『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』感想|あらすじ解説|内容考察|雨のニューヨークはロマンチックだとおもう

『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』感想|あらすじ解説|内容考察|雨のニューヨークはロマンチックだとおもう

概要

 『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』は監督ウディ・アレンの2019年のアメリカ映画。制作は2017年に終了していたが、監督のウディ・アレンが#Metoo運動で告発されて公開は延期になっていた。現在でもアメリカでは上映されていない。

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登場人物

ギャツビー・ウェルズ(ティモシー・シャラメ): 大学生。ギャンブラー。

アシュレー・エンライト(エル・ファニング):大学生。ギャツビーの彼女。

チャン・ティレル(セレーナ・ゴメス):ギャツビーの元恋人の妹。

テッド・ダヴィドフ(ジュード・ロウ):有名な脚本家。アシュレーの取材を受ける。

フランシスコ・ヴェガ(ディエゴ・ルナ):人気俳優。アシュレーの取材を受ける。

あらすじ

 大学生のギャツビーと恋人のアシュレーは、映画監督ローランドに取材をするためにニューヨークに行くことに。ギャンブルにはまり社交界に嫌悪感を抱くギャッツビーはニューヨークでのアシュレーとの生活を計画するが、アシュレーは取材の計画に夢中になっていた。

 アシュレーはニューヨークに着くと取材に奔走する。一方のギャッツビーはアシュレーが忙しい間にニューヨークを散策することに。

 取材相手のローランドはアシュレーを気に入り、有名な脚本家や俳優を紹介する。さらには脚本家の妻の不倫現場に遭遇するなどの出来事を経て、アシュレーは彼らと次第に親しくなる。彼らが有名人ということもありアシュレーは上機嫌で彼らと交流をするのだが、一方でギャッツビーのことはなおざりになる。

 ギャッツビーは散策中に元カノの妹チャンに遭遇する。会話をするうちにチャンと価値観が似ていることを感じるも、アシュレーのことが頭によぎりチャンと別れる。その後、母の過去を知ることで母を受け入れ尊敬するようになる。

 アシュレーは俳優のヴェガと良い雰囲気になるも、妻が帰宅してしまい下着のまま追い出されることに。アシュレーはギャッツビーと再開したあと、何事も無かったように振る舞う。二人は馬車に乗り込むも、ギャッツビーはアシュレーと別れることを決意し、雨の中時計台の下に向かう。するとそこにちゃんが現れて……。

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解説

雨のギャッツビー、晴れのアシュレー

 『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』はウディ・アレンが #Metoo運動で告発されたタイミングで製作されたために、ポリコレが席捲する時代の雰囲気や容易く正義が叫ばれる社会運動に対するウディ・アレンの否定的な想いが反映されているようにもみえるのだが、今回はそういう込み入った話は脇に置いて映画の内容に関してだけ書こうと思う。Wikipedeに書かれている『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』に対する Rotten Tomatoes の批評家の見解は「卓越したキャストが中途半端な脚本を大いに補っているが、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』はウディ・アレンの最高の出来には程遠い。」ということだった。もちろん『アニー・ホール』や『マンハッタン』、『ミッドナイト・イン・パリ』などのウディ・アレンの過去の名作と比べてしまうと、出来は最高とまではいかないのだろうが、私としては Rotten Tomatoes の評価の前半部分の「卓越したキャスト」を強調したい。つまり主人公のギャッツビー(ティモシー・シャラメ)の演技が大変に素晴らしいのだ。

 それに「中途半端な脚本」という否定的な評は、ある程度は賛成なのだが、止め処無く流れる会話は気持ちがいいしテンポの良いストーリー展開は爽快な気分にさせてくれるのだから、そこは評価されるべきだろう。もしかすると問題となっているのは物語の深さの部分かもしれない。会話とストーリーのテンポが軽快すぎて映画で問われるテーマの部分が浅いようにみえる。しかし、表層が作り込まれている代わりに深層が薄いからといって、その作品が評価されない理由になるのだろうか。もしかしたら精密に作り込まれた表層が深層の価値を上回り作品の強度をあげるかこともあるだろうに。

