の人々は、スン・イートンは村から消えたとしか思っていないかもしれない。一緒にスン・イートンと旅をしたタンの同僚や友人達も、途中でスン・イートンを見失ったから、彼は山で迷って悲惨な死を迎えたのだと、考えている可能性がある。スン・イートンが、宇宙の果てさえ超えて行ったということは、タンの中だけにあることだ。

他にも、共有されていないことがある。タン達が旅の途中でもらった、宇宙人の骨についてだ。それは、空に不思議な光を見たとSNSに投稿した男から、タン達が与えられたものだ。彼は自分の見た光を、自分の過去の体験と結びつけていた。彼は以前、宇宙人と出会い、宇宙人から自分の骨を「高次元の宇宙に行ける人」に託してくれと頼まれていた。そこで彼は、その話をして520元を寄付してくれた人が運命の人だと信じることにしたという。大馬鹿者!とチンに罵られながら、タンはなけなしの旅費から520元を出したが、その男はそれを受けて、冷凍保存している宇宙人をタン達に見せた。子供の作り物のような宇宙人であったが、その骨をタンは託されていたのだ。それはずっと伸び続ける骨だという。

他の人達は、タンは騙されていると思っていた。そしてその骨も、旅の途中で野良犬に与えられていた。しかし、タンは知っている。その骨は、スン・イートンの許に渡っていた。そして、彼が高次元の宇宙に旅立つ時、骨ははっきりと伸びていた。男が言っていた、この骨は長くなり続けている、そして「高次元の宇宙に行ける人」に渡すべきものである、というのは、真実であった。スン・イートンは伸びた骨を持って、宇宙へ行ったのだ。

しかし、以上のことはタン以外の人物は、誰も知らない。スン・イートンが伸びた骨を持って、宇宙に飛んでいったのを見たのはタンだけだからだ。旅に同行した人々は、骨を託した男は金欲しさに嘘をついたのだと思っているだろう。あの男が嘘つきでなかったことは、観客である我々はわかるものの、映画内の登場人物で、タンの言葉を信じる人がどれだけいるだろうか。

事実、彼の雑誌「宇宙探索」は休刊に追い込まれたことが、映画の最後でわかる。タンは生涯をかけて宇宙を追い求めてきたし、それが報われたような体験をしたが、彼の話に耳を傾ける人はいないのだ。甥の結婚式で自分の辿り着いた真実を語っても、客達はうんざりした顔をしていた。そして、守ろうとした自分の雑誌は途絶した。タンの大事なものは、理解されない。

このような状態を考えると、タンの得た真実のはかなさがしみじみと感じられる。「君の妄想じゃないの?」「そんなことあるわけない」という否定に、もろく潰れてしまうのだろうか。

いや、そうではない。他人にとってどうでもよくても、自分の中で確かなことは、本当なのだ。

それは、映画の終わりに、タンのスピーチが2回あることから感じられる。一度目は、甥の結婚式でのもので、夢を見たとしながら、友人が高次元の宇宙に行った話をし、自分こそが宇宙で、人は宇宙が編む詩の文字それぞれなのだ、と語っていた。

二度目は、「宇宙探索」休刊に際しての仲間での集会で、病院の屋上でのものだ。彼は、娘に向けて詩を書いたと言い、それを朗読しようとする。しかし、彼は読むことができない。口ごもるばかりで、そして最後は天を仰いで泣き叫ぶ。しかしその時、映像は彼から引いていき、雲を越え、地球を見て、さらに遠く太陽系、銀河、そしてもっともっと離れて離れて、タンが話していた宇宙の輪郭が見えるようになる。それはちょうど、遺伝子の二重螺旋構造のようだ。ああ、こんなにも遠く遠くまで。しかし、その中あまりに広い中に今、確かに、娘へ思いを伝えようとして言葉にできないまま号泣するタンがいるのだ。

彼は娘への思いを言葉で発することができなかった。ただ泣いた。周りの人々は、言葉によって彼の感じていることを共有することはできない。でも、その共有できていない彼の内面さえ、あまりに広大な宇宙の中に存在しているのだ。それも、宇宙の詩の中の一部だ。それを、感じさせる映画の終わりだ。

私は宇宙だ。私の中に神秘がある。宇宙は詩を作る。そして私は宇宙の詩の一文字だ。他人に共有ができなくても、私の中にあることは本当で、それも宇宙の詩の一部なのだ。他人が自分を否定しても、自分が存在していることは動かせない。私が宇宙の一部で、宇宙の編む詩の部分であることは、確実なのだ。

映画は、真実が人それぞれであるとしていた。しかし最後に、そのそれぞれの本当は、確かに存在しているとも示していた。それぞれ個人が宇宙の詩の一部なのだと教えていた。

チンのタンへの思いも、ナリスの飲酒も、シャオシャオの服薬も、それぞれ宇宙に存在している。チンはタンを心配するのに、タンは宇宙ばかりを追いかけ、チンのことも気にかけないから、チンはタンに怒っている。きっとチンはタンへ何らかの愛があるのだろう。ナリスがどうしてあんなに酒を飲むのか、シャオシャオが何を抱えているのか、詳しくは描かれていなかった。でも、私達が知ることができなくても、彼らが持っているものがなくなるわけではない。それは、彼らの中の真実として、ある。そして、それもあまりに広い宇宙の詩の、一片になっているのだ。

