あなたは光だと思いたいー米津玄師「Lemon」歌詞についてー

あなたは光だと思いたいー米津玄師「Lemon」歌詞についてー

はじめに

深夜3時のバーで、米津玄師の「Lemon」が流れていた。染みた。それまではただただ流行歌という認識だったのに、切実な震えとして聴いた。

米津の声も相まって、美しい曲として世間では認知されているのかもしれない。でも、その時自分は、歌詞の「わたし」が苦しみながら足掻いているように感じた。

この曲は、ドラマ「アンナチュラル」の主題歌として作られた。ドラマは法医学士が主人公で、人の死にやさしく寄り添うような曲を作ることになっていたという。また、米津はこの曲を作っている時に祖父を亡くしており、それが曲の制作に影響していることを述べている。タイトル「Lemon」も、死の象徴的なアイコンになっていると、米津自身が語っている。だから、「Lemon」は、死と関連付けられて解釈されることが多い。死を抜きにこの曲を解釈できないのは事実なのだろう。

しかし、自分はそれを知らずに深夜3時のバーで聴いた。その時の自分には、大失恋の歌に思えた。恋人と別れた語り手の、苦しみと狡さの滲んでいることを感じて、死についての曲であるとわからないまま心震えた。それを誰かに話したくなった。

でも、この曲について、死を含めずに考えることは米津自身が語っていることから判断して誤っているだろう。深いものを持っている作品を、意図的に薄く浅く解釈していることになるかもしれない。しかし、自分の個人的な救いのために書いてみたかったので、失恋の歌としての「Lemon」の感想を述べてみる。

流れとしては、まず、歌詞を順を追って見ていく。そして、「わたし」が過去に向き合えていないこと、その中で「あなた」を恨むのではない解決をしようとして、もがいていることを確認する。この歌は、「あなた」を失った「わたし」が、「あなたは光」という言葉を生み出してすがり、その言葉で「あなた」を塗り変えて自分で納得していく過程を示している。

そして、そのように死を含めずに解釈した結果が、死を意識して歌詞を考えた場合でも根本的に変わらないことにも最後に触れる。人間が人間を思うことの、身勝手さを噛み締めよう。

まずは、歌詞を見ていく。

歌詞について

第2節では、まず歌詞を最初から見ていく。歌詞の引用は、米津玄師「STRAY SHEEP」(2020年SECL-2598)による。


「Lemon」作詞・作曲:米津玄師

夢ならばどれほどよかったでしょう

未だにあなたのことを夢にみる

忘れた物を取りに帰るように

古びた思い出の埃を払う      …A

ここまでをAとする。今回は失恋の歌として解釈をするので、「あなた」と「わたし」が別れた後であり、「わたし」が語り手だとする。

冒頭、二回の「夢」が出てくる。後者の「未だにあなたのことを夢にみる」は、別れても「わたし」が「あなた」への思いを忘れられないということだ。眠る時の「夢」にあなたが出てくるという。一方、「夢ならばどれほどよかったでしょう」では、何が「夢ならば」と思っているのか明確ではない。でも、失恋をこれからめいっぱい嘆いていくのだから、あなたを失ったことが「夢ならば」と思っているというようなことだとしておこう。

この歌の始まりは、「夢」であることを覚えておこう。現実にはいない「あなた」は、「夢」に出てくる。でもあなたと別れた現実は「夢」ならばよいのに、と思う。「わたし」はあなたのいない現実に向き合うことができていないのだ。

「忘れた物を取りに帰るように 古びた思い出の埃を払う」というところからも、「わたし」の現実を見ることができていないことが感じられる。「帰る」という言葉はこれからもサビで出てくるが、「古びた思い出」のような過去と繋がる言葉であることがわかる。「古びた思い出」であるから、「わたし」が「あなた」と別れてからはそれなりの時間が経っているのだろう。でも、「わたし」は「あなた」を忘れられないのだ。今ではなく、「思い出」に親しさを感じている。

続きを見る。

戻らない幸せがあることを

最後にあなたが教えてくれた

言えずに隠してた昏い過去も

あなたがいなきゃ永遠に昏いまま   …B

ここまでをBとする。「戻らない幸せがあることを 最後にあなたが教えてくれた」なんて、完全に「わたし」は「あなた」を恨んでいる。「あなたが教えてくれた」は、もはや「あなた」への呪いのようだ。自分から離れていった「あなた」への尽きない暗い感情があるのだ。

