スガシカオ『奇跡』|「奇跡」の「予感」|歌詞を徹底考察

スガシカオ『奇跡』|「奇跡」の「予感」|歌詞を徹底考察

概要

 スガシカオの18枚目のシングル。2005年に発表された。『奇跡』のほかに『夏陰』『サナギ』が収録されている。

 『奇跡』は2005年の全国高校野球選手権大会のテーマソング。2000年代における三大「きせき」歌の一つ。ほかの二つは、GReeeeNの『キセキ』(2008年)と、くるりの『奇跡』(2011年)である。

解説

夢と希望が疑わしく感じる現代

 『奇跡』は「夏の甲子園では奇跡が身近にある」ということから着想を得て作詞作曲された。イントロもなくサビの「いま奇跡が起こりそうな予感に」でとつぜん始まるこの曲は、冒頭から高校球児たちの、夏の、甲子園らしい疾走感を感じさせる。つづく「抑えきれないくらい胸騒ぎがするけど……」と言う歌詞は、「奇跡」がまさにそこまで迫ってきていることを予感させる。いま、ここで、「奇跡」が起こりそうなのだ。

 『奇跡』がその歌詞であつかうテーマは、もちろん「奇跡」なのだが、注目すべきはその世界観である。つづくAメロは、体言止めで四つの風景が綴られる。「白い壁」「ポスター」「ジュース」「太陽光」。この情景描写は、風景のワンシーンが脈絡なく映し出される新海誠のアニメ映画や、山崎まさよしの『One more time one more chance』を想起させられる(新海誠『ほしのこえ』評新海誠『星を追う子ども』評)。この風景描写の羅列は決して珍しいものではないのだが、名詞の手前にくっついている形容詞は特徴的だ。「落書きでうまった」「やけたロードショウ」「昼間のマンガ喫茶のうすい」「照り返してる」。これらが感じさせるのは、日常の退廃的な雰囲気である。都会の裏路地を覆いつくす「落書き」はいつしか見慣れた風景に変わり、「昼間」にはいった「マンガ喫茶」で出される「うすいジュース」は退屈で変わらない日常を現している。

 社会学者の宮台真司は、「大きな物語」が崩壊した現代を「終わりなき日常」と呼び、それに耐えながら生きることを推奨した。それは「終わりなき日常」に耐えられず、地下鉄サリン事件をおこしたオウム真理教にたいする反省からでた主張であった。『奇跡』はまさに宮台がいうところの「終わりなき日常」の前提を共有している。「やけたロードショウのポスター」が典型的であろう。これまで夢や理想を掲げつづけてきた「ロードショウのポスター」が、いまや「やけ」てしまっているのだ。すると「夢と希望って言ったってちょっと疑わしくって……」の意味も明瞭になってくる。2005年を生きる高校球児たちは、「終わりなき日常」を過ごしながら、失われてしまった「理想」を復活することもなく、またそれ自体すら信じていない。2001年から放送された『クラッシュギア』の主人公、タケコウログが「夢はでっかく、世界チャンピオンだ」とアニメ(虚構)の中で叫んでいるその間に、現実では「夢」と言う言葉すら「疑わしく」なっていたのだ。

考察

「終わりなき日常」を乗り越える

 少し遡って考えてみよう。1999年に放送された『デジモン・アドベンチャー』は、まさに虚構に埋没することで、「夢」や「希望」をもちながら「冒険」できる、新たな世界(デジタル・ワールド)を提示した。だがここでは、『デジモン・アドベンチャー』にたいして極めて批評的であった、オープニングソング『Butter-Fly』を思い出すべきだろう(『Butter-Fly』評*なるほう堂)。そこで歌われていたのは「無限大な夢のあとの何もない世の中」であった。『Butter-Fly』は『デジモン・アドベンチャー』のオープニグソングでありながら、「無限大な夢」=「デジタル・ワールドの冒険」のあとの「何もない世の中」=「現実世界」について憂いていたのである。

 そう。『奇跡』が前提としている世界は、『Butter-Fly』が危惧していた「無限大な夢のあとの何もない世の中」だったのだ。これは、1945年から1970年までの「理想の時代」、1970年から1995年までの「虚構の時代」が終焉したあとの世界とみて間違いないだろう(この時代区分は詳しくはこちらを参照:不可能性の時代とは何か)。大事なことは、「無限大な夢」が終わり、それに回帰することもできないまま「夢」や「理想」が「疑わしくなった」時代、つまり「終わりなき日常」を生きてるこの時代に、「日常」を突き抜ける契機がどこにあるか、ということだ。

 二番まで含めると、もはや信じられなくなってしまったものに、「夢」「希望」「無限の未来」「自由」があり、そして「光化学スモッグ警報」や「町中のダルイ空気」は「終わりなき日常」を表象している。やはり、この微睡の「日常」が問題であり、そこから抜け出す方法が望まれている。

 高校球児が求めるもの何か。それは「無限大な夢」でも「無限の未来」でもなく、「胸が破裂しそうな刺激的な夏」と「息が止まっちゃうくらいのそんなバイブレーション」である。ここに「理想」や「虚構」に回帰せずに、「日常」をぬけだす新たな可能性がほのかにあらわれている。それが「奇跡」である。

「夢」ではなく「奇跡」を予感せよ

 『奇跡』において「奇跡が起こりそう」は「自分が変われそう」と並置される。そして「奇跡」は「予感」させるものであり、「胸騒ぎ」が起こさせて「ニやけ」さしてしまうものでもある。これだけでも「夢」との違いは明らかであろう。「奇跡」は、「未来」ではなく「いま」であり、「希望」ではなく「予感」なのだ。

 「奇跡」は「偶然」とかぶるところがあるかもしれない。確定的な「未来」や断固とした「理想」ではなく、「偶然」あらわれる「奇跡」。高校球児たちは「理想」に近づくことで自己を変容させるのではなく、「奇跡」によって「自分が変われそう」なのだ。そしてそれは「ぼくと同じこの瞬間を世界のどこかで君も感じている」という確信によって、他者の存在を感じさせる。かつて共有することで共同体を築き上げてきた「夢」の存在は、跡形もなく消え去ることで他者の薫りすら吹き飛ばしてしまった。一方で、「奇跡」は他者と共有することができないのだが、「君も感じているはず」という次元で、他者と「僕と同じこの瞬間を」生きることができるのである。

 とはいえ、「奇跡」はすぐに消えてしまう。発生が「偶然」であったように、消滅するのも「偶然」なのだ。「いつも冗談みたいに消えてしまうから誰にも言わないようにしよう」。それが「奇跡」を感じる高校球児の感性である。「夢」を失った「終わりなき日常」、そこは逆説的に「冗談みたいに消えてしまう」「奇跡」にあふれているはずだ。「夢」ではなく「奇跡」を探し、「未来」ではなく「いま」を「予感」し、「誰にも言わない」ことで「この瞬間を」「君も感じているはず」と確信すること、そこに今を生き抜くリアルがある。

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