フッサール『幾何学の起源』における普遍性の問題について

フッサール『幾何学の起源』における普遍性の問題について

はじめに

 これより『幾何学の起源』(以下、『起源』)における普遍性の問題について論じる。まず、『起源』を要約し理念的対象の成立過程を明らかにしよう。

『起源』におけるフッサールの意図

 フッサールが企図しているのは幾何学を明証的に把握することである。しかし、幾何学の「根源的意味」は見失われている。幾何学を明証的に把握するためには、幾何学の「根源的意味」を「再活性化」する必要があるのだ。このために、フッサールは幾何学の歴史的分析を行う。

 この歴史的分析を始めるにあたって、フッサールはまず自らの歴史的問いを文献史的な問いを差別化する。フッサールの関心は文献史学者が問うような「幾何学の創始者は誰か」といった個別的な問いにあるのではなく、「無条件な普遍的妥当性の形式」の解明という一般的な問いにあるのだ。

理念的対象が成立するための条件

 しかし、幾何学がある特定の考案者から始まり、伝承されたものであるということもまた明らかである。幾何学は始め、ある一つの主観によって形成された心理的な存在でしかなかった。そこから出発して、この心理的存在が無条件な普遍性をもった理念的対象へと変化していくのである。

 この理念的対象へと変化にとって必要不可欠なある前提は、人間が普遍的に言語をもっているという前提である。たしかに、実際は全ての人間が言語をもっているわけではない。「異常者」「子ども」は言語を持たないからだ。しかし、そうであったとしても一個人の心理的形成体が言語をもった人類全員に共有されるかもしれないという想定は十分に可能であると、フッサールは言うのだ。

理念的対象の成立過程

 フッサールの論述に従うと、理念的対象の成立過程は以下二つの段階に分けられる。

 第一段階においてまず、考案者に固有なものとしての心理的形成体が、完全な同一性において他者によって追生産されるようになる。ここでいわれている同一性は、追生産が考案者とは別の主観において行われるという事実を越えてしまう。つまり、異なる主観のうちに真正な意味で同一なものが存在するという明証がここで生まれるのである。そのため、これはとりもなおさず、ある主観の内にあったものが「同一なまま他者の意識に入りこんでゆく」ということを意味する。つまり、それは「万人に共通の一つ形成体」と見なされるようになるのである。しかし、これではまだ理念化されたということにはならない。なぜなら、この形成体はまだ誰かがそれを明証的に現実化するということに依存しているからである。

 第二段階において、その形成体は「永続的存在」を獲得し理念的対象となる。ここで重要な役割を果たすのは文字である。万人に共通の一つ形成体はまず書き記され、文字という形に姿を変える。そしてこのことによって、文字記号は心理的のものとしてではなく純粋に物体的なものとして見られることが可能になるのである。つまり、生きた人間による「根源的意味」の再活性化はもはや必要でなくなり、理念的対象はただ受動的に継承されうるものとなったのである。

 幾何学は以上のようなしかたで理念化される。上述の通り『起源』におけるフッサールの狙いは、見失われてしまった「根源的意味」を再活性化することにあるのだが、この根源的意味が見失われるにいたった原因は、以上で確認した理念化の過程の中にある。再活性化においてはこの理念化の過程を逆行するのだ。

「言語の誘惑」に抵抗すること

 しかし、再活性化を行う前に解決しておくべき問題がある。それは「文字」によって引き起こされる問題である。既に見たように文字化された形成体は人間の能動性なしに自らの明証性を主張し、その明証性を人間がただ受動的に受け入れてしまうという危険性がある。言語はこのように人間を「誘惑」するのである。この誘惑に屈し、単なる受動的な連想に支配されるならば、人間は虚偽を獲得することになる。それゆえ言語による「連想的形成作用」は「不断の危険でありつづける」のである。文字化された形成体を明証化するためにはまず「言語の誘惑」に抵抗しなくてはならない。言語から受動的に意味を受け取るのではなく、そこに論理的な形式を与えなければならないのである。人間は特殊な能動性によって、受動的な形成体を一度、一つひとつの意味単位に分節し、個別的な明証化を行うことができる。そしてこの個別的な明証化をへてその形成体の全体的妥当性が確認されるのである。このように、人間は文字化された命題に論理的明証性を与えることができる。

 しかし、この時点では「根本的意味」が再活性化されたことにはならない。ここで得られた論理的明証性はまだ受動的に受け入れられた「言語的命題」に依存しており、これは「根源的意味」の再生的変様に過ぎないのである。これは、十分に確実な明証とはいえない。「根源的明証」にまで遡ることではじめて、学問は確固たるものとなるのである。しかし、現実の学問はまさにこの論理的明証性にとどまっているのである。

「根源的意味」への遡行

 「根源的意味」への歴史的遡行は、理念化の過程を逆行することとして理解できる。

 はじめに解決すべき問題は、理念化の第二段階において、歴史的に先行する形態の再活性化が不要になったことに起因している。歴史的遡行は現行の学問から始まるのだが、この学問は上述のしたような論理的明証性にとどまっている。幾何学を含め全ての学問は「根源的意味」が再活性化されないまま伝承されてきたのだ。ここで問題となっているのは関心の方向性である。現実の学問においては「実践的有効性」が「推進と評価の主要動機」となっており、「根源的意味」を回復する必要性が十分に認識されていない。そのため、学問が歴史的なものであるということや、その継承に際しては再活性化が不可欠であるということが、まず認識されなければならないのである。