この映画は、タンと旅の一行が、皆でスン・イートンが宇宙へ行くのを見守る、という終わりにしてもよかったのに、そうはしなかった。タンだけが、スン・イートンの行方を知っているストーリーにした。また、インタビュー形式を随所に入れこむことで、人々の考えの共有されなさを、あえて示していた。更に、タンの結婚式のスピーチで終わってもよかったはずなのに、タンが言葉を言うことができない二回目の話を用意していた。それは、共有されない、その人自身の中にある真実もまた、詩であり、本当なのだと示すためだった。

その結論は、素晴らしい。でも、少し怖い気がする。私の中で真実なら、何でもいいのか?そのことについて、第4節では考える。

4. 私達の詩

私の中にある真実の、動かしがたさ。他人から理解されるかどうかに関係なく、本当に存在していること。第3節では、映画の最後から、そのような映画の主張を述べてきた。それは、人に理解してもらえないという思いを抱える人にとって、救いなのかもしれない。

しかし、一歩間違うと、それは危うくはないのだろうか。例えば、宇宙人の骨をタンに渡したあの男のように、私は信じているのだ!と言って、宇宙人のためとしてお金をせびってもよいのだろうか。彼は実際に何かの体験があったのかもしれないし、スン・イートンに託された骨は伸びて、彼とともに宇宙へ帰った。だから、物語の中では、骨をタンに託した男の語ったことは真実であったという扱いであった。でも、それを真似て、自分は奇跡を見たのだとして、金儲けを企むこともできるだろう。では、その時、誰が何と言おうと私はその奇跡を見たのだ、と言えば、それは真実なのだろうか。

また、スン・イートンは宇宙からの指示のもと、山深くまで行き、宇宙へと旅立っていった。しかしそれは、少年が何かにほだされて、立ち入ってはいけない山に入ってしまい、結果失踪してしまったと、他人からは見えるかもしれない。天の導きなら、神の啓示なら、山で消えてもよいのだろうか。もっと過激になれば、それが神の意志だとして人を殺してもよいのだろうか。神に救われるためだとして、集団自殺をしてもよいのだろうか。本人がそう信じるなら、本人の中に真実があるなら、それは正しいのだろうか。

映画の中で、そこまでを突き詰めて描いていたわけではない。だから、このような疑問も自分のひねくれなのかもしれない。でも思いついてしまった自分の問いは気になるから、答えを考えてみよう。これについても、映画の最後の場面に鍵があるようだ。

映画の最後は、前述したようにタンの二つのスピーチだ。一つ目は甥の結婚式でのもの、二つ目は病院の屋上でのものだ。

前者で、タンは見ず知らずの人達に向かって、自分の信じることを話した。人類が宇宙にいる意味は自分自身の中にある、自分は宇宙の編む詩の一文字なのだ、と。後者では、タンはいつも一緒に過ごしてきた「宇宙探索」編集室の仲間に、詩を朗読しようとしていた。娘に捧げる詩だ。面々の中には、タンが資金調達のために宇宙服を売った映画監督たちもいた。彼らに、タンは詩を読もうとするのだが、声は出なかった。

この二つの演説で共通するのは、タンが自分の考えを、自分から縁遠い人に対しても話していることだ。初対面の人にも、不仲な親戚にも、ビジネス上で少し関わった人にも。もちろん、自分の長年の仲間にも伝えている。つまり、自分の心の内を、信念を、大事なことを、いろいろな人にオープンに言うのだ。

思えば、タンが私と詩と宇宙についての発見をしたのも、山奥へ途方もない距離を行き、スン・イートンという初めて会う人と暮らし、旅をしたからだった。そして、最後には自分の人生の一番の後悔、自分の娘が自殺の前に送ってきたメールに答えられなかったこと、もスン・イートンに話したからだった。

彼には仲間がいる。でも、その集団は閉鎖的ではないのだ。それが重要だ。私の詩は確実にある。でも私達の詩も編まねばならない。人類の詩も編まねばならないのだ。自分の中で、閉じた自分達の中で、詩を作るのではいけないのだ。私達は人類の詩を編んでいるのだし、宇宙の詩を編んでいるのだから。

だから、私の中の真実に誠実であると同時に、私は人類の一人だし、宇宙の中の一部であるということも憶えておきたいのだ。私の真実が、独善とか嘘であってはいけない。それが、私も世界も守るはずだ。嘘のために、生命が失われたり、悲しみが積もる世界であってはならない。だから、初めに述べたような、自分の信じることのために死んだり、他人を殺したりすることは、正しくはない、と私は信じる。そう信じることが、私個人の誠実だ。

私、宇宙、詩。私の詩。私の宇宙。でも、私達の詩でもあり。私達の宇宙でもあるのだ。私達の詩も編んでいることが大事であることを、映画の最後の場面は示唆している。わかりやすく答えが出ることではないと思うし、映画もそれを明確にしているわけではない。ただ、私が悩んだことだ。しかし、考えておきたかったから、書いた。

