『パンチドランク・ラブ』 〜電話、移動、連結が生むマジカルなラブストーリー👊🏻💞〜

『パンチドランク・ラブ』 〜電話、移動、連結が生むマジカルなラブストーリー👊🏻💞〜

ポール・トーマス・アンダーソン監督の『パンチドランク・ラブ』(02)見た。
なんで?
なんでこんなおもろい映画が作れんの?

・プロローグ

内気で冴えない青年がデジタルラブ、シミュレーションラブの世界から脱し、走る、殴る、抱き合うといった身体性を伴うアナログラブの世界へ開かれていくお話。
ついでに子供の頃から言いなりになってきた姉に正面切って物申せるようになったまではいいものの、それまで内に向かっていた暴力性が外向きに開花していくあたり、正しくなければ甘くもない。でもきらきらしている。輝いている。ひとりよがりで凶暴なときめきが見る者を圧倒する。
フィクションならではの感動が味わえる傑作だ。

・あらすじ

バリー・イーガン(アダム・サンドラー)は、自動車修理工場の一角を間借りし、トイレ詰まり解消用の吸引棒(いわゆるすっぽん)を販売する小さな会社を経営している内向的な青年。
七人のパワフルな姉たちに囲まれて育つうち女性恐怖を抱えるようになり、幼い頃から言い返すことを許されず自分の気持ちを押し殺し続けてきた反動か、時折感情の激発を押さえることができなくなり、発作的に窓ガラスを割ったりトイレで暴れたりする癖が抜けない。
そんな折、姉エリザベス(メアリー・リン・ライスカブ)の同僚で自動車修理を頼みにやって来たリナ(エミリー・ワトソン)と出会い、運命の恋に落ちる。
一方、新聞広告でたまたま目についたセックスダイヤルを利用してみたところ、お相手の女性に個人情報を握られ脅迫を受けるハメに。
はたしてバリーは脅迫者たちの魔の手からリナを守り、「一生で一度の恋」を成就させることができるのか!?

・電話

プロットは実にシンプル。
全編ほとんど主人公の通話と移動のアクションのみによって形作られていると言っていい。
映画は食品会社のマイレージキャンペーンについてバリーが電話で問い合わせるシーンから幕を開ける。その後工場で自社製品の利点をアピールしている最中七人の姉たちから代わる代わる電話を受け取引客を呆れさせる他、自分からも方々に電話をかけまくり、また通話を利用したセックスチャットがトラブルの原因にもなる。
だが、リナと関わるなかで電話の位置付けは次第にネガティブなものからポジティブなものへと変化していく。初めてリナの部屋を訪れたバリーは慣れぬ経験に戸惑いついに手を出せないまま意気消沈してアパートのロビーまで降りてくるが、リナからのとびきりキュートな電話を受け急いで部屋まで引き返す。
「あなたがどんな人だろうとキスしてほしかった」
一本の電話が恋人未満の二人を結び付ける役目を果たすわけだ。
この通り二人の恋はいくぶん年上のリナが奥手なバリーをリードする形で進展していくが、仕事でハワイに滞在中のリナの元をバリーが電撃訪問する場面では、現地到着後に姉エリザベスに電話をかけ滞在先のホテルを聞き出すや、テンションアゲアゲでリナへと発信。積極的な一手で恋人を喜ばせるまでに成長するのだから驚きだ。
これはおそらくバリーが人生で初めて姉に対して強く出た瞬間であるとともに(なるほどヒステリックに罵倒語を喚き立てるなど、少々やりすぎの感はあるが)、国外はおろか街から一歩も外に出たことがないような人間が冒険的な行動を伴う勇敢な姿勢を示した最初の例だろう。
そして最後にはそのものズバリの電話との別れ、肉体性を伴わない不安なコミュニケーションとの訣別の時が訪れる。
ハワイからの帰国後、襲いかかってきた暴漢三人を返り討ちにしたバリーは、テレフォンセックスを巡るいざこざにケリをつけるべく、脅迫相手のボスのディーン(フィリップ・シーモア・ホフマン)に電話で宣戦布告。ディーンが経営する布団屋まで乗り込んでいって威勢よく啖呵を切るのだが、なぜかこのくだりの間中ずっと、われらが主人公の腹部には自宅電話のコードが巻きついている(笑)
「僕は今全身に力が漲っている
一生で一度の恋に落ちて」
はたして曲者ディーンを圧倒し(呆れさせ?)話をつけたバリーは、颯爽とコードを投げ捨てリナの元へと帰ってくる。
わが身に愛着した電話的なコミュニケーションの次元からの卒業劇が直截に描かれるわけだ。
全体を通じてわれわれは、運命の恋人との出会いにより突如として無敵状態に突入した男が、通話を介した間接的なコミュニケーション、シミュレーショ二ズムの世界から脱却するまでのユニークな経過を見て取ることができよう。