「あなた」が不在だと、「わたし」の昏い部分は昏いままだという。このことは、サビの「光」を考える上で重要だから、覚えておこう。

その続きも、「わたし」の深い嘆きが述べられている。

きっともうこれ以上 傷つくことなど

ありはしないとわかっている     …C

ここまでをCとする。「わたし」は「あなた」のせいでこの上なく傷ついたのだぞ…!という訴え。でも本人には言えないのだ。攻撃性を含んだ言葉は、伝達されないまま「わたし」の内側に積もっていく。

以下、サビになる。

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ

そのすべてを愛してた あなたとともに

胸に残り離れない 苦いレモンの匂い

雨が降り止むまでは帰れない

今でもあなたはわたしの光       …D

ここまでをDとする。「あの日」という、あなたのいた過去に経験した「悲しみ」「苦しみ」は、「あなた」がその記憶に付随していることによって、「愛」の対象になる。それはむしろ、「あなた」が不在の現在だから、「あなた」のいた時が美化され、「あなた」が絡む出来事全てが懐かしいのかもしれない。「わたし」は過去を志向する。

なぜ「胸に残り離れない」のが「レモンの匂い」なのか。それはレモンが苦いものであり、悔恨と結びつくからだというのは、あるだろう。自分は「レモン」である理由を見つけられなかったが、ここに「レモン」という果実が出てくることは、歌詞の最後とも関連してくる。また後で見よう。

「雨が降り止むまでは帰れない」とある。「雨」は歌詞の後半に出てくる「涙」と関連付けることができる。また、「帰る」はAで見たように、過去と繋がる言葉であった。それを思うなら、「わたし」は現在だけでなく過去にも向き合えていないのではないかと気付く。「わたし」は今涙に暮れていて、「あなた」のいた昔は憶えているものの、それは「わたし」の中で都合よく再構成された「あなた」なのだ。それを「わたし」も自覚をしている。「あなた」のいない現在を受け止めることはできず、しかし「あなた」に執着するあまりに過去の「あなた」も、今、自分の愛の及ぶ形にしている。それが現在の「わたし」なのだ。

そのようなことを踏まえるならば、「今でもあなたはわたしの光」はかなり苦しい言葉であることがわかる。B・Cで、「わたし」が「あなた」への恨みを持っていることを確認した。それに、Bで、「あなた」が不在であるなら「わたし」は昏いのだと言っていたはずだ。現在、「あなた」はいないし、戻る見込みもないのに、どうして「あなた」は「光」になり得るのだろうか。

自分は以下のように考える。「わたし」は「あなたはわたしの光」という言葉を先に作ったのだ、そして、それが実感できるように、別の言葉を重ねていく。それが、この歌なのだ。「あなた」は現在、いない。以前はいたのに。だから、「あなた」に「光」というぼんやりした形、かつ肯定的な形を与え、自分が「あなた」を際限なく恨んでしまうのを止め、「あなた」のいない現在を乗り越えようとしている。「あなたはわたしの光」は、この歌に三度出てくるから、都度その意味を確認しよう。

歌詞の続きを見る。

暗闇であなたの背をなぞった

その輪郭を鮮明に覚えている

受け止めきれないものと出会うたび

溢れてやまないのは涙だけ       …E

「暗闇であなたの背をなぞった その輪郭を鮮明に覚えている」からわかるのは、過去には「あなた」は触れられる実在であったことだ。今はいない「あなた」の背の感触を、「わたし」は忘れられない。

ここで注意したいのは、過去には「あなた」が「暗闇」に「わたし」といたことだ。「あなた」は「わたし」と「暗闇」に一緒にいてくれて、触ってその存在を確かめさせてくれる人だったのだ。「あなた」は決して、「わたし」を明るみに引きずり出そうとする人ではなかった。このことは、「今でもあなたはわたしの光」と合わせて考えたいので、覚えておこう。

続きは「受け止めきれないものと出会うたび 溢れてやまないのは涙だけ」である。「わたし」は「受け止めきれないものと出会うたび」、これまで「あなた」と共有してきたのだろう。それなのに今「あなた」はいない…!泣くしかない。Dで出てきた「雨」は、このような「わたし」の現在と通じている。

何をしていたの 何を見ていたの

わたしの知らない横顔で        …F

ここも「わたし」の「あなた」への恨みが伺える。でも「わたし」は過去でさえ、「あなた」の全てを知っていたわけではなかっただろうに。「わたし」と一緒であった時の「あなた」のことは、全て知っているような口ぶりだ。「わたし」と一緒に生きることがないことをなじるような気持ちが、このようなことを言わせるのだろう。

