『君たちはどう生きるか』伝えたいこと考察|継承、悪意、友達、そして私(たち)はどう生きるか|宮﨑駿

『君たちはどう生きるか』伝えたいこと考察|継承、悪意、友達、そして私(たち)はどう生きるか|宮﨑駿

抽象的な話

 全体を通して抽象的な話であった。巷では「難しかった」という感想が多いように感じられたが、私もそう思う。『もののけ姫』ならなんか環境破壊に対する批判的なメッセージがあるんかなとパッと思いつくわけだが、『君たちはどう生きるか』はそういうシーンが少なかった。おそらくこれは生に対するメッセージに関係している。今回のメッセージは「生きろ」でも「生きねば」でもない。「どう生きるか」であり、問いかけである。宮﨑駿は別に私たちがどう生きなければならないのかを描いていない。君たちはどう生きるの?ということであっって、その問いかけが全体を通して抽象的な印象を与えているのだと思う。

 これまでの集大成という感じもする。「これは『千と千尋』っぽいな」とか「これは『風立ちぬ』っぽいな」と思うところは多々あった。しかしそれだけでなく、進化しているなと感じるところもあった宮﨑駿は現在82歳らしい。老いてなお若々しい。ジブリってこんな絵だったっけと思うようなところが結構あり、新海っぽい絵だなあと思うところも多くあった。絵に関してはあまり宮﨑駿が口を出さずに任せたらしいが、現代的なアニメーションも色々と吸収しているのだと思う。主題歌が米津(「地球儀」)というもなんだか新鮮であった。

重心と疾走に関する随想はこちら→「重心と疾走 『君たちはどう生きるか」随想』

上の世界と下の世界

 さて主題を絞って語っていこうと思う。『どう生きるか』では上の世界と下の世界が登場する。上の世界というのは、主人公の眞人達が普段生きている世界で、作品内では戦争中である。作品内では火事があってお母さんがその火事で亡くなってしまうところから始まる。『風立ちぬ』では関東大震災に見舞われるシーンから始まるが、そのような大変な状況を我々が生きている現代と接続させて考えているとどこかで読んだことがある。『どう生きるか』も戦時中という困難な状況。上の世界はそんな生きにくい世界なわけだが、そこでどう生きるのか。

 下の世界というのは、眞人の大叔父様が統べる世界である。ファンタジックな世界で最初は死者の門みたいなものが出てくるので、いわゆる死後の世界、死者の世界なのかなと思ったら、そのような意味だけには留まらないらしい。それは祖先の世界であり、変なインコがワンサカ登場するアニメーション的世界でもある。

 てらまっとさん主催のスペース「【感想】僕たちはどう生きればよかったのか#低志会(youtube)」では、てらまっとさんがこの世界を宮﨑駿が作り上げたアニメーション世界として解釈していたが、最もしっくりきた。なるほど、宮﨑駿は自らの世界を現実世界の指針として、批判として作り上げた。そしてアニメーションの力によって現実世界の何がしかを変えてみようとしたこともあったわけである。結果はどうか。ペリカンがわらわらをばくばく食い、そのペリカンも他に食べ物がないんだという話になり、また太ったインコが暴動を起こそうとしている世界である。そしてその下の世界を最終的に滅ぼすのはインコ大王である。自らが作り上げたアニメーションに世界を滅ぼされるのである。そして上の世界の戻ってきた眞人は、下の世界で拾った石によってかろうじで下の世界のことを覚えているが、アオサギには「じき忘れていく」と言われる。下の世界が宮﨑駿作品のことだとするなら、その巨匠の影響力でさえも拾った石一個程度の微々たるものであり、さらにそれさえも無に帰すということを宮﨑駿は自覚しているということになる。それを石一個程度でも引き継げればそれで良いと取るのか、石一個程度しかと取るのかは意見の分かれるところであるが、どちらにせよ石一個という微々たるものであるというのが宮﨑駿の見解であることは間違いない。

 そもそもアニメーションの影響力というものに関しては二重性を帯びているのが宮﨑駿だ。戦闘機や戦艦を好む一方で戦争反対という矛盾に対する答えを書いたのが『風立ちぬ』である。また自らの映画に関しても見てもらいたいと同時に見てもらいたくないとも思うと語っているのを何かの対談本(確か養老孟司との対談)で読んだ。というのも、アニメはフィクションでしかないから。そこに描かれる自然はフィクションの自然でしかない。宮崎作品に描かれる自然が好きになったとしても、それで木登りをしたり虫取りをしたりするのが好きになるわけではない(むしろ嫌いになることもありそうだ)。ここには葛藤がある。実際自分の作品を見て生まれた一つの集団があのインコ集団だ。あのインコは単純に人殺しの大好きな困った大衆というわけではないが、ああいう集団を作り出したくてアニメーションを作ったのかというとそうではないだろう。あのインコ達に関してはスペースを聞くまで特になんとも思わなかったが、なるほど、それなりに深い意味が隠されていそうである。

