『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』感想|あらすじ解説|内容考察|ファンタジーににおける政治

『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』感想|あらすじ解説|内容考察|ファンタジーににおける政治

概要

 『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』は「ハリーポッター」シリーズの続編「ファンタスティック・ビースト」シリーズの3作目。2022年に公開で前作は『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(2018年)、前々作『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(2016年)。原作はJ・K・ローリング、監督は『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』以降の「ハリーポッター」シリーズと「ファンタスティック・ビースト」シリーズを手がけるデヴィッド・イェーツ。制作に余念がない。

 コロナによる撮影の延期、グリンデルバルト役のジョニー・デップの降板などによって製作は難航を極めた。公開日も延期された。

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あらすじ

 舞台は1930年代のヨーロッパ。ニュート・スキャマンダーは清い魂をもつ人間にひざまずくと言われる魔法動物「麒麟」の保護に向かう。麒麟は双子を生むも敵に殺され、片方の子供は連れ去られてしまう。

 魔法界は次期指導者を決める選挙を行おうとしていた。その頃魔法省の内部にまで勢力を伸ばしていたグリンデルバルトは犯罪者という判決を覆し立候補する。急速に勢力を拡大していた闇の魔法使いゲラート・グリンデルバルドもその選挙に立候補する。ニュートとダンブルドア率いる仲間たちはグリンデルバルドの野望を阻止しようと奔走する。

 グリンデルバルトの計画は、麒麟をあやつりグリンデルバルに跪かせることで次期指導者になることだった。未来予知ができるグリンデルバルトとそれを掻い潜るために無計画で戦うニュートたち。グリンデルバルトを止めることはできるのか。

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解説

マッツ・ミケルセンによる狡猾な政治

 なるほう堂史観によれば、現代は印象批評という原始の批評へと回帰し、「数」という新たな権威に依存して一層評価軸のあやふやになった印象批評の時代に突入している(印象批評とは何か – 批評理論*なるほう堂)。このサイトではレビューや星の数に頼らず作品に対して自ら考え書くことを推奨しているが、そのようなレビューサイトに些か厳しい目を向けるなるほう堂にあっても唯一公認としているレビューサイト「Rotten Tomatoes」(https://www.rottentomatoes.com/; 通称 : 腐ったトマト)によれば、『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』の識者の評価は46%、大衆の評価は83%である(「腐ったトマト」は『アメイジング・スパイダーマン』評で参考にされた。ゲラゲラ笑えるのでぜひ読んでみてほしい : 『アメイジング・スパイダーマン』シリーズが不評だった本当の理由*なるほう堂)。

 「腐ったトマト」の評価をみるかぎり、可もなく不可もなくといったところだろうか。本作の敵グリンデルバルトを演じるジョニー・デップがDV疑惑で降板になり、前作『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』で遺憾なく発揮された他を恐怖で威圧するグリンデルバルトが観られなくなったのはとても残念だが、代役のマッツ・ミケルセンが演じるグリンデルバルトは策略や印象操作がうまそうな狡猾なイメージがあり、『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』では物語の主軸となるのが魔法省の選挙という点を踏まえると、配役変更も良かった面がありそうだ。

 マッツ・ミケルセン演じるグリンデルバルトは裏で画策をしながら表舞台に立とうとする。マグル界では第二次世界大戦に向けて世相が悪化してくのに並行して魔法界にも闇が広がっていく。民衆の声からグリンデルバルトが立ち上がるのは、現代のトランプ的なものを表象しているようである。

 のちのヴォルデモートとは違い、厳正な選挙という過程を経て勢力を拡大していく様子は、より現代の社会を反映しているようだ。「麒麟」を殺して操ったりと不正はするのだが、「麒麟」に選ばれるという承認の過程を省かないところはヴォルデモートよりも狡猾であるともいえる。恐怖によって政治を牛耳るのではなく、あくまで正規の手順で政治を蝕んでいくその手法には現代社会においても注意が必要だろう。