また「何をしていたの 何を見ていたの」について、「何をしてい【る】の 何を見てい【る】の」ではないことに気付く。現在、「あなた」がどうしているかを気にしているのではなく、ある一時に出会った「あなた」を責めるような口ぶりだ。それを踏まえると、「わたし」は、別れてからふと「あなた」に会ってしまうことがあったのではないだろうか。その時の感情がこの部分に記されているのだ。「わたし」は「あなた」と別れてから、もう一度逢えてはいない。しかし、ある時予期せずに「あなた」とすれ違うようなことがあったのではないか。約束して会った訳ではないから「わたし」は「あなた」の正面からの顔を見ることはなく「横顔」を見た。そして、「あなた」が「わたし」がいない中でも生活をしていて、人生を歩んでいることを察した。それは「わたし」を辛くさせる。「わたし」は今、「あなた」を思い出して涙ばかり流しているのに、あなたはそうではないのかもしれないのだから。「あなた」は「わたし」が不在でも、平気なのかもしれないのだから。

Fの歌詞を見たあとでは、その次の歌詞が意味深だ。

どこかであなたが今 わたしと同じ様な

涙にくれ 淋しさの中にいるなら

わたしのことなどどうか 忘れてください

そんなことを心から願うほどに

今でもあなたはわたしの光        …G

ここまでをGとする。まず、「どこかであなたが今 わたしと同じ様な 涙にくれ 淋しさの中にいるなら」の部分について。Fで、我々は、「わたし」が「あなた」を予期せず見ることがあったようだとした。また、「わたし」が「あなた」を垣間見てしまった時に「わたし」は、「あなた」は「わたし」不在でもそれなりに生活していたらしいと悟り、傷ついていた。でも、Gでは、「あなた」は「わたし」と同じような「涙」を流し、「淋しさ」の中にいるとしている。実際に見た「あなた」が、平気に生活しているようだったのを否定するようだ。自分がこんなに苦しいなら、向こうも同じだけ辛いはずだ、そうあってくれ、という暗い願い。

そして、「わたしのことなどどうか 忘れてください」と続く。むしろ「あなた」は既に「わたし」など忘れているのかもしれない。Fの歌詞を踏まえるなら、そのようなこともあり得る。「わたしの知らない横顔」で平気に暮らしているのかもしれない。しかし、「わたし」はそれを見ないようにする。「あなたはわたしと別れて、わたしと同じくらい泣き、孤独を感じ苦しんでいる。そんなあなたにわたしは、わたしを忘れてくれと言う」という、「わたし」の物語の中に「あなた」を住まわせる。「わたし」と別れて「あなた」が「わたし」の記憶で辛くなっているはずだというのは、「わたし」が「あなた」にまだ影響を与えているはずだ、と信じたいからだ。またそのような「あなた」に「わたし」を忘れる許可を与えることは、「わたし」は「あなた」にもう何もできることはないという断絶から、無理やりにでも回復したいという思いの表れだ。

その上で、「そんなことを心から願うほどに 今でもあなたはわたしの光」と続くのだ。「そんなことを心から願うほどに」とあるが、その願いはむしろ、「あなた」は「わたし」を忘れられずに苦しんでいる、「わたし」は「あなた」にまだ必要とされている、という「わたし」の物語の「あなた」への押し付けだ。「わたし」は「あなた」にとって、かけがえのない存在なのだ、と信じるならば、「今でもあなたはわたしの光」と「わたし」は思えるのだ。

「あなた」は、「わたし」の側にはもういない。「わたし」は「あなた」を感じることはできないし、「あなた」が何をしているか、何を考えているか、全くわからない。その圧倒的断絶に、「わたし」は絶望している。だから「わたし」は、「あなた」にとって今でも「わたし」は唯一無二の人だという物語を勝手に作る。そしてその物語があるなら「わたし」は「あなた」を憎むことはなくなるから、安心し、「あなた」を「光」だとする。二度目の「今でもあなたはわたしの光」はには、このような「わたし」の物語の押し付けも重なった。「光」という曖昧な言葉は、曖昧であるから故に、そのような「わたし」の作為を飲み込む。「光」は決して、ただただ綺麗なものではないのだ。