主人公は誰を反映しているのか

 ネット界隈では主人公眞人が宮﨑駿である、という解釈が圧倒的であるそうである。確かにそういう側面もあるがそれだけには止まらないだろう。

 てらまっとさん主催スペース「【感想】僕たちはどう生きればよかったのか#低志会」でも言及があってなるほど!と思ったのが、物語の最後に生まれた主人公の弟が宮崎駿なのではないかという見方である。これはこれで説得力がある。というのも宮﨑駿は1941年生まれの次男であり、宮崎航空興学の役員を務める父のもと比較的裕福な暮らしをしていたそうである。『どう生きるか』では昭和15年という年が登場する。昭和15年は西暦1937年。さらにその三年後になんちゃらという言及があって、眞人の弟が生まれたのは1941年と考えてもつつじまが合いそうである

*誤りであった。昭和15年は1940年であり、モノローグでは「戦争が始まって4年目〜」が登場するので、1944年が本作品の時代だろう。すると弟が生まれたのは少なくともその後なので、1941年はあり得ない(Matsuda Matsuoさんの指摘による)。つまり「つつじま」は年代記的にはあっていない。

 そう考えると「君たちはどう生きるか」というメッセージはどのように解釈したら良いのだろうか。まず、主人公眞人が宮﨑駿を反映しているのだとすると、「私(駿)はこのように生きたけど、君たちはどう生きるか」ということになると思う。なるほど、どう生きれば良いのだろう・・・・。

 主人公の弟が宮﨑駿を反映していると考えてみよう。するとメッセージが変わってくる。「自分の上の世代はこのように生きてきて、私(駿)はこの世界に生まれてきて生きていくわけだし、このような上の世代を引き継いで生きてきたわけだけど、君たちはどう生きるか」。ふむ、どう生きれば良いのでしょうか・・・・。

 自分は映画を見ている時、最初は主人公が宮﨑駿を反映しているのかなと思っていたが、大叔父様が登場したあたりに発想の転換があった。「この大叔父様が宮﨑駿では?」。先に上の世界と下の世界の話をしたが、そのように考えると大叔父様は宮﨑駿を反映していると考えられる。そうするとメッセージ性はどう変わるのだろうか。「君たちはどう生きるか」の君たちというのは主人公のことになりはしないか。だとするとメッセージは「私(大叔父である駿)はこんな感じで頑張ったけど、それを見て君たちはどう生きるか」

 おそらく全ての意味が込められていると思う。宮﨑駿は眞人にも、真人の弟にも、大叔父様にも宿っている。それが世代性というのもでもある気がする。『どう生きるか』において私たちは宮﨑駿の七変化を見せられている。私たちは宮﨑駿の作品を見ている。ほとんどの人が一回は見ている。そしてほとんどの人が、見ている割には、石一個程度の影響も受けていないししかもそのうち忘却する。さて、それでも、どう生きるか。

世代、悪意、友達について

 それでは宮﨑駿が伝えたかったことについて考察しみてみよう。三つの観点で考察してみたい。「継承」「悪意」「友達」である。

継承について

 本作での見どころの一つに継承の問題がある。具体的には大叔父から眞人への継承である。大叔父は眞人に悪意のない石を積み上げてくれ、と頼むが眞人はそれをお断りするわけだ。ここには『君たちはどう生きるか』の大きなモチーフが現れている。それは継承と断絶だ。本作は宮﨑駿の様々なメッセージが込められている。そして、それを観ることによって私たちがどう生きるかを考えさせる作品にもなっている。しかし大叔父と眞人との会話から意外なことがわかってくる。

 それは、宮﨑駿は継承というものがうまくいくなどと思っていないということである。継承したくてもそれを受け取るかは本人に委ねられる。また受け取ってくれたとしても、果たして本当に伝わっているのか分からない。つまり継承には必ず断絶が隠されているのである。

 眞人が下の世界に止まらない理由は、自分に悪意があるから、である。しかし大叔父は眞人のことを悪意のない人間だと言っている。すでにここに齟齬があるわけだ。両者で認識が異なっているのである。

 つまり私たちは宮﨑駿を継承している。しかし、宮崎駿が伝えたかったことを受け取っているかというとおそらくそうではない。宮﨑駿自身もそこに気づいている。もちろんそこには諦めもあるが、かといって作品を作るのをやめることはできない。ここには宮崎駿のジレンマを読み取ることもできるだろう。

悪意で伝えたいこと

 継承とも絡んで重要となってくるのは「悪意」である。しかし悪意とはいったいなんなのだろうか。

 眞人が悪意を言った場面を思い出そう。眞人は自らの頭の傷を指して、「自分は悪意のある人間だ」といったのである。それでは傷はどうやってつけられたのか。

 傷がついたのは物語の前半である。眞人が学校の生徒にいじめられた後の帰り道で、落ちている石を拾って自分の頭を殴る。それによってついたのがその傷である。しかし、なぜこの傷が眞人の「悪意の印」となるのだろうか。

