現代は断片の時代だ。芸術家は誰でも、断片に憧れる。鮮烈な強度を持つ断片。断片だけで作品ができるならどれだけいいだろう!そんな思いのみから生まれた芸術作品も存在する。
しかし、ただ断片を連ねることは、物語作者の仕事ではない。断片群はそのままではただの混沌である。いやしくも物語を語る者ならば、断片群を共通性という水平軸(空間)とストーリーラインという垂直軸(時間)の統一性で構成しなければならない。
例として、個人の内的発話をそのまま書き記す“意識の流れ”の手法を打ち出した、20世紀初頭のモダニズム小説を見てみよう。それらの多くでは、一方で登場人物たちの多くが異なる場所から目にする同一のイベントを、他方で時間の流れを可視化するモチーフを、読み取ることができる。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』(1922)第10挿話でダブリン市内を練り歩くパレード、そしてヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(1925)で皆が見上げるロンドン上空の飛行機雲は前者(空間性)、ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』(1929)でのヒロイン・キャディーの変容(兄弟たちの目には「堕落」としか映らない)度合いや、同じくフォークナー『死の床に横たわりて』(1930)における葬列の進行度合いは、後者(時間性)に当てはまる。
さて、ここで映画に話を移そう。映画という芸術は、出自からして1秒24コマの断片からできている。そのため、「モンタージュ」などバラバラなショットを統一する技法への意識も早かった。しかし現代はもはや、統一の時代ではない。各個人が生活するさまを断片的なシークエンスで描写しながら、スケッチ的な断片を、統一感を持つ「作品」へと昇華すること。それが20世紀後半からの「現代」を生きる映画監督たちの見果てぬ夢となった。
この課題を完全に成し遂げた監督として、ロバート・アルトマン(1925-2006)の名を挙げることができる(特に、空間を狭く限定した『ナッシュビル』(1975)と『ウエディング』(1978)は群像劇の大傑作である)。そして、アルトマンを深く尊敬する現代の物語作者ポール・トーマス・アンダーソン(1970-、以下PTA)は、『マグノリア』(1999)を世に放つ。①ロサンゼルスを舞台とし、②終盤に登場人物をつなぐ大事件が起きる、③群像映画、という3点で、アルトマンの『ショート・カッツ』(1993)を容易に想起させる映画である。しかしながら、PTAは真のアイロニーの人であったアルトマンとは異なる特質を持っており、構成にいくつかの特徴がある。以下で、『マグノリア』を題材に「現代」映画における断片と統一の問題を探っていきたい。
(*以下、ネタバレあり)
『マグノリア』を見終えた観客がまず思うのが、「なんでカエル降ってくんの?」だろう。映画の終盤20分で起きるカエルの豪雨は、何のために起こるのか。映画外の、つまり物語作者の見地から見れば、答えは明らかだろう。「共通イベントによって、バラバラの登場人物たちをつなぐため」だ。しかし、『ショート・カッツ』の終盤で無邪気に大地震を起こしてみせたアルトマンの豪放さと異なり、PTAはフォロワーらしいより周到な手段を取っている。
注意して見ると、登場人物をつなぐ共通イベントは、実はカエルだけではない。一つ目は、テレビ番組だ。名物司会者ジミー・ゲイター(フィリップ・ベイカー・ホール)司会のクイズ番組「What Do Kids Know?」は天才少年スタンリー(ジェレミー・ブラックマン)が出演し、死の床にある製作者アール・パートリッジ(ジェイソン・ロバーズ)が出資している。過去にはドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)がこの番組でクイズ少年として名を馳せ、現在もバーのテレビ画面で見ている。ジミーを嫌悪する娘クローディア(メローラ・ウォルターズ)も父が司会する番組を見ている。そしてテレビ画面には、フランク・T・J・マッキー(トム・クルーズ)のCMも流れている。このように、同じ内容を離れた場所にいる異なる人々に同時体験させるテレビ(=tele-vision)は、作品内で人々を知らずしてつなげる働きをしている。
二つ目に、映画中盤で主要人物全員が別々の場所でエイミー・マンの曲「Wise up」をリレーして歌う、リアリズムを無視したまるでミュージカル映画のような場面(名場面!)がある。「それは終わらない / 君が賢くなるまでは」と印象的に繰り返されるこの歌(ところで「それ」とは何だろう?)は、置かれた境遇は違えど賢く生きられずもがく登場人物一人ひとりの心情を代弁している。
このように共通イベントを用意したPTAだが、水平軸だけでは不満足だったのだろう。彼は、垂直軸のストーリーラインにもいくつかの周到な仕掛けを用意し、断片を「作品」に縫い合わせている。
第一に、狂言回しとしての黒人少年。彼は、①序盤で警官のジム・カーリング(ジョン・C・ライリー)に付きまとって殺人事件の手がかりを与えようとラップを披露し、②中盤でジムの落とした拳銃を盗み、③終盤で気絶しているリンダ・パートリッジ(ジュリアン・ムーア)の車に乗り込んで彼女を助けるかと思いきや窃盗を働いて逃げる、と要所で縦横無尽の活躍を見せている(詳しく描かれていないが、黒人女性マーシーのクローゼットにあった死体の件や、最後にジムの元に帰ってくる拳銃の件にも、この少年が裏で関わっているのだろう)。彼の存在により、観客は断片群の背後に暗示されている「ストーリーらしき」ものを想像することができる。
第二に、「82」という数字。カエルの雨に関わる記述は『出エジプト記(Exodus)』8章2節が出典らしい。PTAはクライマックスまで、まるでそれを出しておけば後でムチャをしても観客に許してもらえる免罪符になるかのように、画面に「82」を溢れさせている。あなたはいくつ気づきましたか?
