フィンチャー『セブン』七つの大罪と些細な罪|あらすじ解説|内容考察|感想

フィンチャー『セブン』七つの大罪と些細な罪|あらすじ解説|内容考察|感想

概要

 『セブン』は、1995年に公開されたアメリカのサイコ・サスペンス映画。監督はデヴィッド・フィンチャー。主人公はブラッド・ピットとモーガン・フリーマン。

 「七つの大罪」を題材にした猟奇殺人事件を起こす殺人犯と、それを追う二人の刑事の物語。

 デヴィッド・フィンチャーはほかに『ゴーン・ガール』『ゲーム』『ゾディアック』などの監督作品がある。

 またブラッド・ピットは『ジョー・ブラックをよろしく』『オーシャンズ11』『オーシャンズ13』、モーガン・フリーマンは『LUCY / ルーシー』、ケヴィン・スペイシーは『アメリカン・ビューティー』に出演している。

 また「デヴィッド・フィンチャー監督のおすすめ映画ランキン11選」ではフィンチャー監督の作品を紹介しています。

登場人物

デビッド・ミルズ(ブラッド・ピット):新米刑事。情熱的。

ウィリアム・サマセット(モーガン・フリーマン):定年退職を一週間前にひかえたベテラン刑事。大変優秀で人望と信頼が厚い。世界の汚さに嫌気が差している。

トレイシー・ミルズ(グウィネス・パルトロー): ミルズの妻。街を嫌悪している。妊娠したことをサマセットに打ち明け、出産するかを相談する。

ジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー):猟奇殺人の犯人。カメラマンとして現場に現れることもある。指紋を消すため指先の皮を剥いでいる。

警部(R・リー・アーメイ):

マーティン・タルボット(リチャード・ラウンドトゥリー):

マーク・スワー(リチャード・シフ) :

あらすじ

 退職まで1週間となったベテラン刑事サマセットが死体現場に向かうと、着任したばかりの新米刑事デビッドが現れる。死体は肥満体型の男性で、胃の中に大量の食べ物が詰められ、スパゲッティに顔を埋めて亡くなっていた。死因は殴打による内臓破裂で、現場証拠から銃を突きつけられて無理やり食べさせられたと判明する。

 犯人の残したヒントから、冷蔵庫の裏に「GLUTTONY(暴食)」というメッセージとメモを見つける。翌日、弁護士のグールドが殺害されているのが発見される。現場には被害者の腹部の贅肉1ポンドを乗せた天秤があり、状況証拠から彼は二日間かけて切り取る場所を選ばされたと推定される。現場には「GREED(強欲)」の文字があり、サマセットは犯人が「七つの滞在」を題材にしていて、殺人事件はあと5回起こると推測する。

 デビッドの妻トレイシーは、サマセットを食事に招き親交が深まる。デビットとサマセットが現場証拠を確認していると、グールドの妻が何かを知っていると推測する。彼女は部屋に飾られた絵が逆さまであると指摘し、絵の裏に指紋で「HELP ME」と書かれていた。

 指紋の主の家を訪れると縛り付けられて廃人同然であり、「SLOTH(怠惰)」の文字が残されていた。彼はちょうど一年間拘束されており、犯人の練りこまれた壮大な計画であることが判明する。

 翌日、トレイシーはサマセットを呼び出し、妊娠したことを相談する。サマセットは、堕すならデビットに言うな、産むなら全力で甘やかせと助言する。

 サマセットはFBI捜査官と裏取引をして、図書館の「七つの大罪」に関する書物を借りた人の情報を入手し、犯人と思われるジョンに目星をつけてその人の自宅に向かう。帰りがけの犯人と偶然鉢合わせになり犯人は逃走、追いかけたミルズは殴られてジョンをのがしてしまう。ジョンの部屋には犯行の証拠があり、さらに以前にカメラマンとしてミルズの前に現れていたことが判明する。

 ジョンから電話があり、刑事への称賛と殺人計画の予定を変更したことが伝えられる。続いて娼婦が「LUST(肉欲)」のメッセージとともに殺害され、美人モデルが「PRIDE(高慢)」の文字とともに死体で発見される。