続きを見よう。

自分が思うより

恋をしていたあなたに

あれから思うように

息ができない              …H

「あなた」がいなくなってから、「わたし」は息ができないくらい苦しんでいるらしい。「あなた」への恨み節だ。そして、そのような「あなた」不在の現在から、自分の過去を「恋」とした。Eで見たように、「わたし」にとって「あなた」は暗闇で触れた実体だった。そうでなくなった現在から、その過去を「恋」という概念的で包括的な言葉で定義した。「わたし」に、「あなた」への思いを大きな言葉で規定しようとする動きがあることを覚えておこう。

あんなに側にいたのに

まるで嘘みたい

とても忘れられない

それだけが確か              …I

ここまでをIとする。自分が「あなた」の近くにいたことが、現在からは「嘘」に思えるという。「とても忘れられない」のに、その過去が現実であったことを信じられなくなっている。「あなた」が現在、いないから。

「嘘」という言葉が出てきたのを覚えておこう。Aでは、「あなた」を失ったことを「夢」としていた。これらは、「わたし」が現実と向き合えないでいることがわかる言葉だ。

歌詞の最後を見よう。

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ

そのすべてを愛してた あなたとともに

胸に残り離れない 苦いレモンの匂い

雨が降り止むまでは帰れない

切り分けた果実の片方の様に

今でもあなたはわたしの光        …J

JはDに「切り分けた果実の片方の様に」が挿入された形となっている。Dと同じく、Jの始まりは、「悲しみ」「苦しみ」を含めた、「すべて」を「愛してた」とする言葉からだ。これは「あなた」不在の今から、過去を述べているものだ。Eで見たような「あなた」に触れた感覚とか、「あなた」の具体的な「輪郭」にすがるなら、「あなた」の不在を恨むばかりになってしまう。だから「すべて」を「愛してた」という、曖昧な言葉で過去を覆い、際限ない後悔を止めようとする。

「レモン」に関してはすぐ後で考える。続く、「雨が降り止むまでは帰れない」は、Dでも見たように、「わたし」が涙に暮れて過去を振り返れないことを表している。

さて、JがDと異なるのは、「切り分けた果実の片方の様に」という句が挿入されていることだ。ここでは、「わたし」と「あなた」は果実だったのだ、と思おうとする「わたし」を感じることが重要だ。Eのように、別個体であって触れて確かめる相手ではなく、そもそも一体だったのだと思う転換がある。今、「あなた」に触れることはできない。Aの「夢」やEの「嘘」のように、過去に実在した「あなた」を信じることができなくなっている。だから、わたしたちは実を結んでいたのだ、と「わたし」は現在から過去を更新する。

そうである場合、「胸に残り離れない」のが「苦いレモンの匂い」となる。EやIで「鮮明に覚えている」「とても忘れられない」とされていたのは、「あなた」の「輪郭」とか「あなた」が側にいたことだったが、ここではその具体性はない。「苦い」のは後悔があるからだろう。しかし、それはレモンという果実の匂いで、「わたし」は「あなた」と一体だったことを示すものでもある。つまり、後悔もまた、現在から塗り変えられているのだ。具体的な「あなた」ではなく、「わたし」の作り上げた「あなた」、「わたし」と一体であった「あなた」を失ったことへの気持ちとなる。

「わたし」と「あなた」は無意味でなかった、お互いにとって意味があったのだということにして、「わたし」は「あなた」の喪失を乗り越えようとする。三度目の「今でもあなたはわたしの光」は、果実という新しい言葉によって「あなた」像を変化させることにより、「わたし」にとってより信じられる句となった。

「今でもあなたはわたしの光」という、我々が耳慣れたフレーズには、このような「わたし」の苦悩と狡さ、もがきが重なっている。

ここまで、歌詞を順に見てきた。第3節では、それを踏まえながら「今でもあなたはわたしの光」というこの曲の終着点とする「わたし」の身勝手さについてまとめたい。

あなたは光だと思いたい

第2節では、歌詞を追いながら、「わたし」が「あなた」と別れた中で「あなた」を恨みながら、しかしそうではない解決を目指そうとして苦しんでいる様子を見てきた。第3節では、それをまとめつつ、「わたし」の一方的な思いについて考えたい。

第2節で見たことも踏まえながら、この曲の中での「わたし」の心の動きを確認しよう。まず、「わたし」は過去の具体的な「あなた」を思い出そうとするなら、「あなた」が現在いないことを確認してしまい苦しんでしまう。だから、過去の「あなた」を抽象的な言葉で覆おうとする。

Aにあるように「古びた思い出」を呼び覚ますなら、「戻らない」ことを思い、BやCのような恨みが出てくる。Eのように暗闇に一緒にいてくれた「あなた」を回顧すると、「あなた」の不在を感じた時に涙に暮れてしまう。