 そして次の問題は、理念化の第一段階において、学問が万人に共通の一つの形成体として伝承されようになったことに起因する。というのも、幾何学元々、最初の考案者の主観の中で形成されたものなのである。そのため、もしもその最初の形成に段階で個別的な素材から幾何学が形成されていたとするなら幾何学は普遍的な学問となることはできなかったはずである。幾何学が確固たるものとなるためには、その「根源的意味」を同一性において追生産することができなくてはならない。そして、そのためには歴史を貫いて通用する原素材を明らかにする必要がある。つまり、起源への遡行は全歴史を含蓄する普遍的アプリオリな構造が示すのである。

 フッサールの歴史的遡行が最終的に行きついたのはまさにこの「歴史的普遍的アプリオリ」の構造である。フッサールは『起源』を締めくくるにあたって以下のように述べている。「人間の環境は、今日も明日も同一であり、したがって、創建や持続的伝統にとって問題となる点に関しても同一である」。つまり、全ての歴史が普遍的アプリオリの構造の同一性に根ざしている。そして、この同一性に基づいて「根源的意味」を再活性化することの可能性は永続的に保障されるのである。

普遍性について

 ではこれより、以上で論じたことを踏まえて、『起源』おける普遍性と個別性について論じる。フッサールの基本的な関心は「幾何学の創始者は誰か」というような個別的な問いではなく、「無条件な普遍的妥当性の形式」の解明にあるということは既に確認した。そして、最終的に到達したのは「歴史的普遍的アプリオリ」であった。つまり、『起源』における歴史的遡行は個別的なものを内包する普遍性へといたる道筋なのである。

 しかし、この歴史的遡行には問題があるように思える。それは、『起源』における普遍性の概念が幾何学の普遍性から導出されているという問題である。以上の議論の中で、幾何学が普遍的な学問であるということが常に前提されている。この前提に基づき、幾何学の理念的対象性がいかに獲得されたのかが示され、次にその理念化の過程を逆行するような形で「根源的意味」の再活性化が企図される。そして最後に、その再活性化の可能性の条件として「歴史的普遍的アプリオリ」の存在が発見されるのである。つまり、『起源』において語られる「普遍性」は幾何学の普遍性を成り立たせるために必要な構造のことなのである。

 たとえば、フッサールは歴史的にアプリオリな事実として、「実用的根拠からは、平面と直線と点によって限界づけられている板が偏愛されるのに対して、全体として、あるいはあっちこっちで彎曲している面は、さまざまな実用的関心から望ましくないものなのである」とのべ、幾何学的な面や線や点が産出されることの原素材を示している。しかし、これは本当に普遍的といえるだろうか。この事実は、幾何学の起源を問うといった特殊な動機付けによってはじめて明証化する事態ではないだろうか。

 このように、フッサールの起源への遡行は特定の学問の正当性を前提することで始まり、その学問が普遍的である限りで「普遍的アプリオリ」が露呈される。このような手続きを経ている以上、本当の意味で「普遍的アプリオリ」を発見することは出来ないのではないだろうか。

まとめ

 つまり、何らかの狙いをもって歴史的遡行を行う限りそこに露呈される「普遍的アプリオリ」は、その特殊な狙いによってすでにある程度個別化されているのではないだろうか。省察を行うものは、自分自身がすでになんらかの態度の中にいる。それゆえ、そこに見出される「普遍性」も括弧づきのものとして捉えられるべきではないだろうか。

[引用]

……ロマン主義的心情の持ち主にとっては、数学の歴史やその全史のうちにある神話的-呪術的なものが魅力的かもしれない。だが。数学におけるこうした単に歴史的な事実だけに固執すれば、まさしくロマン主義のうちにおのれを見失い、真の問題、内的-歴史的問題、認識論敵問題を見落としてしまうことになろう。したがってあの〔歴史主義的〕非難のうちではたらいていたようなタイプの事実性でさえもが、一般的人間性の本質的構成要素〔=普遍的アプリオリ〕のうちに根をおろしているものであり、それを通して、全歴史性を貫く目的論的理性がおのれを告知しているものだ、ということを見る目も開かれないだろう。ここからして歴史の全体と、結局は歴史に統一を与える歴史の全体的意味にかかわるような一つの固有な問題圏が予示されることになる。

一般に事実にかかわる普通の歴史学や、特に最近、人類全体に現実的、普遍的に広まりはじめている歴史学になにか意味があるとしたら、その意味は、われわれがここで内的歴史学と呼ぶことができるもののうちにしか根をもちえないであろうし、そのようなものとして、普遍的歴史的アプリオリを基礎としてのみ可能であろう。この意味は必然的に理性の普遍的目的論という、いま予示した再考の問題にまでゆきつくことになる。」

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