映画のハイブリッド・ザウルス 『ジュラシック・ワールド/炎の王国』論

映画のハイブリッド・ザウルス 『ジュラシック・ワールド/炎の王国』論

「ジョン、君がやっている制御方法では不可能だよ。進化の歴史がわれわれに教えてくれたことが一つあるとしたら、生命は抑えつけられなどしない。生命はバリアーを破り、新しい領域に広がり、拡散する。[…]私は単に、生命は道を見つけると言っているだけさ。」

― マルコム博士の言葉、『ジュラシック・パーク』(1993)より

「ここから出る道があるはずだ」 

― ボブ・ディラン「見張り塔からずっと」(1967)

※この文章には現在公開中の『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』(2022)に対し否定的な評価が含まれています。同作を未見で、予断なしに鑑賞されたい方は鑑賞後にお読みください。

【2022年7月29日】

 マツオは激怒した。必ず、かの邪知暴虐のトレボロウ監督を除かねばならぬと決意した。マツオには流行りがわからぬ。マツオは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれどもジュラシック・シリーズの帰趨に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明マツオは、村を出発し、野を越え山越え、一里離れたこのシネコンの市にやって来た。新作の初日だったからである。闇の中、マツオは期待に胸を膨らませてスクリーンを見上げた。凡そ二時間半、マツオはそこに映し出される虚無にけんめいに耐え続けた。そして場内がまだ暗いうちに、マツオはシネコンを抜け出した。怒りと悔しさで、涙は止まることを知らなかった。

 トレボロウは私に、最後は任せろ、と耳打ちした。確かに『スター・ウォーズ』のエピソード9は降板させられたが、こちらは大丈夫、バヨナが作った『炎の王国』の素晴らしい続きを見せてやると約束した。作品を見ているさなか、私はトレボロウの卑劣を憎んだ。なぜバヨナの問題提起がなかったかのように研究所の話になるのか。なぜ恐竜の代わりに虫がやたら出てくるのか。なぜジョークが一つも面白くないのか。けれども、今になってみると、私はトレボロウの言うままに映画代の1900円を支払っている。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。バヨナよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか?ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。正義だの、信実だの、スピルバーグ愛だの、シリーズとしての完成度だの、考えてみれば、くだらない。続編でシリーズの精神を殺して金だけは立派に稼ぐ、それが現代社会の定法ではなかったか、ああ、何もかも、ばかばかしい。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。― 四肢を投げ出して、うとうとと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、水の流れる音が聞こえた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。日没までには、まだ間がある。『ジュラシック・ワールド/炎の王国』という、傑作であるのにファンにもほとんど評価されていない作品があるのだ。少しも疑わず、静かに評価される時を待っている映画があるのだ。私は、信じられている。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。書け!マツオ。

 最後の死力を尽して、マツオは書いた。マツオの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力に引きずられて書いた。マツオは疾風のごとくなるほう堂にアップした。間に合った。

「待て。バヨナを殺してはならぬ。マツオが帰って来た。約束の通り、今、感想を書いて来た。」

 バヨナは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くマツオの右頬を殴った。マツオは痛かった。

「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 暴君トレボロウは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「お前らの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。わしがJ・Jの代わりに『スカイウォーカーの夜明け』を監督しておれば傑作になったのに、などというのは、空虚な妄想であった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、『炎の王国』の美点と『新たなる支配者』ではどうすれば良かったかを、一から教えてほしい。」

 どっと群衆の間に、歓声が起った。ひとりの少女が、緋のマントをマツオに捧げた。バヨナは我に返って言った。

「マツオ、君は、よく考えたら知らない赤の他人じゃないか。緋のマントだけに。」

 マツオは、ひどく赤面した。

【2018年7月13日】(以下は、真面目に書きます)

