『パルメニデス』九つの仮定?
まず『現象学研究(I, II, III)』の一文を見てみよう。
事実、超越論的な純粋仮象によって導入された新たな仲介を考慮に入れることで、最終的かつ長期的に、プラトン『パルメニデス』で伝統的には九つの仮定に分けられていたものを違った形で再解釈しなければならなくなる。一つは新プラトン主義者によって行われた存在論的ヒエラルキーとそこから生じた帰結を破棄することであり、もう一つはそれと相関して、同じ計画のもと、新プラトン主義の伝統の中で知性を覆い隠し、そして(ダマスキウスにおいては)感性を覆い隠すとされた種々の仮定に注意を向けることである。
Marc Richir, Recherches phénoménologiques. p. 57, 以下[RP]
ここでマルク・リシールは「九つの仮定」と述べている。しかもそういった解釈は伝統的な解釈であり、パルメニデスの「九つの仮定」をヒエラルキー的な構造としてみる見方であると。リシールが試みたのは現象学的にこの構造を崩すことであり、それによってヒエラルキーの頂点にある第一仮定とその下の第二仮定(真プラトン的主義的解釈によれば、第一に仮定は不可知の神であり、第二仮定は可知的な神のことである[1])は存在論であり、現象学からしてみればそれは存在論的シミュラークルであり、その2つの仮定の間にあるとされる第三仮定こそが現象学的次元を、この著作の表現でいえば超越論的次元を垣間見させるのである。第三仮定は有名な時間のかからない瞬間(ἐξαίφνης, instantané, 田中美知太郎訳では「たちまち〈忽然〉」)が出てくる箇所である。この瞬間は存在論的規定の中にあるのではなく、逆にここから存在論が始まるのである。存在論をシミュラークルとして破棄し、現象学へと乗り越えようとしたのがリシールの初期の頃からの一貫した態度であった。『パルメニデス』の瞬間の概念が、時間に関する重要な概念として後期の著作にまで残り続けたのは言うまでもない。
さて、こんな感じでリシールを読み、新プラトン主義者に関する知識も少しばかり蓄え、日本語訳のプラトン『パルメニデス』を読むと多少まごつくことになる。実際九つの仮定とはどれのことを指すのだろうか。プラトンが番号をふって割り振っているわけではないのである。そこで訳者解説を読みにいくとますます混乱するのである。というのもそこでは仮定は「八つ」と解説されているからである。どの仮定が抜けたのかというと第三仮定である。第三仮定は「仮定Iと仮定IIに対する補足、アペンディクスのようなものと見て良いだろう」(『プラトン全集4』361頁)。確かに第三仮定を仮定のうちに入れない方が非常にすっきりとした構成になるのは一目瞭然である。第一仮定の反定立として第二仮定があり、以下それと同じように第四仮定の反定立として第五仮定、第六仮定の反定立として第七仮定、第八仮定の反定立として第九仮定がある。そしてそれらによってあらゆるものは「ある」とともに「あらぬ」ということが結論として証明される。第三仮定は一者の時間性に焦点を当てて問答をしているだけであって、この結論に何ら寄与しない。それゆえこの奇妙な立ち位置を占めている第三仮定はなぜ挿入されたのか、どう解釈するべきなのか。第一仮定にかかるのか第二仮定にかかるのか、逆に独立した論証なのか、あるいは「プラトンの意図が問題」(370頁)なのか、それとも「テクストを疑う方が早道」(同頁)なのか。田中は断定を避けている。
しかし希仏対訳の『パルメニデス』(Œevres complètes)は平然と伝統的な解釈を採用して解説している。解説者のジェズは第三仮定も他の過程と同列の一つの仮定として解説しており、なぜそうしたかに関する言及はない。第三仮定は第二仮定の時間の分析の応答であり、結果第三仮定によって「一者はそれ自体あらゆる肯定性とあらゆる否定性を再統一する[réunit]」(p. 35)。かといってそこから第四仮定や第五仮定が発生するというヒエラルキー構造を『パルメニデス』に読み取っているわけではない。解釈としては第二仮定の補足(応答)でありながらも、あくまで伝統的解釈の順番に従っている。
面白いのはこの第三仮定に対して、『パルメニデス』の第一部の三人の会話(ソクラテス(無知の知)、ゼノン、パルメニデス)でなされた一者に関しての種々のアポリアを逃れる積極的な成果と考えることができることを示唆していることである(cf. 45)。彼は第三仮定の「瞬間 instantané 」、一と多の統一という概念に肯定的な意味を見出している。確かにプラトンの意図を考慮に入れれば、第三仮定に絶対的な意味を見出すことはできない。しかし「九つの仮定」のそれぞれに意味を見出すとすれば、第三仮定のある種の独立性を見出すことは必要である。
国による解釈の違い
しかし、すると「九つの仮定」はヨーロッパにおける伝統なのか。希独対訳『パルメニデス』(philosophische Bibliothek)を読むとそうでないことがはっきりと分かる。解説者ツェクルは『パルメニデス』をイデア論思想の発展の中に位置づける。『ソフィスト』で言われていたように、純粋なイデアに到達することが哲学の目指すべきところなのである。つまり認識の次元では現れてきてしまう矛盾対立する仮定のその矛盾の解消によって真のイデアに到達するということになる。ゆえに『パルメニデス』には「九つの仮定」があるのではなくて「四つのアンチノミー」(p. XL)があるのである。では第三仮定はどういう位置を占めるのか。ある意味で第三仮定はこのアンチノミーを解消する位置づけにいると考えることができるにも関わらず、「アンチテーゼ(第二仮定)の系」(ibid.)の位置まで格下げされる。「二つの依然として存在する事象的な隙間が類比的にパラドキシカルな仕方で満たされる」(ibid.)。この「アンチノミー」はほとんど乗り越えられるべきものとして考えられている。ジェズとは読みの方向が逆なのだ。ツェクルも田中と同じように、第三仮定の意味に関しては否定的なのである。
どうやら国によってだいぶ違うようである[2]。第三仮定は明らかにイデア論の射程には収まりきらないので、第三仮定を補足としてとるか、独立した部分として扱うかは、解釈者個人の解釈によって決まるところが多そうである。ただリシールの読解の背景にはある意味でフランス語圏の『パルメニデス』需要の影響があるといってもいいかもしれない。
[1] 新プラトン主義の『パルメニデス』の注釈に関する本で現存しているのはプロクロスの『パルメニデス注解』だけである。彼の解釈に関しては『新プラトン主義を学ぶ人のために』(189−215頁)を参照。
[2] ドイツ語、フランス語、英語のWikipediaを比べても、それぞれで全く異なる説明がされている。これには驚いた。
関連項目
・永劫回帰
・ルサンチマン
・生活世界
・ヒュレー
・手許存在
・形而上学
参考文献
プラトン『プラトン全集4』田中美知太郎訳、岩波書店、1975(2005)年。
水地、山口、堀江編『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年
Platon, Parménide (Œuvres complètes VIII, 1), Établi et traduit par Auguste Diès, Budé Paris,1956.
Platon, Parmenides (philosophische Bibliothek Band 279), Übersetzt und herausgegeben von Hans Günter Zekl, Felix Meiner, Hamburg 1972.
Marc Richir, Recherches phénoménologiques (I II III)[RP],Ousia, Bruxelles, 1981.