フーコーの生権力
1976年にフランスの思想家ミシェル・フーコーの『性の歴史』第1巻『知への意志』(La volonté de savoir)が出版された。『性の歴史』は全6巻に及ぶ大著となるはずであったが、1984年にHIVの合併症によりパリで亡くなってしまったため未完となっている。第一巻の『知への意志』に続き、1984年に第二巻『快楽の活用』(L’usage des plaisirs)と第三巻『自己への配慮』(Le souci de soi)に出版された。死後の2018年に第四巻『肉の告白』(Les aveux de la chair)は出版されている。
『知への意志』は全6巻に及ぶはずであった『性の歴史』の全貌の概略が示されたこの本である。この本でフーコーは、これまで論じられてこなかった「生権力」という画期的な権力論を展開した。まずはこの「生権力」を簡単にみておこう。
一般的に権力というのは民衆を罰したり拘束したりするものと考えられていた。横暴な君主が登場する映画とか時代劇を想像してみると分かり易いだろう。権力は民衆を上から押さえつけ、恐れられるものなのだ。ところが近代に入るとそうではない、とフーコーはいう。むしろ権力は民衆を生かそうとするのだ。人口を操作し「生」に介入する権力、それこそが生権力である。
フーコーの生権力の議論は哲学者を大いに刺激した。そしてそれに応答する形で生権力の問題をさらに深めたのがイタリアの哲学者で美学者のジョルジョ=アガンベンである。
ビオスとゾーエ
生権力は「生」に介入する権力だ。生を管理する国家は「人口国家」と呼ばれ、そのような政治を「生政治」とフーコーは名付ける。しかしそこでいわれている「生」とは何か。アガンベンは主著『ホモ・サケル』の冒頭で、ギリシャ人は生を表現するために2つの単語を用いていたと指摘する。それが有名なゾーエー(zoe)とビオス(bios)の区別である。
ゾーエーは、生きているすべての存在(動物であれ人間であれ神であれ)に共通の、生きている、という単なる事実を表現していた。それに対して、ビオスは、それぞれの個体や集団に特有の生きる形式、生きたを指していた。
アガンベン 『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』高桑和巳訳、以文社、2003年、7頁
ゾーエー(zoe)は動物園(zoo)や獣帯(zodiac) の語源であり動物的生を意味する。逆にいえばビオス(bios) は人間的(政治的)生を意味すると考えればいい。古代ギリシャの文化を読み解く時この区別は非常に有用だ。
例えばアリストテレスは『政治学』でポリス(政治)からオイコス(家)を排除する。オイコスはエコロジーやエコノミーの語源で、オイコス(家)にノモス(秩序)がくっつくとエコノミー(経済学)に、オイコス(家)にロゴス(科学)がくっつくとエコロジー(生態学)になる。オイコス(家)には生々しい動物的な生が存在する。つまりポリスという対等な立場の人々による対話の舞台からオイコス(家)やエコノミー(経済学)という低質な領域は取り除かれているのだ。そしてこの排除されている側にゾーエーと呼ばれる「生」が、政治という高尚な側にビオスと呼ばれる「生」が存在する。
したがってアリストテレスの有名な一節「生きることのために生まれたが、本質的にはよく生きることのために存在する」の前者と後者の「生きること」は、ビオスとゾーエの区別に対応している。
そして彼は、西洋の政治の伝統にとって基準となったあの一節で完全な共同体の目的を定義するとき、まさしく、生きているという単なる事実(生きること)を政治的に質を持つ生(善く生きること)に対立させている。
アガンベン 『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』高桑和巳訳、以文社、2003年、8頁
「生きること」はゾーエーとしての「生」で、「善く生きること」はビオスとしての「生」なのだ。
>>本記事はこちらで紹介されています:哲学の最重要概念を一挙紹介!
関連項目
参考文献
アガンベン 『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』高桑和巳訳、以文社、2003年
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