 J・A・バヨナ監督『ジュラシック・ワールド/炎の王国』(2018、以下『炎の王国』)を観た日のことを、今も鮮明に思い出す。この『ジュラシック・ワールド』シリーズ第二作の下馬評は、お世辞にも良いものではなかった。今や古典と呼ぶべき完成度を誇るスピルバーグ『ジュラシック・パーク』(1993、以下『パーク』)の感動を、スピルバーグ自身が才能に惚れ込んだらしいコリン・トレヴォロウという名の俊才が新たに甦らせた『ジュラシック・ワールド』(2015)。私はこの映画も劇場で観て、トレヴォロウの演出には幾度となく疑問を感じたものの、「ジュラシック・ワールド」が開園しあの門が開くシーンには思わず落涙せざるを得なかった。それを受けた第二作ということは、『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997、以下『ロスト・ワールド』)の焼き直しを今さら見せられるのか?と世間は思っていた。『ロスト・ワールド』は傑作であるが、世間の評価は『パーク』に劣る。『ロスト・ワールド』を愛する私でさえ、スピルバーグの底知れぬ凶悪さを秘めた演出なしであれを再現しても、今やCGの衝撃も薄れ、ただのパニック映画になってしまうのでは?と思っていた。このバヨナという名の若い監督(当時は不勉強で他の監督作があることも知らなかった)に、スピルバーグの代わりなど務まるのか?まして、邦題が『炎の王国』?お子様向けファンタジーじゃないのか?

 ・・・初日に『炎の王国』を鑑賞し劇場を後にした私は、予想が良い方向で裏切られたことに大きな感動を味わっていた。確かに「ジュラシック」シリーズでありながら、それ以上のものを目撃できた。

 映画界には「ジャンル・スイッチ・ムービー」というジャンル(?)があるらしい。私の記憶では、映画監督のポール・トーマス・アンダーソンがジョナサン・デミの傑作『サムシング・ワイルド』(1986)を批評する際に「指をパチンと鳴らしたように、中盤のあるタイミングでジャンルが移り変わる映画だ」と発言していたように、一つの作品の中で複数のジャンルが共存している映画のことだ。先ほど挙げた『ロスト・ワールド』も、前半はハワード・ホークス監督『ハタリ!』(1962)のような猛獣捕獲映画、後半は本多猪四郎監督『ゴジラ』(1954)のような都市パニック型怪獣映画として撮られていて、隠れたジャンル・スイッチ・ムービーでもある。

 『炎の王国』は、邦題が意味している火山島(イスラ・ヌブラル)での恐竜捕獲&脱出描写は前半で終わり、後半はロックウッド邸というアメリカのお屋敷を舞台に展開するゴシック・ホラー映画となっている。このジャンル・スイッチの見事さ、そしてスピルバーグの演出を継承しながらも、それにオリジナリティを付け加えて進化させていくバヨナの演出に惚れ惚れとする。本作には、最強の恐竜として、(『ジュラシック・ワールド』に初登場した)インドミナス・レックスを(『パーク』からお馴染み)ヴェロキラプトルと掛け合わせたハイブリッド種「インドラプトル」が登場し暴れ回る。しかし、『炎の王国』という映画自体が、恐竜捕獲映画とゴシック・ホラー映画のハイブリッドであり、スピルバーグの遺伝子を受け継ぎながらバヨナ独自の美しい陰影演出を掛け合わせた最強種なのだ。しかも、テーマは驚くほどに一貫していて、最後まで必然的に展開していく。

 以下では、『炎の王国』の美点を次の構成に従って挙げていきたい。①幽閉と脱出。ここでは本作の19世紀英文学との関連性も論じる。②上昇と落下。ここでは「ジュラシック」シリーズで初めて本格的に用いられた縦構図の画面について論じる。③エントロピー。『パーク』でマルコム博士が口走った「生命は道を見つける(Life will find a way)」という言葉が、いかに映画全体を一貫して流れており、それが「エントロピー」の概念と関連しているかを論じる。

 この文章を、私と同じく『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』(2022)にもっと別の可能性を求める(あるいは、これから求めるだろう)、すべてのジュラシック・ファンに捧げる。