 ギャッツビーと彼女のアシュレー(エル・ファニング)の会話がどこか軽いのは、二重の意味においてである。アシュレーは、いま、この瞬間の最優先事項はジャーナリストになる夢を追いかけることであって、そのために有名人と交流するのは楽しくてしょうがない。アシュレーは、本当のところは、ギャッツビーのことなどどうでも良いのである。ではギャッツビーはどうだろうか。ギャッツビーはアシュレーとは逆にアシュレーとの時間を大事にしているようにみえる。ところがギャッツビーは付き合っていることに酔っているのである。ニューヨークに行ったら、ここで遊びこのレストランに行きと予定を埋めるときに最も重要な「誰と」の部分はアシュレーでなくてもいいのである。するとギャッツビーのセリフ場違いにロマンチックになる。アシュレーとの会話に重きを置いているように見えるギャッツビーは、恋の形式への没入によって客観的にみると軽くなってしまうのだ。

 軽妙なだけの会話に不穏な雰囲気が混じっていることも多い。例えば、冒頭のギャッツビーとアシュレーは表面上はニューヨークに向かう若いカップルの会話に見えるのだが、会話内容と姿勢と視線の噛み合わなさが近い将来関係が壊れてしまうことを予感させる。アシュレーの将来への期待感をギャッツビーが壊そうとしているようにみえて、ダメな男性やなあだなあという印象を与えるも、実は相手との関係をロマンチックに感じているのはギャッツビーだったりする。勿論独りよがりなのだが、、、。

 そのすれ違いは、天気という超自然的な部分でも暗示されている。ギャッツビーの周りは雨であることが多く、アシュレーの周りは晴れている。そして二人は雨のニューヨークをロマンチックだと思うか否かという感性のレベルでもすれ違う。アシュレーが晴れのニューヨークを望む横で、ギャッツビーは雨のニューヨークをロマンチックだと思っているのだ。

感想

それでももう一度声をかける

 物語の終盤、ギャッツビーは恋人アシュレーに対する心の距離が離れてしまったことを自覚している。だから中盤に起こった騒動のあとでも妙に優しく接することができたりする。翻ってアシュレーは騒動のあとの余韻に浸っていて、ギャッツビーのことなんか眼中にない。そもそも冒頭からギャッツビーに対してどこか無頓着なところがある。

 そのような状況で、曇り空のニューヨークを馬車に乗って過ごす終盤のシーンが印象的だ。アシュレーはギャッツビーより少し前に身を乗りだして前方を向いている。対するギャッツビーは少し後方からアシュレーのほうに体を向けて肩あたりを虚な目で見つめている。交わらない視線は過去に二人が互いに向き合っていなかったことを、そして少し先の未来を予見している。

ギャッツビー : 霧の日のニューヨーク。なんとなく充実感がある。

アシュレー : 曇天なんて

レイニー・デイ・イン・ニューヨーク

 雨や曇りをロマンチックと思うギャッツビーと、晴れを好むアシュレー。決定的な価値観の違いが表面化する。

 もうあかんわ、と思いながらしかしまだ吹っ切れていない、関係が終わる一歩手前の瞬間、ギャッツビーはもう一度、それでも、という形で、Cole Porter の 「Night and Day」の歌詞の一部を歌う。するとアシュレーは嬉しそうに「知ってる!シェイクスピアね」と答える。この会話の前からギャッツビーはアシュレーと別れようと思っていたかもしれない。でも人間そんな簡単に、はいさよなら、とはできないものだ。伝わらないけどどうにかして伝えたい、その想いが好きな歌詞を歌うという行為に現れている。「ああ、、」という呻き声が聞こえてくるかのような表情、何かを言おうとした口を閉じて膨らませて顔をムーッとする演技、二人の視線、アシュレーの笑顔。最高だ。ここだけでも観る価値がある!!

 人間関係こんなことばかりだが、それでももう一回声をかけてしまうのだなあ。

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