その過去を消すことはできないのか。Aで「夢」ならば、と思い、Iで「嘘」みたいと言うものの、「わたし」は「あなた」を「とても忘れられない」(I)のだった。だから、「わたし」はDやJであるようにそのすべてを「愛」してた、として概念的で包括的な言葉で過去を覆うことにする。

それと同時に、新しい象徴的な言葉も用いる。「あなた」は、「わたし」がその喪失を乗り越えようとする過程で、「光」になる。

Eにあったように、「あなた」は「わたし」と暗がりにいてくれて、「わたし」が触れて安心できる存在であった。Bで見たように、「わたし」には「昏い過去」があり、それを「あなた」にも隠していたのだ。「わたし」は暗部のある人間であり、「あなた」にそれを具体的に話すことはなかったが、「あなた」は「わたし」と暗闇の中に一緒にいてくれる存在だったのだ。しかし今「あなた」はいない。一緒に闇の中にいてくれる人はいない。「わたし」は一人で「あなた」を思い出してばかりだ。その時「あなた」は「光」になる。属性としては、過去のものと逆だ。過去のように暗さの中で寄り添ってくれることはない。でも「あなた」を何か肯定的な言葉で表したい。その願いから来る「光」は、むしろ空虚なのかもしれない。「わたし」自身に実感はなく、これからその言葉に向けて、自分の「あなた」認識を作っていこうとするのだ。

「わたし」は、Fで見たように、「あなた」が「わたし」抜きで生活できていることを受け入れられなかった。よって、Gにあるように、「あなた」は「わたし」と同じくらい相手の喪失に苦しんでいるはずだ、と勝手に信じることにした。その上で、「今でもあなたはわたしの光」だとした。

また、Jのように「わたし」と「あなた」は一つの果実だったのだ、と信じることで、「わたし」は「あなた」が「光」だと思えるようになった。「胸に残り離れない」のは、「あなた」が暗闇に一緒にいてくれたこと、「あなた」の肌触り、など具体的なものではなくなった。それは、一つであったわたしたちなのに「あなた」を失ってしまったこと、という、新しく作られた物語に付随した後悔なのだ。思い出もまた、塗り変えられていく。

こうして、「あなた」不在の現在を、「わたし」が生き抜くための信仰「今でもあなたはわたしの光」が完成する。「今でもあなたはわたしの光」は美しい言葉ではあるが、そこに至るには「わたし」の苦悩と意識の改変があり、加えて「わたし」の思う「あなた」像を押し付けるような、狡さがあったのだ。「わたし」は過去にも現在にも向き合えていない。

また、この曲には、「わたし」の行為や気持ちしか書かれていないことも確認しておこう。「あなた」の言葉が具体的に出てきたりとか、そんなことはないのだ。矢印は常に「わたし」から「あなた」へ向かう。「あなた」は、この曲の中では、どこまでもよくわからない存在だ。ずっと、「わたし」から「あなた」への思いが述べられる。空洞の「あなた」に、「光」をこちらからひたすら投げかけて、溢れさせるような歌。そういう点を考えても、「Lemon」の「わたし」は身勝手だ。

これまで、「Lemon」の歌詞を踏まえて、「わたし」が自分都合であることを見てきた。第4節では補足として、第1節で見たように、「Lemon」が死による喪失を含んで解釈すべき曲であることを踏まえた場合を考えてみる。そして、相手を失うことの絶対性が加わるものの、残されたもののどうしようもなさは、変わらないのではないかということを確認したい。

死の喪失を考えた時の「Lemon」

第3節までは、失恋の歌としての「Lemon」を考えてきた。別れを乗り越えようとする中での、「わたし」の身勝手を確認した。第4節では、この曲で死を含んで解釈した時にどうなるかを補足したい。「わたし」が一方的であるというのは根本的に変わらない、というのが見通しだ。

例えば、「あなた」の死を想定するなら、Aの「夢ならば」は「あなた」が死んだことが夢であったのならよかった、ということだろうと考えることができるし、Bで「戻らない」とあるのは、「わたし」と「あなた」との関係が修復不可能だということを超えて、「あなた」の死により、もう二度と「わたし」は「あなた」と逢えないことを示しているとわかる。