1. 幽閉と脱出

 前述の通り、ゴシック・ホラーの様式美に則って演出される後半部の舞台は、「ロックウッド邸」と名付けられた宏壮な邸宅である。このお屋敷はいかにもイングランドに建っていそうな様式で、アメリカに住んでいる(はず)の住人達もイギリス英語で話している。女中(兼家庭教師?)のアイリスなど、メイジーの「お風呂(bath)」の発音が「クイーンズ・イングリッシュ」でないので、序盤のシーンで何度も言い直させているほどだ。この「英国調」が単なる思いつきの演出ではなく、一貫したテーマであることは、登場人物名が19世紀のイギリス小説から取られているのを見ればわかる。

 まず、「ロックウッド」。これはエミリー・ブロンテの『嵐が丘』(1847)で、最初に登場する青年の名である。「1801年―今私は家主を訪ねてきたばかりのところだが…ここは実に美しい土地だ!」とロックウッドは手記に記し、この複数の語り手/書き手がいる小説冒頭のパートを務める。ちなみに、文中の「家主(landlord)」こそが、『嵐が丘』のヒーローとなるヒースクリフの老いた姿である。『炎の王国』でお屋敷の老いた家主がロックウッドという名を持つのは、以上のような連想が働いたためと思われる。

 次に、ロックウッド氏の孫娘であり、『炎の王国』の実質的ヒロインと呼ぶべき、メイジー。これはヘンリー・ジェイムズの『メイジーの知ったこと』(1897)で、タイトルになっている少女の名から引用されている(ジェイムズはアメリカ人作家だが、この時期は完全にイギリスに生活拠点を据えており後に帰化するので、イギリス小説として捉える)。ジェイムズは「視点」の技法を追求した小説家で、『メイジーの知ったこと』でもほぼ一貫して少女メイジーの視点を用い、両親の離婚に伴う境遇の変化等が叙述されている。しかし、限られた知識しか持たないメイジーは、起きている物事の全ての意味を理解してはいない・・・という点が小説の読みどころである。これは、『炎の王国』のメイジーがロックウッド邸の地下研究室で盗み聞きしたミルズとウー博士との会話の意味があまりわからず(『パーク』時代からウー博士を知っている観客には理解できるため、アイロニーが生じる)、祖父のロックウッド氏にもうまく伝えられず、信じてもらえないという筋書きに転用されている。また、『炎の王国』を最後まで観た観客には、作品を通して「メイジーの知ったこと(What Maisie knew)」が自らのアイデンティティーをめぐる事実だったことにも思い当たるはずだ。

 さらに、メイジーの母親は、後にミルズが明らかにするように、シャーロット・ロックウッドである。今度は登場人物ではなく、『嵐が丘』を書いたエミリー・ブロンテの姉、シャーロット・ブロンテから取られていると推定できる。なぜなら、シャーロット・ブロンテの小説にたびたび登場する婦人家庭教師=「ガヴァネス(governess)」が、『炎の王国』にもアイリスとして登場する(19世紀英文学全般に頻繁に登場するけれども)し、何より代表作『ジェイン・エア』(1847)の主題を『炎の王国』が目立たない形で継承しているからだ。それは、ジェインがロチェスター邸の三階で、不気味な物音や影を目撃するという、ゴシック・ホラー的要素である。ロチェスターには秘密があった。彼はバーサという名の「狂った」妻を屋根裏部屋に幽閉し、それを隠したままジェインに求婚していたのだった。

 『ジェイン・エア』におけるバーサの幽閉については、フェミニズム批評が読み直しを行い、解釈を更新してきた(代表格は、グーバー&ギルバートによるその名も『屋根裏の狂女』(邦訳1986))。それを踏まえると、男性であるミルズが真相の露見を恐れ、自らの権力を行使して少女メイジーを屋根裏の子供部屋に幽閉する『炎の王国』の展開は、『ジェイン・エア』を参照していると解釈することができる。ミルズは”keep her locked”と何度もアイリスに命じるが、ここで観客は「ロックウッド(Lockwood)」邸の中に既に「閉じ込め(lock)」が含まれている恐ろしさに慄然とする。登場人物名が19世紀イギリス小説に由来しているという推定の根拠は、以上である。