第4節では、第3節で見た、真実が人それぞれであることについて、自分の考えることを述べた。それぞれに考えていることがあるとしても、それでも仲間がいることを信じていけたら、仲間がいることを忘れないでいれたら、ということ。そして仲間はオープンであろうということ。そのようなことも映画からは感じられると思ったので、補足的に書いた。第5節でも、映画について自分が気付いたことについて、少し記録しておくことにする。映画の最初と最後に関することだ。

5. 記録映像とハンドカメラ映像

この感想文では、映画「宇宙探索」について述べてきた。宇宙への愛に溢れた映画だ。でも人類への愛もこの上なかった。そのことを映画の冒頭と末尾が示していると思うので、最後にそれに触れておこう。

冒頭、若かりしタンが、インタビューに答えているところがある。それによれば、彼は、人類は空を見上げ宇宙に思いを馳せるはずだ、と信じていた。そして、宇宙に目を向ければ、その広大さに、自分達が地上で起こしている戦争の卑小さを恥じて止めるだろう、と考えていた。でもその純粋な熱意に満ちたタンを皮肉るように、直後から現代の記録的な映像が流れる。ロケットの打ち上げ、戦争での爆撃、ロケット打ち上げ失敗、デモと弾圧。人類は宇宙への夢をずっと持っている。その中で幾人もが死んだ。ロケットが打ち上がったと思ったら、炎に包まれ崩壊する映像は、それを思い出させる。そして一方で、我々は天を見上げながら地上で争いを繰り返し、膨大な数の人が死んでいる。だから、タンの言った通りにはなっていないのだ。宇宙に思いを馳せることは、地上での戦争を止めることに繋がっていないのだ。

それでもタンは信じていたのだ。宇宙の秘密を明かすことが、人類を救うと。自分の中にある、答えなければならない問いを抱えながら。娘からの「人類はなぜ宇宙に存在するのか」という返信できなかったメッセージ。

そして、彼は辿り着いた。私自身が宇宙であり、神秘なのだと。私は宇宙の詩の中の一文字である、私が生きること、人類が生きていくこと、それによって、私の詩も人類の詩も十分に育ったなら、宇宙の壮大な詩の中で、私がいる意味も人類が存在する意味も、わかるだろう、と。

映画が終わり、エンドロールの最中、ハンドカメラの映像が流れる。記録のために、西への旅の中で、ナリスが持っていたものだ。その映像は、映画本編の映像とは印象が異なる。ブレるし、出演者にあまりに近い。それぞれの皮膚の皺やシミも見える。旅の本人達の息遣いが感じられる。本編が、ストーリーを観客に示すものであるなら、この映像は、旅する彼らの生身の感覚に近いのだろう。エンドロールで突然挿入されるこの映像は、何を意味しているのだろうか。

それは、映画冒頭の記録的映像と対である。そう考えるなら、記録的映像で示されるような人類史に記載されるような出来事も、ハンドカメラが捉えるような人の一瞬の微笑みも、息遣いも、皮膚の皺やシミだって、詩なのだということが言える。どれ程他愛ないことだって、私の生だし、私達の生なのだ。どちらも、宇宙の中に存在していることなのだ。どちらも、宇宙の詩の一部なのだ。

人類への愛も、私、私達への愛も、この映画は持っている。エンドロールの途中で流れるハンドカメラの映像は、それを示している。映画の本編だけでなく、最後のハンドカメラの映像があることで、私、私達への愛はより強く伝わるものになっている。

6. おわりに

この感想文では、映画「宇宙探索編集部」について述べてきた。一途に宇宙を求め、宇宙人を探すタンは、現実を生きる人間からすると、滑稽だ。しかし、そのタンだけが行きついた本当があった。私と宇宙について、私達と宇宙について、タンが感じ取ったこと、それは素晴らしかった。

映画では、真実がそれぞれであることを示していた。その上で、私達への愛、人類への愛も保とうとしていた。真実が個人のものであっても、仲間は大切で、それぞれの真実を伝えていきたいし、その仲間も開かれたものであるべきだと言っていた。そして、物語からこぼれるような人々の部分、それさえ、宇宙に存在していること、詩であること、も示していた。

自分も、何で生きているのかはわからない。でも、私も宇宙の詩の一文字なのだと言われたら、生きていてもいいような気になる。意味がわかるのは、あなたが長く生きてから、人類の歴史がもっと長くなってからなんだよ、と言われたら、そうなのかもしれないと思える。生きる意味を今求めるより、とりあえず生きてみようかとなる。

こうして文字にすると、月次になってしまうが、映画館で、長い長い旅の映像の後に、タンの泣き顔から、広大な宇宙にまで到達するのを見ると、この映画が示そうとしたことを、信じてもいいんじゃないかという気持ちになる。言語化できない感動がある。それをくれた、この映画に感謝したい。そして、まだ、とりあえずは、生きていこう。

参考
「宇宙探索編集部」HP
https://moviola.jp/uchutansaku/
※画像はphotoAC写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK (photo-ac.com)(ID:28038785 ヒロタカ05作)

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