概要
フッサールの現象学概念。
フッサールは独自の哲学的概念をギリシア語から持ってくることが多い。エポケーやエイドスなんかがそうだ。ご多分に漏れず、ヒュレー/モルフェーもギリシア語由来である。ヒュレーは「質料、素材」、モルフェーは「形式」と訳されたりするが、ヒュレーはフッサールの後期思想にはとりわけ重要な概念となってくる。さてヒュレーやモルフェーはフッサールにとってどのような概念だったのだろうか。
ヒュレーとモルフェー
ヒュレーはギリシア語でもともと森林という原義であり、転じて材料(木材)という意味で使われるようになり、アリストテレスが哲学的概念として使用した。モルフェーはもともと形という意味であり、ヒュレーもモルフェーもフッサールはその古くからの意味をおおよそ踏襲している。
フッサールは意識の構造について考えた人だ。そしてフッサールによれば、意識の本質つまり、普遍的構造が志向性であった。この構造の内部では人間における臓器のようにそれぞれ役割分担がなされた機能があり、その機能のうちのひとつがヒュレーであり、もうひとつがモルフェーだ。フッサールは意識の構造に統握図式というのを当てはめた。認識というのは、感覚予件といったあいまいなもの(ヒュレー)を統握する(ひとつに統一する)こと(モルフェー)によって成立する。ちょうどそれは家が木材という材料(素材)を必要とするかのようにである。ある対象をまなざすために、その材料として使われるのがヒュレー、その材料を使って統一体(対象)にまで組み立てるのがモルフェーなのである。
著作読解
『イデーンI』におけるヒュレー/モルフェー
『イデーン I』の §85 は「感覚的ヒュレーすなわち素材ーと志向的モルフェーすなわち形式」と題されている。この節でヒュレーとモルフェーの関係が直接的に語られるので見てみよう。
あの感覚的な諸契機の上に、いわばこれを「生気づける」、意味付与的な(もしくは意味付与を本質的に内含するところの)、一つの層が横たわっていて、この層たるや、その層を介してこそ、それ自身のうちに寸毫も志向性を持たない感覚的なもののうちから、ほかならぬ具体的な志向的体験が成立してくるゆえんのものなのである。
『イデーンI-II』92頁
「感覚的な諸契機」というのはヒュレーのことだ。これはその手前で具体的に「色彩予件、触覚予件、音響予件」などのことだと語られる。しかし注意しなければならないのは、こういった感覚予件は対象の性質のことではないことである。リンゴの赤色、ざらざらした壁、美しい音というのは感覚予件ではない。感覚予件すなわちヒュレーは素材のことなのだから、ヒュレーというのはそういった対象的な赤、ざらざら感、音の美しさを対象に付与するために使用される何かのことである。それでは具体的にヒュレーとは何かと問われると厳密に言い当てることは難しく、対象に色とか触感を付与するために使用されるありありとした感覚としかいいようがない。
生気づけるや意味付与といったものがモルフェーの働きだ。先ほど示したように、それによって感覚的なものが統握されて対象が生じる、すなわち「・・・についての意識」が生じる。そう、それこそ志向的体験であった。つまり、ヒュレーとモルフェーというのは意識の器官であり、それが機能的に意識のうちで働くことによって意識、つまり志向的意識が成立するのである。
ヒュレー、モルフェー、ノエシス、ノエマとの関係性(中級編)
フッサールの概念には他にノエシスとノエマというものがある。ヒュレー、モルフェー、ノエシス、ノエマは全てカタカナでこんがらがってしまう人もいるかもしれない。実際、ノエシスとヒュレーやモルフェーは意味として重なり合う部分があり、正確に捉えないと意味を取り違えてしまう。
そもそもフッサール現象学におけるノエシス/ノエマとは何か。簡単にいうと、それは意識の作用面と対象的側面のことだ。樹木を見る(意識する)とき、意識の内には樹木を知覚する作用と知覚された樹木があることになる。これは少しばかり革新的なことで、なぜなら対象(ノエマ)も意味として意識の内にあることになるからだ。つまり実在論のエポケーが含意されている。するとノエマのような対象的なものも、作用があれば必然的に意識の内にあることになる。これをノエシスとノエマの相関関係と呼んでいる。またさらにこの相関関係は志向性の定義へとつながっていく。「志向性とは・・・についての意識である」という有名な定義があるが、これを言い換えたのがノエシス/ノエマ相関である。
さて、それではこれらの関係はどのようになっているのか。難しいのはヒュレーとモルフェーとノエシスの関係である。これらの概念、実は意味が被っている。わかりやすく図にしてみた。
志向性 | 作用的契機(実的成素) | 対象的契機 | |
意識の相関関係 | ノエシス | ノエマ | |
実的成素(作用的契機) | ヒュレー | モルフェー(ノエシス) |
つまりである。ノエシスというのは作用的契機全体のことを指す。そして作用的契機が対象的契機(ノエマ)との対比において語られる場合はノエシスでいいのだが、ノエシスがヒュレーとの対比で語られる場合は、ややこしいのでモルフェーと呼ぶということだ。広義のノエシスと狭義のノエシスがあって、広義のノエシスはのエマとの対比で語られヒュレーを含むが、狭義のノエシスはモルフェーのことであり、ヒュレーと対立する。この狭義のノエシスについて言及するときに、紛らわしいので、それをモルフェーと呼ぶことにしたのである。
フッサール後期思想におけるヒュレーの重要性(上級編)
さらに『イデーンI』では次のようなことをフッサールは語っている。
特に素材的なものを目指す現象学的考察および分析は、ヒュレー的現象学的なそれと名付けられるし、また他方、ノエシス的契機にかかわる現象学的考察および分析は、ノエシス的現象学的なそれと名付けられうる。比較を絶してより重要かつ豊富な分析は、ノエシス的なものの側にある。
『イデーンI-II』98頁
この分析は実的成素内部の分析であろう。フッサール曰く、ヒュレー的現象学と名付けられるような分析とノエシス的現象学(狭義のノエシス)と名付けられるような分析があるとのことである。このうち、彼はノエシス的なものの側の分析が重要であるとして、『イデーン I』ではそのノエシス側の研究ばかりを行った。
しかしその考え方は徐々に変わってくる。発生的現象学という分野をフッサールが開拓していく中で、意識の受動的な側面が研究の対象となっていく。その受動的な側面というのがヒュレーの領域であり、そういうわけで、ヒュレー的分析の重要性をフッサールは徐々に認識するようになっていった。
ヒュレーの特徴は受動的に構造化されていることである。ヒュレーは時間の流れの中で受動的に統合され、その触発に自我が向かうことで対象が構成される。つまり、ヒュレーに関する研究は後年の自我論と時間論を貫く課題となった。
すでに、フッサール第一の時間論である『内的時間意識の現象学』でもヒュレーについて語られているが、フッサール第二の時間論である『ベルナウ草稿』(フッサリアーナ33巻)ではもっと大々的に第一節から語られている(『内的時間意識の現象学』の要約*なるほう堂)。後者に翻訳はないが、頑張って読んでみるのも良いだろう。
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関連項目
参考文献
エトムント・フッサール『イデーンI-II』渡辺二郎訳、みすず書房、1984年。
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