正解はこちら! 絞首刑になった三人の囚人の話(以下逸話1と呼ぶ)で囚人の胸につける番号が82、消火活動のため飛行機からダイバーが落とされ死んだ話(以下逸話2)で飛行機の番号が82。ブラックジャックで飛行士が望むカードが2、ダイバーが渡すカードが8。奇妙な自殺の話(以下逸話3)で博士の報告が始まるのが8時20分、屋上から飛び降りる青年の足元にあるロープの形が82、夫婦の部屋番号が682。
まだまだある。3つの逸話に続く本編では、最初に予報される降水確率が82パーセント。ジムの私書箱のナンバーが8-2。フランクが視聴者に語るコマーシャルで表示される電話番号にも「-826-」。「What Do Kids Know?」の客席で観客が振り回しすぐ取り上げられるプラカードの文字が「Exodus82」。クイズ解答者として「数字と牛乳なら任せてくれ」と豪語していたルイス・グスマン氏ならこれらの数字にさぞ喜ぶことだろう。これら時間をおいて出現する「82」は、作品内の「暗合」をもたらす符牒として、和歌の枕詞のようにクライマックスのカエルの雨を導く機能を担っている。名司会者ジミーが番組冒頭の切り口上で言うように、われわれが「信じようと信じまいと(believe it or not)」。
第三に、「偶然(chance)」の強調。窓の外に降りしきるカエルを見てもまったく動揺せず、達観したように「This is something that happens.」とつぶやき続けるスタンリー少年について、われわれ観客が、理性では不気味で異常と思いながらも感性で共感してしまうのはなぜなのか?それは間違いなく、冒頭に語られる3つの挿話とナレーションのみで登場する語り手が生み出す効果である。詳しく見ていこう。
挿話1は、「グリーン・ベイカー・ヒル」という場所で犯罪を行った三人がグリーンとベイカーとヒルだったという話。この映画のタイトルがMagnolia streetという、まさに場所を指すものであることとも関係している。語り手は「I would like to think this was only the matter of chance.」と、「偶然の問題」として片づけている(onlyのニュアンスに注意)。
挿話2は、山火事のため飛行機で池から水をくみ上げて消火活動したら、水と一緒に潜っていたダイバーも落としてしまった、しかも飛行士とダイバーは二日前にカジノで会っていたという話。池のカエルが空から降ってくる伏線にもなっている。語り手は「And I am trying to think this was all only a matter of chance.」と、先ほどより弱い姿勢ではあるが、これも「偶然の問題」と位置付ける(再び、onlyの使用)。
挿話3は、屋上から飛び降り自殺しようとした息子を、三階下で夫婦喧嘩していて偶然撃ってしまった母の話。「家族の困難さ」という全編を覆うテーマが早くも浮上している。そしてこの誰が見ても偶然と思える事件に対して、語り手は突然判断をひるがえすのだ。「This was not just a matter of chance. No. These strange things happen all the time.」 ここには、起こった出来事がstrangeだという認識とともに、挿話1・挿話2と異なって「起こったことは偶然ではない=起こるべくして起きた」という感覚がある。
語り手が判断を変えたのはなぜか?それは、母が持っていた銃に、弾を込めたのが飛び降りた息子本人だったからである。息子は親同士が喧嘩するのに耐えかね、殺しあえばいいと望んで弾を込めた。奇想天外な自殺に至ったのはstrangeである。しかし、そもそもの原因はそれまでの家族の不和であり、奇跡のような何かが起きたのは偶然ではない。家族の問題に関して、語り手の判断は急にシビアになる。