Fにおいて「何をしてい【た】の 何を見てい【た】の」過去形であることは、死を含めて考えるなら、「あなた」と会わない時期があり、「あなた」が死んで久々に、葬儀で棺桶の中の「あなた」の横顔を見たというような状況を想定すればよいだろうか。「あなた」との最後のお別れでさえ、「わたし」は「あなた」と真正面から向き合うことはできず、「あなた」の横顔しか見ることができなかった。しかし、「あなた」が「わたし」のいない間にも、「あなた」なりの生活をしてきたことをその顔から悟ったのだ。

Gにおいて「どこかであなたが今」と述べるのも、「あなた」が死んでもなお、「わたし」を思い続けているのなら、ということになる。

このような違いはあるが、「わたし」が「あなた」不在を乗り越えようと、恨むのではなく、新しい言葉を与えることによって、「あなた」を美しくしようとしていることには変わりない。構造は、失恋の歌として解釈した時と同じだ。死んだ「あなた」になぜ死んだのか、と言い続けることもできず、でも触れられた「あなた」はもう存在しなくて、どうしたらいいのか。その思いの中で、「わたし」は「今でもあなたはわたしの光」という言葉で、今現在も続く「あなた」との関係を一方的に作る。死んでもなお、「あなた」は「わたし」を遠くから思っていると信じること、「わたし」と「あなた」は実を結び、意味があったのだと思いこむこと、それを行って「わたし」は「あなた」とこれからを歩む。死んだ人が何を思っていたのか、思っているのかは、こちらからはわからない。でも「わたし」が生きるのに都合よく、「あなた」を思い直すことにより、「わたし」は「あなた」との死別を乗り越えようとするのだ。

第4節では、死を踏まえて解釈した時の「Lemon」を考えた。死という絶対性が加わるものの、残された「わたし」の身勝手な構造は、恋愛の破綻による別れを想定していた時と変わらないことを確認した。第5節では、全体をまとめる。

おわりに

この感想文では、米津玄師「Lemon」について、死を含めない形での解釈をしてみた。「わたし」が「あなた」不在の現在を乗り越えるために、「あなた」を新しい言葉で塗り変える身勝手を確認した。その上で、死を意識して考えたとしても、その「わたし」の一方的な思いの構造は変わらないことも押さえた。

このような感想文を書いてしまったのは、ひとえに自分のためであった。正しくはないかもしれないが、あまりに流行歌として耳馴れてしまったこの曲に、もう一度それぞれの人が触れて確かめるようなきっかけになればと思う。

そもそも、人が人を思うことは身勝手で一方的なことなのだろう。その悲しみは抱えつつ、それでも生きていかなければならない。「Lemon」の「わたし」は自己中心的であることを自覚していて、それでも行っている気がする、生きるために。

我々も、我々の仕方なさを噛み締めながら、生きていく他ない。


⑴例えば、オリコンニュースのインタビュー(2018年5月18日記事、文/河上いつ子)で、「アンナチュラル」のプロデューサー新井順子氏は、「主題歌は「残された遺族の未来に、少し希望が差し込んだ」と思える曲にしたい」としている。このインタビューでは、米津はドラマの試写の後に、歌詞を変えていることも明かされており、「Lemon」がドラマ主題歌として作られていることがよくわかる。
『アンナチュラル』Pが明かす主題歌「Lemon」完成秘話 | ORICON NEWS(最終閲覧2024年1月5日)

⑵音楽ナタリーによるインタビュー(「人間の死を見つめて」2018年3月13日記事)で、米津は、曲の制作中に肉親の死という確固たる事実に直面し、死への向合い方を0から構築しなければならなくなったとしている。そして、結果できた曲はものすごく個人的なものとなったという。
米津玄師「Lemon」インタビュー|人間の死を見つめて – 音楽ナタリー 特集・インタビュー (natalie.mu)(最終閲覧2024年1月5日)

⑶ ⑵と同記事(米津玄師「Lemon」インタビュー)より
⑷例えば音楽ナタリーの「Lemon」歌詞コラム(TEXT MarSali)は、ドラマ「アンナチュラル」の主題歌であること、また米津が祖父の死を経験したことに触れつつ、死別した恋人への尽きない思いを歌詞から見出し、「『Lemon』は美しい音楽と歌詞を通して、死に揺さぶられる人の心の弱さを肯定してくれる温かい楽曲」としている。
米津玄師「Lemon」の歌詞の意味を考察!人の死とレモンを関連づける解釈とは? | 歌詞検索サイト【UtaTen】ふりがな付(最終閲覧2024年1月5日)

※画像はphotoAC(写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK (photo-ac.com)(ID:28432622 作者:MONAKA4491)

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