・移動

また、映画中に現れる様々な空間を横方向に、あるいは画面奥に向かって縦方向に移動していくバリーの姿を逐一追いかけていくカメラの運きも印象的だ。
テレフォンセックスの最中、いかにも世慣れた感じを装って通話しつつも、時に頓珍漢な返答を返し、自室の中を落ち着きなくうろつき回っていたバリーが、やがて堂々とした足取りで敵地に乗り込んでいくまでに至る移動様態の変化に注目されたい。

・象徴

こうしたシンプルな構成に映画的な陰影を加え、主人公の内面の変化に秘かな説得力を与えているのが、PTAらしい大胆な象徴の活用。
ファーストシークエンスを見てみよう。
マイレージキャンペーンについての問い合わせを終え、がらんとしたガレージの隅に置かれたデスクに一人向かっていたバリーは、椅子から立ち上がり、ガレージの外へ出ていく。
すると通りからけたたましいブレーキ音が聞こえ、一台の車が目の前でクラッシュ。
驚く暇もあらばさらにもう一台別の車が到着。工場の門前に巨大な楽器のような物体を投げ捨て猛スピードで去っていく。
しばし呆然とこの様子を眺めていたバリーは、次の瞬間なぜかいきなり走り出し、興奮した面持ちで楽器のようなものを両腕に抱え込むや、息せき切って社内へと運び込む。まるで「一刻も早く確保しなければ他の誰かに盗られてしまう!」「この機会を逃す手はない!」といわんばかりの必死さ。折り返してくる最中、先ほどまでデスクでコーヒーを啜っていた愛用の品と見えるマグカップが腕の間から転げ落ちるが、気付く様子もない。
こうした一連の謎めいた出来事の直後にリナを乗せた車が滑り込んでくることを思えば、ここでの象徴性は明らかだろう。
一台目の車の事故は運命の恋人リナとの(まさに交通事故的な!)出会いの衝撃を、二台目の車が投げ捨てる巨大な物体(ピアノに似たハーモニウムという楽器であると後に判明)はこの後バリーが全身で抱え込むことになる過大な恋心を表現している。
いわば先に到着する二台の車の存在が後に来る三台目の車がもたらす展開を予告しているわけだ。一台目、二台目のいずれともドライバーの顔は隠されており、あたかも人の手を介さずひとりでに車が動いているようにも見えるため、それらが冴えない男の元へと届けられた天からの贈り物であるとの感は否が応でも強くなるはずだ。
さらに細かい演出がこうした印象を補強している点が心憎い。
着座姿勢から立ち上がるアクション、ガレージの角に寄せてぽつり淋しく置かれたデスクから開かれた外部へ、というバリーの運動は、孤独な青年の興味関心が徐々に外へと向かって行く心理的な変化をわれわれに告げ知らせる。そして、わが身に愛着した品(マグカップ)を無意識的に捨て去り、謎めいた新規の物体(ハーモニウム)を選び取った瞬間、青年は退屈な日常に別れを告げ、冒険的な恋愛の新局面へと第一歩を踏み出しているのだ。
ハーモニウムをマスターすることはリナとの恋愛が上手くいくことの比喩になっているから、以後バリーはこれを丁重に取り扱い、機会を見つけては演奏を試みる。一方、食品会社のマイレージキャンペーンで一儲けするために買い集めていたプリンの山はバリーのハワイ行きを手助けすることで役割を終え、以後ほとんど注意が払われなくなる。プリンとそれに絡むバリーの夢見がちな一攫千金計画は、冒頭に登場したマグカップと同じく、リナと巡り会う以前の過去の自分に対する執着を表しているためだろう。
さらに言えば、わが身に愛着した品を手放すという自立と成長のための主題は、映画のクライマックスにおいて、腹部に巻きついた電話の受話器コードを投げ捨てるという形でより直接的に反復されることにもなる。
特にリナの出現をキーとして、物語内容と映像的な象徴が緊密な連携を保っていることがおわかりいただけたはずだ。

