概要
「ミルク」は1997年に発表された日本のミュージシャンであるCharaの16枚目のシングル。
音楽はほかにきゃりーぱみゅぱみゅ『きゃりーANAN』、くるり『奇跡』、スガシカオの『奇跡』、ラサール石井『おいでよ亀有』、和田光司『Butter-Fly』、オフコースの『YES-YES-YES』『秋の気配』『言葉にできない』、米津玄師『地球儀』、米津玄師『Lemon』、RADWIMPS 『魔法鏡』などを解説している。
意味解説・考察
一番:ミルクとネコ
『ミルク』はCharaの代表作の一つで多くのファンを持つが、歌詞はかなり難解でちょっとやそっとでは理解不能である。ところがこの曲を聴いて若かりし頃の広末涼子は涙を流したという。この曲の何かが彼女の心の奥底に響いたのだろう。
「みんなはいい子だよ 自分はネコだよ 泣いたってミルクしかくれない」
この歌詞の冒頭は、「みんな」と「自分」の根本的な断絶の感覚から始まる。「いい子」と「ネコ」は「こ」で韻を踏んでいるのだが、言い表している対象は大きく異なる。「みんな」が人間であるのとは違い「自分」は動物なのだ。だから「なく」という行為は、其れを聞く者に異なる印象を与える。「みんな」が「泣」くと周囲は心配してくれるが、「自分」が「鳴」いても「ミルクしかくれない」。
ここには「みんな」と「自分」の間に埋められない断絶があるだけでなく、「自分」の想いと行為の受け取られ方の間にも齟齬が生じている。それならばいっそ「ひとりで寝転んで途中で放り投げて 誰かがおとしたわけじゃない」と言った具合に「自分で勝手に」行動するしかないだろう。
「だまってだまって抱いて 鏡のない世界で」
誰とも違い誰にも理解されない「自分」が望むことは、言葉とか共感とかそういった次元に存在しない。そしてそこではあなたはこんな様子なんだよと見せつけてくる「鏡」もあってはならない。ただ「だまって抱」きしめること、それだけが何も接点のない、つまり共感からも理解からも程遠い他者に求めることであり、そんな他者ができる唯一のことである。
二番:だまってだいてこわれやすいものを
二番になると「みんな」と「自分」に変わり「あなた」と「ボク」が登場する。「みんな」が「あなた」に、「自分」が「ボク」に移行することで、より身近で具体的な話題へと変化する。
「あなたは穏やかに過ごすことを孤独や寂しさと同じって言ってから……」
いつも「寝転んで」いる「ボク」と「あなた」は、新海誠の『彼女と彼女の猫』の彼女と猫とか、夏目漱石の『吾輩は猫である』の珍野苦沙弥と猫のような関係に似ている。その間には理解や共感などなく、それぞれが独立に行動している。それをある面から見れば「穏やかに過ごすこと」であるし、他の面から見れば「孤独や寂しさと同じ」になるだろう。おそらく「言ってから」の後には「心が離れていった」とか「疎遠になった」とかが続くと思われる。
「「うんざりするようなあきれかえるような やる気のなさで……ゴメンね」」
そうであったとしても「ボク」はどうすることもできない。何故なら「ボク」は共感とか依存とかを望んでいるわけではないからだ。「穏やかに過ご」してもいい、そんなありのままの「姿をあらわしたこのボクを嫌いにならないで」受けとめてほしいが、それが相手に伝わることは一向にない。
でもそんな「ボク」も、自分の感情をわかっているとは言い難い。それは「だまって抱いて」と歌ったはずなのに、「ボクを受けとめて」ではなく「ボクをとめて」と言って感情が爆発するサビの部分で露呈する。
「だまってだいて こわれやすいものを」
「だまってだいて」は願いとも行為とも取れる。一番のサビと同じ意味を表しているとするならば「こわれやすいもの」は「ボク」のことであるが、それに続く「きらってきらって愛せない」との関係を考えるならば「こわれやすいもの」は自分の不安定な心とも取れるだろう。その後に続く「だまってだまって」や「わかってわかって」も要求とも取れるし自分の行いとも取れる点で両義的である。おそらくこの両義性はそのまま受け取るべきで、「あなた」への要求が「ボク」の行為へ、そして「ボク」の行為が「あなた」への要求へと循環しているのが重要なのだ。
「鏡のない世界」とは何か。そこは自分の姿を映すことで相手との根本的な差異を認める必要のない世界である。あるいは、共感や理解ができなくてもだまって抱ける世界であり、相手への要求と自分の行為が循環している世界である。この世界では「こわれやすいもの」を「こわれにくいもの」に作り替えられることは起こらない。ただ「だいて」いるだけなのだ。