あの風景をもう一度 – 『おいでよ亀有』ラサール石井

あの風景をもう一度 – 『おいでよ亀有』ラサール石井

呼び声の正体は?

誰かが呼んでるような 雨上がりの午後
振り返りながら歩いた かあちゃんに手を引かれ
あのとき感じた 不思議な気持ち
だからアーケード街のタイルの黒いとこだけ歩いてみたよ

「おいでよ亀有」歌詞

 15年ほど前の日曜日の夕暮れ時、食卓を囲む家族の団欒に「こち亀」のオープニング曲『おいでよ亀有』が流れていた。この曲は私たちをどこか懐かしく温かいそれでいて寂しいといった複雑な気分にさせたものだった。歌詞のエピソードは子供たちのそして何より側にいた大人たちの心の深部を刺激し、アーケード街のあの懐かしい風景を思い起こさせた。この曲を聴いて私が思い出すのはスターウォーズ:エピソード3を観たあとに祖母と歩いた商店街だったり、幼稚園から帰る兄を迎えに行くために母に連れられて歩いた雪が積もった廃線だったりする。多くの人がこの歌詞にノスタルジーを覚え記憶の微睡みの中で懐かしさに浸る。この歌詞に描かれている情景には懐かしさを喚起させる普遍性があるのだ。しかし、この歌詞の一体どこにその普遍性があるというのだろうか。

 2番の歌詞は「誰かが見ているような昼下がりの空。振り返りながら見上げた——」である。1番と合わせて考えると登場している子供はどうやら何者かの視線を感じ呼び声を聞いているようだ。そのため思わず振り返ってしまい——歌詞には書かれていないが——呼び声の主を探して虚空を見つめているのだろう。ここで気になるのは当然ながら声と視線の正体である。視線と声の主は一体誰なのだろうか。キリスト教圏なら視線の正体は神と答えるだろう。しかしここは日本の亀有、ヤンチャ坊主の鼻垂れ小僧が神の啓示に打たれることは土台無理な話である。では視線の正体は常しえにつづく祖先の眼差しだろうか。あるいは妖怪のなせる技だろうか。

こどもの行方

 ここで注目すべきは視線を感じ声を聞くのは「子ども」だけであり、手を引いているかあちゃんととうちゃんは不可視の存在の雰囲気すら感じ取っていないということだろう。この事実は決定的に重要だ。なぜなら子どもと親の両者は偶然そこにいたのではなく作者によって意図的に配置されており、反応は見事なコントラストをなしているからだ。この反応の違いこそが呼び声の主を解き明かすヒントを提供してくれる。例えば数千年の歴史を持つ祖先の荘厳な声の響きや理性の裏をかく妖怪の悪戯は、むしろ大人にこそ響くものであり、その場合振り返るべきは間違いなく親の方なのである。

 認知できない声がどこからともなく聞こえ自らの存在に響くその様子は、ハイデガーが言うところの現存在に発せられる「良心の呼び声」を想起させる。ところが「良心の呼び声」は現存在を本来性へと誘う導きの声であり、人間が人間として高次に向かうプロセスために要請された装置であり、つまりハイデガーの一連の哲学的洞察は大人を対象にして考えられている。。「子ども」を考察するためには理性をもつ大人を基礎に据えたハイデガーではどうしても上手くいかない。そこで我々はハイデガー が「不安」の概念で依拠したキルケゴールまで戻る必要がある。私の見立てでは、ハイデガーが「大人の実存の哲学」を打ち立てとは対照的に、キルケゴールが確立したのは「子供の実存(?)の哲学」であった。

 キルケゴールは『不安の概念』でアダムとイブの堕落の神話を引きながら、不安の性質を二つに分ける。一つは堕罪した後の不安であり、もう一つは果実を食べる前、無垢の状態の時に感じる不安である。後者の不安は、「この実を食べてはいけない」という禁止の命令を受けたあと善悪もわからない状態において、禁止をされるがゆえにかえって「なしうる」という可能性に直面した際に感じる不安である。アダムが罪を犯す前に感じる不安は「無垢の中に措定されている不安」(p.88)としていて、面白いことに、キルケゴールはこの種の不安を子供が感じる不安と同種のものであることを示唆している(p.88)。キルケゴールの概念を援用するならば、子ども=非理性の主体が感じているのはまさにその「不安」である。だから子どもは不安の原因である、何でもない=無=「なしうる」という可能性のほうを執拗に追いかけながら、しかし親の手を離すことは絶対にないのだ。

 「かあちゃんに手を引かれ」に続く「あの時感じた不思議な気持ち」は、つまり無垢な状態のときに感じた不安のことである。次には「アーケード街のタイルの黒いとこだけ歩いてみたよ」が連なるのだが、その間は「だから」で繋がれている。「だから」?「だから」は結果を示す順節の接続詞なので、不思議な気持ちが「アーケード街のタイルの黒いとこだけ」を歩かせたということになる。どういうことか。

誰かが見ているような 昼下がりの空
振り返りながら見上げた とうちゃんに手を引かれ
あのとき感じた不思議な気持ち
だから道端にあった石ころ家に着くまでずっと蹴ってたよ

「おいでよ亀有」歌詞

 2番を見てみると1番との共通点に気がつく。子供は遊んでいるのだ、しかも一人で。それも単純な行為の反復でありさらに言えばこの行為の反復にはある種の儀式性が帯びてさえいる。つまり無に対する漠然とした不安に対して、反復的な行為で——無意識的に——どうにか「有」であることを確認し不安に対抗しているのである。子供と禁止と遊びの関係は例えばルネ・クレマン「禁じられた遊び」でもテーマになっている。あるいは、是枝裕和「万引き家族」の柴田祥太が万引きの前に行う儀式も不安に抗うもので似たようなテーマなのかもしれない。

 どちらにしろ、これでようやく最初の問い「この歌詞の一体どこに普遍性があるのだろうか」に答えることができるようになった。この歌詞で書かれている普遍性は「アーケード街のタイルの黒いととこだけ歩い」た体験でも、「石ころを家に着くまでずっと蹴ってい」た記憶でもない。そうではなくて、この歌詞にある誰しもが見に覚えのある感覚とは、理性の覚束ない子供の時に感じた不安とそしてそれを覆い隠すようにした反復の行為のその一連の流れなのだ。そしてそれは反復の行為が不安を覆い隠したように、理性の力が長い歳月をかけて忘れさせた古びた記憶の塊でもある。だから続く「誰でも一度は子供だったけどみんな忘れている」のは「子どもだった」記憶ではない。この歌詞が深い共感を呼ぶのは、子供のときにしか感じることのない不安の感覚を豊かに表現しているからなのだ。

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