・PTAのマジックリアリズム

さて、筆者はかねてよりポール・トーマス・アンダーソン監督の映画から受け取る奇妙な感動を“PTAのマジックリアリズム”と命名し、様々な角度から考察を行ってきた。
マジックリアリズムとは本来ガルシア・マルケスに代表される中南米の幻想小説作家たちの作風を指していわれる文学用語だが、ここではより広く、“今しも眼前で展開されている事象について、それがあくまで現実規則に則ったリアリズムの範疇に属する出来事であることは誰の目にも明らかであるにも関わらず、その光景を目撃している当の本人の胸の内にはなにかしら現実離れしたファンタジックな感覚が去来する、といったような、矛盾した官能の領域に観客を連れ出すための技法”ぐらいの意味に捉えておきたい。
ファーストシークエンスにおける大胆な象徴の活用にも明らかな通り、本作はまさにそうしたマジックリアリズム的瞬間がまばゆいばかりに炸裂した花火のような一本だ。
しかしそれにしても、PTA作品に限って筆者の感じる不穏な胸のときめき、ファンタジックなリアリティの正体はなんなのだろう?いったいなにがこの特殊な感動の質を生んでいるのか?
映像技法の点からもう少しこだわって考えてみよう。

・連結

僕の言う“PTAのマジックリアリズム”が、どうやら人物の運動(走る、歩く)と移動の感覚(場面転換を生み出す)に関わって発生しているらしいことは、『ザ・マスター』(12)、『インヒアレント・ヴァイス』(14)、『リコリス・ピザ』(22)の三作、さらにはPTAが手掛けたトム・ヨークのMVに関連していくつかの記事で既に書いたため、ここではあえて繰り返さない。
代わりに、『パンチドランク・ラブ』を観賞し終えた今、新たな要素をここに付け加えたい。
それは、A地点からB地点へ移動する人物の姿をカメラが延々と追いかけるワンカット(風)撮影により異なる空間が次々と同一画面内に捉えられわれわれの視覚認識において連結していく、ロングテイク(長回し)がもたらす視覚の連続性だ。
一般に言って、ロングテイクの使用はある逆説的な違和感を観客に与える。劇映画ではほとんど必ず撮影後にシーン編集が行われており、物語上の流れや視覚認識の連続性が切断された上で複数のカットが並び直され、全体がひとつのドラマとして再構成されていることが普通であり、現代の観客はそうした映画の虚構の存在性に慣れすぎているせいか、あるひとつのシーンがカットを挟まず延々と持続していく様子がいかにも不自然で作為的であるように感じられるためだろう。
とはいえ、考えてみれば当たり前の話だが、現実の光景にカットがかかることはない。たとえあなたの人生がどれほど劇的なものであろうと、ここぞというタイミングでメガホンを持った髭面の男からカットやリテイクの声が飛んでくることはありえないし、あるひとつの出来事をピカソの絵よろしく複数のショット・複数の視点から同時に経験することは不可能だ。部屋の隅にうずくまって泣いているわたしの頭上にどこからか物悲しいピアノのBGMが聞こえてきて慰めてくれるようなことも、残念ながら起こり得ない。
いわば現実の体験はおのおのの主観において継続される無味乾燥なロングテイクであるにほかならず(実際にはまばたきの瞬間極めて頻繁にカットがかかっており、睡眠時等には撮影が中断されるわけだが、それでいてわれわれは視覚認識の連続性を根拠とした意識の連続性=わたしがわたしである感覚を信じて疑うことがないのだから)、仮にそう思いなしてみるなら、現実の体験に近似しているはずのロングテイクにつくりものめいた作為を感じ取るというのは、一種の逆説であるとは言えないだろうか?要するに、映画本来のつくりもの感が「わたしの知っている現実とは異なる違和感」にあるとすれば、ここでの奇妙さは「わたしの知っている映画とは異なる違和感」を発生源とした二次的な作為にかかっているのわけだ。
PTAのマジックリアリズムはおそらく、こうした受容のあり方を方法として活用し、さまざまな実験的なアプローチを加えることによって成立している面が大きい。