 大きな理由は、その傷をつけたことによって様々な誤解や混乱や悲しみを生んだことだろう。眞人の父は、それが生徒によって傷つけれたといい、校長に文句を言いにいく。しかしもちろんこれは嘘である。そして夏子はその傷のことで「お姉様に申し訳ない」と言って悲しむ。こういった混乱を生んだのがこの傷である。

 それでは眞人はなぜこの傷をつけたのだろうか。ここに悪意が存在する。それは友達にいじめられた仕返しとしてつけたのではない。というのも父に尋ねられたときは「転んだ」と返答しているからである。同級生への仕返しが理由ではないのだ。

 最大の理由は、父や母(夏子)への不満である。眞人は父や夏子に心を開いていない。眞人は死んだ母親の夢を見たりして、まだ現実を受け入れられていない。それなのに父は死んだ母親の妹(しかも似ている)と結婚し、しかも夏子のお腹の中には赤ちゃんがいる。自分はこんなにもうなされているのに、この父の身代わりの早さ、これが眞人には受け入れらない。同様に夏子も受け入れられない。夏子は自分の母親ではなく、「父の好きな人」である。常に眞人がそっけない態度を取るのもそのためである。

 つまり父の誤解や夏子の悲しみは予想外の出来事ではない。心の奥底ではそれを狙って傷をつけたのだ。現状への不満からつけた傷、この傷は現実世界の調和にヒビを入れた。だからこそ悪意なのである。

 この悪意について、実はこの存在を眞人は否定しないし善人になろうともしない。むしろ悪意を受け入れる。そして悪意のない大叔父の世界を拒絶し、現実の悪意のある世界に帰っていく。悪意で伝えたかったこととは、悪意は消滅することがないということだ。それでは悪意のある世界では、その混乱の中でただ不満足に生きていくだけなのか。いやそうではない。その悪意を打ち破るものが「友達」なのである。

友達とは何か

 眞人が上の世界に帰ろうとする時大叔父に向かってこういう。

この世界にとどまるより、キリコ、ヒミ、アオサギのような友達を元の世界で作りたい。

 このように眞人が述べたときに、アオサギが「俺も?」と驚いたのが重要である。というのもアオサギはどちらかというと悪意に満ちている存在だからである。

 アオサギは眞人を下の世界に連れていくが、ある意味でその動機は悪意からである。眞人に母親の死を乗り越えさせようという魂胆があったわけではない。眞人を騙そうとし、ただ下の世界に連れていく。

 しかしよく分からないままに眞人を手伝い、最終的には眞人に「友達」と呼ばれることになる。アオサギは決して善良な奴ではない。いつ裏切るかは分からないし、そもそも助けてくれている理由も不明である。それでも眞人を助けてくれる。アオサギは悪意を持った「ともだち」なのである。

 眞人はキリコ、ヒミ、アオサギのような友達を元の世界で作りたいというが、キリコもヒミもアオサギも、現実世界に戻ってくると全て忘れてしまう。友達だったことも忘れてしまうのだ。でもそういった人たちみたいな人と上の世界で生きたいと眞人は言ったのである。大叔父は上の世界は悲惨だという。そして悪意が消滅することもない。それでも友達を作ることはできるし、彼らと悪意のある信頼を築くこともできる。生きるとはそういうことだ。それを噛み締めながら、生きていこうということをアオサギという存在は伝えているのではないか。

注記:「【感想】僕たちはどう生きればよかったのか#低志会」ではアオサギは鈴木敏夫のことであるというようなことがさらっと言われていた。

そして私(たち)はどう生きるか

 そして私たちはどう生きていくべきなのか。実は私は『どう生きるか』の問いかけがピンときていない。というのも私にとって(宮﨑駿は眞人ぐらいの世代、つまり10代に問いかけているのかもしれないがそこはとりあえず置いといて)喫緊の課題に思えるのは「悪意」よりももっと低レベルだが具体的な問題だからだ。つまり、安い賃金なのに長時間労働、高い税金、超高齢化社会と少子化、コミュニケーションの齟齬などなど・・・。論理的な矛盾が恐ろしいほどに蔓延している。しかし、どうやらこういった矛盾はあと30年経っても変わらないだろうというような絶望的な雰囲気。これである。

 宮﨑駿は私たちよりも大きな問題に直面し、そのことについて考え続けた人物である。そしてその問いは僕らにとっても重要なことであり、おそらく一生考え続けていかなければならないだろう。しかしそんなことを考えることすらアホらしいほどに現代は土台が腐っている感じもする。「悪意」とかそういうことを考える前に、そもそも「悪意」って何?とかそういったことも分からないような次元なのではないか・・・。

 巨匠にはこれからも大きな問いついて考え続けてほしい。それが巨匠の巨匠たる所以であるようにも思えるからである。私たち、というか私にその余裕はない。その代わりに私はもっと小さな問題について、その大きな問題を考えられるような人材を育てるという小さな問題について考えていきたいと思っている。

他の論考:「重心と疾走 『君たちはどう生きるか」随想』

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