 残り二つの殺人事件を待つだけかと思われたが、ジョンが血に塗れた状態で出頭する。ジョンはミルズとサマセットを指定し、死体の隠し場所を教えるために三人で車に乗って荒野に向かう。ジョンが指定した場所に着くと、宅急便の車が一つの荷物をサマセットに渡す。その中にはトレイシーの生首が入っていた。

 ジョンはミルズに嫉妬した「ENVY(嫉妬)」の罪が、そしてミルズにはトレイシーを殺害したジョンに対する「WRATH(憤怒)」の罪があった。サマセットはミルズを止めようとするが、ミルズは激怒しジョンを射殺する。事件後サマセットはヘミングウェイの「この世は素晴らしい、戦う価値がある」を引用し後半にだけ同意するのだった。

解説

悲壮感と楽観主義が作り出すシリアスで独特な世界観

 『セブン』はデヴィッド・フィンチャー監督の二作目である。とはいえ一作目の『エイリアン3』は様々なトラブルに見舞われ興行的にも失敗し、フィンチャー自身満足のいく作品ではなかったようで、彼は自作と認めていないようだ。したがってフィンチャーの第一作は『セブン』といっていいかもしれない。

 本作は興行的にも成功し批評家の評判もよく、フィンチャーの評価を高めることになった。続く『ゲーム』や『ファイト・クラブ』、『ゴーン・ガール』や『ソーシャル・ネットワーク』など傑作を生み出し続けたフィンチャーの地位はいまや盤石である。

 フィンチャーの一作目にして最高傑作である『セブン』が作り出す世界は独特だ。シリアスかつダークな世界の前提には、この世なんてクソだという悲壮感と、世界は良くなるという楽観主義の二つが渦巻いている。悲壮感を代表するのがサマセットで、楽観主義を代表するのがミルズであり、それはベテランと新米の対立でもある。あと七日で定年退職を迎えるベテラン刑事サマセットは、日頃から極悪非道な事件と向き合いながらも、猟奇的な事件に無関心でいる腐敗した社会と人々に、そしてそのことに慣れきっている自分に疲弊している。それに対して着任したばかりの新米刑事ミルズは、事件を解決しそれによって社会が良くなると信じている。サマセットは疲れミルズは明るい。

 またこの対立はサマセットとミルズの妻トレイシーの、子供に対する態度の違いにも現れている。サマセットは世界に対する悲壮感のため当時付き合っていた彼女を説得して子供を堕した一方で、ミルズの妻トレイシーは悩みながらも子供を産もうと考えているのだ。子供を産むことの価値判断ほど、世界に対する評価を明らかにするものはない。サマセットは世界に対して悲壮感をもつあまり子供を産むことをせず、そしてそのことを間違っていなかったと確信しているのである(だがそれ故、サマセットは子どもに配慮を怠らない。第一の事件現場で子供が事件を見たのかを気にしているのはそのためだ)。

考察・感想

七つの大罪と日常にあふれる些細な罪

 この映画には題名にあるとおり「セブン(7)」という数字が象徴的にあらわれる。「七つの大罪」とサマセットの退職までの七日間。「七つの大罪」はご存知のようにキリスト教の用語で、人間を罪に導く可能性のある感情や欲望、つまり暴食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、嫉妬、憤怒のことである。この概念はこれまで多くの芸術や作品の想像力の源泉になっていて、キリスト教の影響が薄い日本でさえ荒川弘『鋼の錬金術師』や鈴木央『七つの大罪』などの漫画にモチーフとして使われている。

 本作では「七つの大罪」が猟奇的な連続殺人事件の動機であり起源である。ジョンは「七の大罪」を裁くという物語を設定することで、サマセットとミルズを導き翻弄する。ジョンが「七の大罪」をモチーフに殺人を計画したのはそれが殺人の根拠になるからであって、元から興味があったわけではない。その証拠にジョンは図書館で「七の大罪」関連の本を借りて、熱心に勉強しながら計画を立てていたのである。だが、ジョンの目的は猟奇的な殺人に快楽を覚えたからではない。