(・・・とここまで来れば、悪役イーライ・ミルズも何かの小説と対応していることを示したいが、「イーライ(Eli)」が預言者「エリヤ(Elijah)」から来ていることぐらいしかわからなかった。私からすれば、ミルズの面従腹背で主人を食い物にする狡猾さが、19世紀イギリスを代表する作家チャールズ・ディケンズが創造した最も有名な悪役、『デヴィッド・カッパーフィールド』(1850)のユライア・ヒープ(Uraia Heep)を連想させる。が、これは音が合わないので根拠薄弱だろう。)

 『炎の王国』の「英国調」は、単なる意匠ではなく、スタッフが熟考し選択した結果である。おそらく、後半部をお屋敷ゴシック・ホラーとして構想した時点で、いわば本家返りのように19世紀イギリス小説を参照したのだろう。ヘンリー・ジェイムズも『ねじの回転』でお屋敷を舞台にした幽霊譚を試みているように、ブロンテ姉妹やジェイムズ(やディケンズ)といったこの時代の作家達にとって、ゴシック・ホラーは想像力の基盤をなしていた。ゴシックの基本命題は「どんなお屋敷(家庭)にも隠された秘密がある」だと思うが、これはロックウッド邸の地下研究室にもぴったり当てはまるではないか。

 『ジェイン・エア』から継承された「幽閉」のテーマは、メイジーだけに関わるのではない。『炎の王国』では、皆が幽閉される。前半の火山島ではクレアとフランクリンが回転ポッドで水中に閉じ込められ、後半のロックウッド邸ではオーウェンとクレアが地下牢に幽閉、ジアは手錠で繋がれる。恐竜たちは言わずもがな、オークションに出品する商品として捕獲され檻に監禁される。

 しかし、映画は、幽閉された者をそのままにしてはおかない。映画前半のイスラ・ヌブラル篇が既に、絶滅という運命への閉じ込めとそこからの脱出をテーマにしていた。閉じ込められた者たちは、人間も恐竜も、頭を使って(石頭竜スティギモロクなら物理的に頭突きも使って)幽閉状態から脱出していく。振り返れば、最初のシーンは深海探査ポッドの前に巨大な水門が開けていき、ポッドが外に出るところから始まっており、映画全体のテーマを予告していた。

 ラストシーン、ヴェロキラプトルのブルーがアメリカの広大な荒野で小さいが確実な咆哮を上げる時、観客が感動するのは、人間のもたらした秩序という幽閉から彼女がついに脱出したことに胸を打たれるからだろう。だからこそ一層、前半で脱出船に乗ることができず悲しげな叫び声を上げながら火山の噴煙に姿を消していったブラキオサウルスの死が重くのしかかるのだ。緊密な構成というほかない。

2. 上昇と落下

 作品冒頭の水門が左右に開くシーンは、「幽閉と脱出」というテーマの他にも、画面が左右に分割されて縦にまばゆい光の線が浮かび上がることで、『炎の王国』における垂直軸の重要性を予告している。このショットの後、場所が(あの)イスラ・ヌブラルであると明かされ、カメラは地上でティラノサウルスに襲われる男を追う。発進しようとするヘリから縄梯子が下ろされ、男はそれに捕まって引き上げられる。縄梯子の下の端をティラノサウルスが噛んで振り回し、中間にしがみついている男も危機一髪となるが、やがて縄梯子は下の部分だけ食いちぎられる。助かった、と思ったのも束の間、水面下から大ジャンプで登場したモササウルスに男は食べられる。このアバンタイトルのシークエンスで、『炎の王国』が画面の上下を主軸に展開されることがわかる。平面でのチェイスが魅力だった『パーク』と比較すると、『炎の王国』が上下の空間移動を大量に含み、縦構図の画面を魅力としていることがわかるだろう。『ロスト・ワールド』でトレイラーが宙吊りになるシーンなど少数の例外を除けば、ジュラシック・シリーズでこれほど上・下がキーになる作品はなく、『炎の王国』独自の魅力となっている。