以上の分析を念頭に、カエルの雨を見てみよう。そうすると意外なほどに、「カエルのせいで運命が狂わされた」という登場人物はいないことに気づく。余命いくばくもなかったアールは、息子フランクの前で息を引き取る。ジミーは自殺を果たせず、しかし銃が暴発して結局死ぬ。リンダを運んでいた救急車は横転するが、結局彼女は一命を取りとめる。ドニーは盗んだ金を職場の金庫に返しに行こうとする途中で落ちるが、結局ジムと一緒に返しに行く。これらの出来事は、過去に原因があり、起こるべくして起きている(「われわれが過去を捨てても、過去はわれわれを捨てはしない」)。カエルの雨というstrange thingsは起こったが、それぞれの結果は決して偶然ではない。語り手が冒頭に提示した世界観によって、映画は統一されている。
共通イベントという水平軸と時間(作品内の時間/物理的な上映時間の二つとも)の流れという垂直軸。二つを軸として、『マグノリア』の断片群を統一するのは「家族の困難さ/愛の困難さ」というテーマだ。ラストシーンでクローディアが見せる突然の笑顔は、ジムとクローディアの間に生まれた愛を、作品が祝福している表れと考えられる。このことと、ジムとクローディアが作品内で唯一「平等に向かい合って座る」ことのできる男女(彼らはテーブルのちょうど真ん中で唇を合わせさえする!)であることは、大きな関係がある。
アールとジミーという作品内の「父」は、どちらも他人に向き合って座ることをしない。アールは病人であり常に寝ていて、リンダが添い寝しても顔を向けない。ジミーは司会者という仕事が象徴するように常に「立っている」人物だ。娘のクローディアの部屋を訪れた時「座っていいか?」と尋ねても拒否され、彼は座らせてもらえない。逆の立場になった時、番組の司会者としてスタンリーを解答者席に座らせることもまたできない。映画内で彼が座るのは、向き合う場所に相手のいない控室でと自宅でとの二回だけ。後者では、妻の「クローディアにさわったの?」という質問に向き合えないのを示すかのようにソファにもたれ、アールとそっくりの寝た姿勢になっている。後はただ、収録中発作を起こした時と銃の暴発で死ぬ時の二度、くずおれるように倒れるのを許されるだけだ。
フランク(トム・クルーズ)はどうか?「Seduce and Destroy」などという男性至上主義・女性蔑視のマニュアルを書く教祖なのだから望みは最初から低いが、インタビューの席で黒人女性グエノヴィアと一応向かい合って座りはする。しかし母に関するデリケートな質問が彼の逆鱗に触れるや、後半はただ彼女をjudgeし、沈黙して時間稼ぎしていた。インタビュー直後のスピーチで「Men are shit.」と発言して信者を動揺させたり、死の床に横たわるアールに本音をぶちまけたり(トム史上最高の名演技!)して、たった一日で変化を遂げたフランク。彼が、一命を取りとめ病院のベッドに横たわるリンダとどのような会話をするのか、それは観客の想像に委ねられている。
ジムは、最初通報を受けて急行したマーシーの家で彼女を座らせることができず、結局手錠で縛り付け銃で脅すことになる。この点、フランクの「Tame the cunt.」を地で行く、女性をねじ伏せて征服する行為だ。ところが、同じように通報を受けて行ったクローディアの家では、ジムは彼女と向き合って座り、コーヒーを楽しみ、デートに誘ってもう一度向き合って座る。死体の第一発見者であるにも関わらず捜査に関する会話にも入れないジム、男性性の象徴である警棒も拳銃も落としてしまうジム。そんな彼が、向かい合って座ることのできる女性クローディアを見つけsaveする未来に、作品はささやかな希望を託しているようだ。エンディングで流れるエイミー・マン「Save Me」の歌詞はこうだ。
でもあなたはわたしを救える?/わたしを救いに来て
あなたが救ってくれるといいのに/気狂いどもの集団からわたしを
以上で私の話は終わり。ちなみに、信じようと信じまいと、『マグノリア』エンディングでエイミー・マンが「Save Me」を歌い終わるのは、スタートからちょうど182分の時点である。こうした奇妙なことは起こるのだ。