だが問題はもっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許してる。それが日常で些細なことだから朝から晩まで許してる。だがもう許されぬ。私が見せしめをした。私のしたことを人々は考えそれを学びそして従う。永遠にな。

ジョンのセリフ

 被害者は無罪ではない。なぜなら彼ら彼女らは七つの大罪を犯していたからだ。しかしこれより問題があるのは日常で起こる些細な罪である、とジョンはいう。このときサマセットとミルズの反応の違いに注意しよう。ジョンとの会話で声を荒げるのはミルズであり、サマセットはジョンの矛盾を冷静に指摘することすらできている。ここで示されているのも先に述べた、サマセットとミルズの世界観の対立である。サマセットは無関心で腐敗した社会に嫌気がさしていたのであり、その世界観はジョンの発言と共通するものなのだ。つまりこのときサマセットはミルズでなく、ジョンと同じ立場にいるのだ。したがってジョンが矛先を向けるのは、社会に絶望しているサマセットではなく、腐敗と闘う闘志に溢れ将来に希望を持つミルズなのである。

なぜ傑作と感じ、なぜ傑作と言われるのか

 もう一つ別の観点からみてみよう。探偵物語において必須の登場人物は、犯人と被害者と探偵である(「犯人ー被害者ー探偵」)。まず被害者が見つかり、そのあと探偵が残された僅かな証拠を捜査して、見事な推理によって犯人が見つかる。この順番は古典的かつ基本的なものだ。本作は「七つの大罪」というモチーフを持ち込むことで、この構図は強調される。大罪と罰による被害者、捜査をするサマセットとミルズ、そして異常者としてのジョン。

 ミルズがジョンを異常者扱いするのは名前を与えることで安心するからだ、とジョンは指摘する。殺人を犯すやつは異常者であるという断定は、逆にいえば異常者でない自分は殺人など犯さないということである。「犯人ー被害者ー探偵」における犯人は非理性的であり、探偵の地位は理性と結びつき特権性を帯びている。

 だが、それは探偵の欺瞞だ。「私は人と同じだ」というジョンの立場からすれば、どこにも異常者などいない。そして「犯人ー被害者ー探偵」の三者に共通するのは、「日常で些細な」罪のほうなのだ。したがって「犯人ー被害者ー探偵」のどこにも優位はない。誰でも罪をもち、誰でも罪を犯すのである。

 殺害を楽しむジョンが「私は人と同じだ」と言うのは、「犯人ー被害者ー探偵」の関係でどの立場にもなれることを予見させる。実際ジョンは異常者らしからず、妻をもち社会に疲弊していないミルズに「嫉妬」する。この「嫉妬」は連鎖的にミルズの「憤怒」をおびき寄せ、トレイシーとジョンの死、さらにミルズの社会に対する絶望で幕を下ろす。このとき起こったことを「犯人ー被害者ー探偵」の関係でいうならば、「探偵」が「被害者」でもあり「犯人」でもあるということである。

 探偵小説における「犯人ー被害者ー探偵」の関係は、読書における「作者ー作品ー読者」になぞられる。だから観客はミルズの最後の行為を二重の恐怖を持って受け止めることになる。一つは楽観的なミルズが理性を捨てたことにおいて、もう一つはミルズが自分のありうべき可能性であることにおいて。

 ミルズは殺したのはジョンだけでなく、ミルズの思い描く楽観的な世界像である。サマセットがミルズに向けた「こいつを殺したら、こいつの勝ちだ」という発言は、この意味で取らなくてはならない。つまり、ジョンは理性的で楽観的な探偵的な世界観を壊そうとしていて、彼らの戦いはようはこの二つの世界観の戦いである。ジョンは命を賭してこの勝負に勝つ。ミルズを見守ったサマセットは、ヘミングウェイの「戦う価値がある」という意見には賛同しても、「この世は素晴らしい」と思うことはない。そしてジョンの「日常で些細なことだから朝から晩まで許してる。だがもう許されぬ。」という発言は、我々にいまなお投げかけられている。

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