 イスラ・ヌブラルでの一連のアクション・シーンも、縦構図を主にしているものが多い。一行の前に最初に出現する恐竜はブラキオサウルスであり、初めて本物の恐竜を見て感動するジアの地上から見上げる視線とブラキオサウルスの高さがコントラストをなしている(ここは『パーク』の有名なシーンへのオマージュ)。クレアとフランクリンが研究所でオーウェン達の帰りを待つうちに「閉じ込め」られ、恐竜に襲われるシーンでは、「脱出」への唯一の活路として屋上へのハシゴが映る。クレアの後にハシゴを昇るフランクリンは、途中ハシゴの延長とともに「落下」して大ピンチになり(明らかにオープニングの縄梯子の男と呼応している)、パイプの中を恐竜に下から襲われるが、何とか屋上まで「上昇」して逃げ延びる。クレアとフランクリンはその後『ジュラシック・ワールド』に出てきた回転ポッドに乗り組んで噴火からの「脱出」を試みるが、海水中に「落下」し、ポッド内に「閉じ込め」られる。間一髪のところでオーウェンが上から泳いでたどり着き、試行錯誤のうちにナイフでドアを開いて「脱出」、三人で水面へと「上昇」していく(この縦構図のショットはラッセンの絵画のように現実離れした美しささえ感じさせる)。

 以上のように、本作では「上」という方向・「上昇」という運動が生への活路など肯定的な意味を持っている。クレアが初登場する場面でも、「上昇」が強調されていた。アバンタイトルと状況を説明するニュース映像、マルコム博士の台詞の後、カメラはエレベーターで今まさに「上昇」してきたクレアの全身を、足元から顔まで「上昇」して捉えるのだ。この中途半端にしかドアが開かないエレベーターは、オープニングの水門を反復するとともに、映画後半に登場するロックウッド邸の手動エレベーターを予告している。

 ロックウッド邸の構造そのものが、垂直軸によって統合されている。画面から読み取れる限りで述べてみよう。最上階にはメイジーの子供部屋と、棟を別にして(ただしメイジーはよく屋根を伝って移動しているようだが)ロックウッド氏の寝室がある。1階は恐竜標本の展示室となっており、最初にクレアが訪ねた時に通されたのがこの場所だ。おそらく地下1階に、オークション会場となっていた広間。そして地下3階・4階はウー博士の研究室と恐竜を閉じ込める檻がある。「下」はお屋敷のゴシック的な秘密を象徴している。

 この各階層を行き来する時にメイジーが使う手動エレベーターが、ロックウッド邸を内部でつなぎ、『炎の王国』の魅力的なガジェットになっている。だが興味深いことに、メイジーがロープを伝って下降する場面は映されない(前後からそうとしか推測できない箇所は複数あるにもかかわらず!)。観客が目にするのは、メイジーがロープを手繰り寄せて上昇していく場面のみだ。メイジーだけでなく、オーウェンとクレアも、ロックウッド邸の「下」の牢獄から始まり、オークション会場→1F展示室→メイジーの子供部屋→外の屋根、と「上」へ上昇しながらインドラプトルから逃げ、戦っていく。

 彼らの戦いは屋根の上で決着の時を迎えるが、1階にいるジアとフランクリンに降りてくるよう言われるにもかかわらず、降りる場面は映されない。ショットが切り替わると、すでに五人は揃って地下3階にいる。主人公達が「下降」するのは、全てが終わった後にロックウッド邸から出てきて、彼らと共に「上昇」しながらインドラプトルと戦ってきたブルーに、階段を「降りて」対面する時だけだ。バヨナ監督の様式美が徹底されている。

