この道が続くのは続けと願ったから|米津玄師「地球儀」歌詞考察|意味解説

この道が続くのは続けと願ったから|米津玄師「地球儀」歌詞考察|意味解説

概要

 「地球儀」は宮﨑駿監督の映画『君たちはどう生きるか』の主題歌。作詞・作曲は米津玄師。

 音楽はほかにきゃりーぱみゅぱみゅ『きゃりーANAN』スガシカオの『奇跡』くるり『奇跡』ラサール石井『おいでよ亀有』、オフコース『YES-YES-YES』『秋の気配』『言葉にできない』、和田光司『Butter-Fly』Chara『ミルク』米津玄師『Lemon』RADWIMPS 『魔法鏡』ryo『メルト』などを解説している。

考察

 謎の多い曲だったが、米津玄師の「地球儀」に関するインタビューによってこの曲の意図が朧げながら見えてくることとなった。今回は、そのインタビューを参照しながら「地球儀」の歌詞を考察してみたい。

米津玄師「地球儀」インタビュー|音楽ナタリー

導いてくれる人:生者との関わり

 インタビューからわかるのは、この曲の一つのテーマは「継承」だということだ。米津自身が宮﨑駿を師匠のような存在と考えていることからもその思い入れがわかる。『君たちはどう生きるか』も大叔父から眞人へ、さらには宮﨑駿から私たちへの継承が一つのテーマであった。この曲にはそこに「自分と宮﨑駿という、この2軸の関係性」も入れ込める。

 そして歌詞のストーリとしては一人の人間の一生を歌い上げている。始まりは「僕が生まれた日の空は」であるが、もともと終わりは「僕が死んでいくときの空は」という歌詞にしようと思っていたそうである。つまり生まれてから死ぬまで、人(米津)がどのような経験をしてきたかを歌っているのである。

 まず一番から考察を始めよう。一番で歌われているのは、人生の前半部分だ。「僕が生まれ」てから、いろんな人に出会う。その出会いによって人は成長する。その中には自分の人生の導き手になるような非常に重要な存在もいる。そういった存在を自分の目標として追いかけ、その存在から何がしかを学んでいくわけだ。

この道の行く先に 誰かが待っている
光さす夢を見る いつの日も

 というわけで、この歌詞の「誰か」とは人生の師匠のような存在のことだろう。その存在はもちろん米津が宮﨑駿を師匠のような存在と感じていることからも、直接話したりしたことのある人でなくても良い。影響を与えてくれたり、人生の指針を示してくれた人、それが「誰か」だ。

導いてくれた人:死者との関わり

 二番では、人生の後半が歌われる。人生の後半に差し掛かると、今まで導いてくれた人の幾人かはもう亡くなっている。『君たちはどう生きるか』と重ね合わせれば、「愛したあの人」は眞人の母親ということになろう(眞人はまだ若いので人生の後半とは言い難いが)。歳を重ねると、自分に影響を与えてくれた人は徐々になくなっていくので、そういった死者と関わっていくことになるのだ。

この道が続くのは 続けと願ったから
また出会う夢を見る いつまでも
一欠片握り込んだ 秘密を忘れぬように

 道に関しては、米津がコメントを残している。大事なのは「才覚とか適正」だけでなく、「熱意とか、意志とか、あとは仲間とか」なのだと。またこの「熱意」を、「ある種の祈り」と言い換えて、それが根本にないと何事も始まらないという。つまり道が続くのは、歩いていけるのはそこに「祈り」のようなものがあるからだということである。

 またこの箇所は、魯迅の『故郷』を想起させる。『故郷』では「希望とは本来道のようなもの」と言い、「実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ」という。この「希望」は「祈り」のようなものと考えることもできるだろう。

 さてもうすでに亡くなってしまった人はそれでも記憶に残り続ける。そしていつまでも夢で出会うのであるそう考えると、次の歌詞の秘密とは先人の知恵だったり、師匠の「教え」だと解釈できる。そして「一欠片握り込んだ」の部分は『君たちはどう生きるか』の石とも重なり合って興味深い。眞人は下の世界の石を持ち帰る。それはもしかしたらいつかは忘れてしまう過去の記憶(秘密)を、それでも忘れないように持って帰ってきたのかもしれない。

継承とは何か

 さて二番が終わったあと次のような歌詞が始まる。

小さな自分の正しい願いからはじまるもの
一つ寂しさを抱え 僕は道を曲がる

 インタビューでも述べている通り、この歌詞は〈『春と修羅』「小岩井農場」パート9〉からインスピレーション得て書かれている。〈パート9〉のその箇所を見てみよう。

ちひさな自分を劃ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない
さあはつきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまつすぐに起て
明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに
馬車が行く 馬はぬれて黒い
ひとはくるまに立つて行く
もうけつしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかつきりみちをまがる

青空文庫

 この歌詞を入れた理由としては自分が影響を受けてきたことだけでなく、宮﨑駿も宮沢賢治が好きだということが理由としてあるらしい。歌詞としては確かにあまり重なり合わない部分がある。しかし、米津自身が宮沢賢治のこの詩に影響を受けてきたこと、そしてその詩を歌詞に落とし込めたこと自体がある種の継承である。

 歌詞には「瓦礫を超えていく」というフレーズがあるが、これ発想源はパウル・クレーの「新しい天使」という絵画に対するヴァルター・ベンヤミンの言葉である。『君たちはどう生きるか』ではそこまで瓦礫を超えていくシーンが強調されているわけではなく、映画の内容とずれを感じさせる歌詞であるが、これもベンヤミンからの継承として捉えることができる。面白い試みだ。

 さて最後の歌詞を見てみよう。

手が触れ合う喜びも 手放した悲しみも
飽き足らず描いていく 地球儀を回すように

 「地球儀」という発想自体は「宮﨑さんが地球儀に絵を描いていた」ということに由来する。それを米津は知っていて歌詞に落とし込んだのである。

 さて、「地球儀」の前の歌詞が一番では「思い馳せる」だったのが、最後には「描いていく」に変わる。地球儀に絵を描いていたのは宮﨑駿自身である。つまり、この歌詞には最後の最後に宮﨑駿が登場する。そしてまたそのような喜びや悲しみを描いていくのは、表現者の宿命でもあり、米津自身も描いてく側にいる。つまり、ここには宮﨑駿を含めた皆の存在が感じられるわけだ。ここで、継承の時間的な線のつながりが、空間的な点の重ね合わせのイメージになる。米津玄師も宮﨑駿のように描いていくのだ。

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