考察

つまらない点も。魔法界はマグル界の写し鏡ではない

 とはいえ前作と前々作で膨らませてきたキャラクターの魅力や世界観の広がりを活かせきなかった感は否めない。例えば、ニュートくんの鞄は狭い空間に自分の世界を閉じ込めるオタク的感性を表すものであったのだから、それを手放という展開をオタク的なものからの成長という物語に繋げることはできなかったか。本作のニュートくんは顔を斜めに逸らすだけのコミュ障であるばかりで、彼がもっていた魅力は減退している。

 ニュートくんの鞄を複製し仲間に運ばせたのは、麒麟の居場所を確定させず敵を撹乱するためであった。この展開は『ハリーポッターと死の秘宝』の冒頭、不死鳥の騎士団のメンバーがハリーに化けてヴォルデモートを撹乱させたのを彷彿とさせる。アラスター・ムーディや双子の耳という大きな犠牲を伴ってでもハリーを移動させようとしたのには真に迫る緊迫感があった。だが、本作ではどうだろうか。この名シーンのオマージュでありながら、移動する5人は緊迫感に欠けもはやピクニック気分といった感すらある。当然ながら誰一人死ぬことはないし、5倍はいたはずの敵はいとも容易く倒されてしまう。

 どうやら本作では「死」の描写をとことん嫌ってるようなのだ。ダンブルドアは「事態はさらに悪くなっている」と注意をするのだが、グリンデルバルトを目の前にしても死ぬ者はいない。麒麟護送でもだし、ダンブルドアとクリーデンスの戦いでも街が破壊されているにもかかわらず周囲の人が傷つくことはない。唯一の死者はニュートの兄テセスウが捕まっていた牢獄の罪人と看守だが、罪人の死体は原型を留めておらずむしろ「糞」っぽいし、看守が死ぬ瞬間の描写はない。人が死ねばいいと言っているのではない。グリンデルバルトの恐怖が世界を覆い「事態はさらに悪くなっている」にもかかわらず危機感が伝わってこないのだ。『ハリポッター』のときのように絶望的な状況でも立ち向かうダンブルドア軍団が見たかったのに。

感想

ダンブルドアは権力にふさわしい人?

 ダンブルドアといえば、『ハリポッター』シリーズを読んだ(観た)ことのある人ならご存知のように、魂は汚れた人である。若い頃はグリンデルバルトとマグルの上に立つことを企み、死の秘宝を目の前にすれば欲に目が眩む。ダンブルドアが「権力を持つに最もふさわしい者は、それを求めたことのない者なのじゃ」とハリーにいうのも、自分の魂の醜さを知っている故である。むしろ、魂が汚れていることに自覚的で反省的なところに、逆説的にダンブルドアの偉大さが現れているのである。だから、「麒麟」がダンブルドアに跪いたのは本当に良くない。それは『ハリポッター』シリーズのダンブルドアを汚すことになりはしないか。

 『ハリポッター』シリーズのダンブルドアは、結婚相手の不在やグリンデルバルトとの逸話ゆえにゲイであると推察されてきた。本作でダンブルドアはゲイであることが公の事実とされた。しかしこの効果にも私は懐疑的である。「ゲイであるかもしれない」から「ゲイである」に変わった時に、抜け落ちてしまったものはないか。包みか隠さず表すことで失われてしまったものはないだろうか。「作者ですら作品に対しては読者である」と看破したのは受容理論であったが、受容理論はフィッシュによって読者や作者の存在を否定されたりイーザーによって読者をリベラル知識人に限られたことで見限られにしろ(受容理論とは何か-文芸批評理論*なるほう堂)、この理解は絶対に正しい。伝えたいことを明言しないことで伝わることがある。『ハリポッター』が作り出した魔法界というファンタジーの世界はマグル界の写し鏡でもなければ、現代の社会を表す都合の良いものでもない。ファンタジーの豊潤な世界によってもたらされる物語だけにしかできないことがきっとあるはずだ。物語の表象の力をもう一度考え直すべきだろう。

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