 徹底して主人公達の「上昇」のみを描くのは、インドラプトルの「落下」を際立たせるためだ。メイジーを追って途中までらせん階段(DNAを暗示している)を昇ってきたインドラプトルは、屋根の上に出てから「下降」して子供部屋に侵入し、最後はガラス屋根を突き破って「落下」していく(原題のサブタイトルがfallen kingdomであることも注意されたい)。この落下シーンは、あのイスラ・ヌブラルの水中からの上昇と対比されるように、絵画のように美しい。

 この落下を目にすると、クレアが最初にロックウッド邸を訪問した際、一人だけ下降した人物がいたことの重要性に気づく。メイジーは廊下を走りながら身を隠し、ロックウッド氏は車椅子で水平にしか移動しない中、ミルズだけは階段を降りてきてクレアに挨拶する。ミルズが主人公達の敵となる邪悪な人物であることは、インドラプトルと同じ「下」への方向性(direction)を持つことによって周到に演出(direction)されていたのだ。

3. エントロピーと生命

 再びクレアの登場シーンに戻りたい。足元から顔まで上昇してカメラに捉えられたクレアは、片手に人数分のコーヒーを運んでいる。そして、中途半端に開いたエレベーターのドアを、コーヒーをこぼさないように身をよじって通り抜ける。何気ないシーンであるが、クレアが工夫して隙間を通り抜けていることが重要である。『炎の王国』では、閉じ込められた者たちが、まるで気体分子の運動のように、隙間を見つけては閉鎖系から脱出していくさまが繰り返し描かれる。「幽閉と脱出」のテーマは、冒頭に引用した『パーク』でのマルコム博士のカオス理論によって、「生命」というさらに大きなテーマに結び付けられていく。曰く、「生命は道を見つける」。

 ロックウッド邸の地下牢に閉じ込められるも、隣に石頭竜スティギモロクも幽閉されていることを知るや、機転を利かせて脱出するオーウェン。ミルズによって子供部屋に幽閉されるも、鍵穴を逆から回して脱出するメイジー。彼らの運動は皆、傭兵のウィートリーを欺いて殺し檻から脱出するインドラプトルと同じものとして描かれている。人間も、恐竜も、生命であるからには必ず道を見つけるだろうと言わんばかりに。

 覆水盆に返らず。熱いお茶は冷めていくが温まることはない。一度散らかった部屋は片付けられない。拡散された噂はなかったことにできない。どれも皆、不可逆的な変化である。熱力学および情報理論の世界では、これを「エントロピー増大則」と表現するようだ。『炎の王国』の終盤、まさにエントロピー増大の図像的表現のように、室内での煙の拡散がモニターにカラーで示される。ロックウッド邸にシアン化ガスが漏れ出しているのだ。

 衰弱していく恐竜たちを檻から出し、さらに屋敷全体から外への扉も開放しようと、緊急用ボタンに手をかけるクレア。しかしそれは、広い世界に恐竜たちを解き放つことになる。今や恐竜保護団体で活動するクレアと言えど、被害規模が『ジュラシック・ワールド』での大惨事を超えて測り知れないことは頭をよぎる。だからこそオーウェンは、”If you press that button, there’s no going back.”とその不可逆性をクレアに警告する。

 結末は未見の方に配慮して伏せるが、この後の展開には、ギリシア悲劇のような必然が宿っている。エントロピーに支配されたこの世界の悲劇と言うべきか。ただ一言付け加えるならば、ある決断を下すキャラクターも、恐竜も、同じ「生命」であるという観点から、このシーンは演出されていると思う。「生命は道を見つける」。生命をコントロールしようとする者は、必ず報いを受ける(=映画の言葉に翻訳すると、「悲惨な死に方をする」)。それが、1作目『パーク』から『炎の王国』が受け継いだ最大のメッセージではないか。生命はデザインもできないし、アンダー・コントロールでもない。ビヨンド・アンダースタンディングである。それでも、多様な形の生命が次々と生まれてくるだろうこれからの社会、どんな形であっても生命であることを肯定していくような、生命賛歌として『炎の王国』を捉えたい。生きたティラノサウルスが最後、ミルズが後生大事に抱えていたDNAのカプセルを蹴散らして去っていく場面に、私は感動を覚えた。