・映像と音楽の乖離


今回で言えば、ロングショットの多用やレンズフレア(画面に特殊な光を投影する技法)、古典的ハリウッド映画に見られるフェイドイン・フェイドアウトの代わりに墨流しのような抽象的な色彩アニメーションを挿入し各シークエンスを接続する人工的な演出に加え、最も見やすいのが、映像と音楽との劇的な乖離。
情けない男の一挙一動(実はその不格好な動きを可能にしているのはコメディアン出身のサンドラーの優れた身体性なのだが)を余さず捉える映像に、映画本来のつくりもの感を強調するトイピアノや非楽器を多用したジョン・ブライオンによるストレンジなBGM(つまり、BGMと割り切った上で聴いてもなお違和感がある)を衝突させることにより、映像と音楽、フレーム内で起こっている事象の現実性とフレーム外から(なぜか!)聞こえてくるBGMの虚構性との乖離を際立たせる手法が試みられている点を指摘できるだろう。
こうした仕掛けのおかげで、映像と音=映画を同時に体験しているわれわれの感覚は、ファンタジックなリアリティとでも表現するほかない矛盾した官能の領域、PTAのマジックリアリズムが支配する領域へと誘い出されることになるわけだ。

・『リコリス・ピザ』との比較

こうした異化の手法は、いかにも映画音楽らしい典雅な響きを持ったジョニー・グリーンウッドとの正統的なコラボレーションを経由しつつ、あたかも映画全体が一本のミュージック・ヴィデオであるかのごとく70年代のヒットミュージックが流れまくる『リコリス・ピザ』の実験へと引き継がれていく。
こちらがなにをやってもうまくいかない大人の奮闘記なら、あちらはなんだってうまくやってのける子供たちの指南書。
マイレージキャンペーンで食品会社の盲点を突き一儲けを企むもののついに成功を見ることのないバリーは、口八丁手八丁で大人たちを説得しピンボール場経営で見事に一山当てる『リコリス・ピザ』の主人公ゲイリーとして、反転した姿となって生まれ変わるだろう。抜け目のない若者ゲイリーを演じるクーパー・ホフマンが、本作においてバリーが乗り越えるべき清濁併せ呑む大人を体現する名優フィリップ・シーモア・ホフマンの実息子である点も、そう考えてみると実に意味深に思えてくる。

・エピローグ

観客の意表を突くマジカルな展開の中にままならぬ現実の苦い後味を滲ませつつ、そのただなかをぶっちぎってひたすらに駆け抜けていく主人公たちが異なるレヴェルの空間性を問答無用で連結していくことにより、単純な善悪の区分を超えたフィクションにのみ可能な(まさにパンチドランクな!)酩酊的感動を味わわせてくれる二作。本作を見た後はぜひとも『リコリス・ピザ』をセットで観賞してもらいたい。


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