4. 結び

 『炎の王国』は、スピルバーグの『パーク』から継承した生命のテーマというDNAを、バヨナの縦構図、陰影演出、ゴシック・ホラー演出でキメラ化した、ハイブリッドな映画である。しかも、リズム自体は「幽閉」→「脱出」/「下」→「上」/「危機」→「道を見つける」というあたかも初期映画のような簡潔さで構成されており、ダレることがない。ラストの次回作へのパスも、問題提起として絶妙であった。完璧だ!それなのに…。

 『炎の王国』で「安全な場所に連れて行くよ」というオーウェンの誘いを、ブルーは檻付きの自動車を一瞥することで拒否した(翻訳「あんたたちの言う”安全”って結局”閉じ込める”ってことでしょ?!」)。ミルズはある場面で、オーウェンとクレアに”You can’t put it back in the box.(もう箱には戻せない)”と叫んでいる。パンドラの箱を開けると、全ての物が飛び出して最後に希望だけが残ったと聞く。しかし、『新たなる支配者』を観ると、どこぞにある研究所という狭い箱にもう一度恐竜たちを詰め込んで、虚無や絶望と一緒に無理やり封をした映画だという印象を受ける。生命技術も、またぞろコントロールに失敗するも、微調整すれば事足りるかのように描かれている。これほど、エントロピー増大則に反した欺瞞的な物語はない。『炎の王国』のラストで、やっとわれわれは外の現実に出たのだから、現実に向き合わなければ。その欺瞞性に比べれば、アクションや会話の間とテンポがまったく見るに堪えないことなど、小さな問題だ。

 歴史にイフはない。カオス理論の大家マルコム博士にも作品のカオスはもうどうにもできないだろうが、憤懣やるかたないので、せめて『新たなる支配者』の修正案をここに書き留めて結びとしたい。

① 世界中で巻き起こる、人類と恐竜との戦いを1時間かけて描く。

② メイジーは成長し、『炎の王国』での出来事を思い返し、自分の負う責任に苦悩している。オーウェン・クレアと共に丸太小屋に暮らしている(という設定もなかなか意味不明だったが、そこは採用するとして)中、町の住人が恐竜に食い殺される事件が発生する。防犯カメラの映像を見ると、成長したブルーが映っていた。衝撃を受けるオーウェンたち。

③ 親しくしていた近所の人々からもバッシングに遭い、夜逃げ同然で町を抜け出すオーウェンたち。旅をするうち、世界中の大都市が恐竜により壊滅しているニュースを聞く。宿泊するモーテルにも、ヴェロキラプトルの群れが迫る。

④ オーウェンはブルーに対してしていたように手をかざすが、野生のヴェロキラプトルに噛みつかれる(この描写を是非入れてほしかった!)。間一髪のところを、モーテルで飲んだくれていた老人に救われる。礼を言うメイジー。老人「ティラノサウルスが来れば、もっと簡単に倒せたんだが」。光が差すと、観客にとって懐かしい顔が浮かぶ。「グラントだ。」「ありがとう、ドクター・グラント!」「ドクター、は余計だ。昔の話だよ。」

⑤ グラント博士は、恐竜が跳梁する中化石発掘の仕事に意義を感じなくなり、アルコール依存症になっていた。オーウェンはグラント博士に現在の状況をどうすれば良いか教えを乞うが、相手にされない。それでも追いすがると、やっと昔の顔に戻り、こう言う。「その問いに対し、あの男ならなんと答えるかな…」→マルコムに電話

 で、ここから始まる大冒険!めちゃくちゃ面白そうじゃないですか?

 ということで、ユニバーサルさんここからリブートして作りましょう!監督?あ、できればトレヴォロウじゃなくてバヨナで…。 THE END

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