「ハリウッド映画史」とは何か③ 1930年代から40年代へ

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【この節に出てくる重要語】

・二本立て

・「B級映画」

・フィルム・ノワール

・ディープ・フォーカス

・ロー・キー

この件に関係があるかもしれないと思ったようで、『カリガリ博士』とサルヴァドール・ダリの『アンダルシアの犬』も上映した。一九二〇年代のロシア映画に衝撃を受け、ワイリー・ホワイトの勧めに従って、脚本部に『共産党宣言』を二ページでまとめさせたこともあった。

―F・スコット・フィッツジェラルド『ラスト・タイクーン』エピソード17(1941)

この映画をモノグラム・ピクチャーズに捧げる

―ジャン・リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1959)冒頭のテロップ

1. 1930年代再訪 複数の映画史

 前回の記事で、私は架空のタイムトラベラー氏に1929年から1939年のアカデミー授賞式へとタイムワープしてもらい、ハリウッド10年間の大躍進を検証した。しかし、映画界はアカデミー賞に呼ばれるような、絢爛豪華で「光」のごとき作品のみから成り立っているわけではない。「光」あるところには「影」がある。むしろ「影」を支えに生きていた観客も数多い。この節では映画史のフィルムを巻き戻し、1930年代における「複数の映画史」(J. L. ゴダール)を織っていくことにする。

 アメリカが大恐慌の余波に苦しんだ1930年代、人々の最大の娯楽はもちろん映画だった。前回も触れたとおり、1939年には約400本の新作が公開されている。しかし、その一本一本にスタジオの才能と予算と時間が結集されていたわけではない。何せ、この時代の興行はほぼスタジオが直轄しており、配給はスタジオが映画館に映画を束で売りつけて一日中自社作品だけ上映させる方式(「ブロック・ブッキング」)。映画館側も、客が入るのならなんでもよく、質などはこだわっちゃいない。「安い・早い・旨い」ではないが、低予算・早撮り映画で大作の合間を埋められるのなら儲けものではないか?こうして始まったのが、「メイン」の前に「添え物」を上映する、いささかコース料理じみた考え方の、「二本立て(the double feature)」興行である。(実際は予告編やニュース映像などの「食前酒」も提供されていた。オペラの幕間劇、能に対する狂言など他分野で類似の例は世界に数あれど、映画で二本立てを行ったのは溢れるほどの製品を作り得たハリウッドならではの発想と呼ぶべきだろう。)

 エイリアンやモンスターが出てくる絵空事を描く映画は「B級」だ、と現代人は思っている。「『バトルシップ』(2012)はB級映画の最高峰だ」「『シャークネード』(2013)はもはやZ級と呼ぶべき」、等々。しかし、蓮實重彦が力説するように、「B級映画(B pictures)」とは歴史的な概念・用語なのであり、「よく二流監督の作った安易な発想に基づく粗製濫造のプログラム・ピクチャーの同義語となってしまっているが、それが決定的な誤解にもとづくものだということだけは記しておきたい」(『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』ちくま学芸文庫、2017年. p.106[原著1993年])。「B級」の語は、フォックス社(20世紀フォックスの前身)が1928年10月に撮影所を新築した際、旧撮影所を「B地域」と呼称し製作費の安い映画を量産する体制を敷いたことに由来する、製作される場所と関連付いた概念である。1930年代には、モノグラム・ピクチャーズ(1932年設立)やリパブリック社(1935年設立)等、B級映画のみを製作する会社も誕生。これらの映画会社が集まる地域は「貧窮通り(poverty row)」と呼ばれた(コロンビアも『或る夜の出来事』(1934)以前は「貧窮通り」組だったのは前回述べた通り)。以下、『ハリウッド映画史講義』の第二章「絢爛豪華を遠く離れて」に基本的に依拠しつつ、私見も交えて記述する。

 まず、「厳密な意味での『B級映画』は、ハリウッドの撮影所システムが円滑に機能した一九三二年から一九四七年までのほぼ十五年間のアメリカ映画にしか存在していない」(p.107)ことに、蓮實は改めて注意を向ける。だがしかし、1931年に公開されたユニバーサル製作『魔人ドラキュラ』『フランケンシュタイン』も、画面に漂うただならぬ「深い暗さ」を後のB級映画と共有しており、これらはシリーズ化されて続編がB級映画として製作されたことからも、B級映画の元祖だと定義を拡張してよいだろう、と。そして1930年代とは、コロンビアがフランク・キャプラの大活躍により表通りでアカデミー賞を総なめした時代(→前回参照)であると同時に、『モルグ街の殺人』(1932)『ミイラ再生』(1932)『透明人間』(1933)など、ユニバーサルが一連の怪奇映画で裏通りの観客たちを魅了した時代でもあるのだ(これら「ユニバーサル・モンスターズ」は、近年になって「ダーク・ユニバース」として蘇生=リブートされることがアナウンスされ、B級映画ファンを熱狂させた。ところが、アレックス・カーツマン監督『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』(2017)が主演のトム・クルーズ史上近年稀に見る大失敗作となり、頓挫。ユニバーサルのユニバース構想はお蔵入りとなったが、リー・ワネル監督『透明人間』(2020)が単発作品として製作され、見事に透明人間を現代に蘇生させた)。

 ドイツから帰化したカール・レムリが1912年に設立したユニバーサルは、「アメリカで最も歴史の古い由緒正しい撮影所」(p.115)。1915年には広大な土地に「ユニバーサル・シティー」を建設、現在のユニバーサル・スタジオ(の特にジャパン)には全く名残りがなくなってしまったスタジオ(バックロット)見学ツアーも開始している。後にMGMで大活躍し若くして亡くなるアービング・タルバーグも、後にコロンビアを設立し「ドゥーチェ(統領)」として君臨するハリー・コーンも、共に最初はレムリの弟子だった。ところが、1930年代を迎える頃には弱体化、コロンビア・ユナイテッドアーティスツと並んでリトル・スリーの一角(メジャー・ファイブではなく、という意味)を占めるのみとなっていた。そんなユニバーサルが活路を見い出したのが、低予算怪奇映画路線だった。

 蓮實は、レムリに企画を進言したロバート・フローレーというマイナーなフランス人監督を、映画『フランケンシュタイン』の、さらにはB級映画すべての生みの親として高く評価する。フローレーは、ベルリンのウーファ撮影所で監督としてのキャリアを積んだと記述がある。ウーファ撮影所(Universum Film AG, UFA)とは、ワイマール共和国時代にフリッツ・ラング『ドクトル・マブゼ』(1922)『メトロポリス』(1926)、F・W・ムルナウ『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1921)、ジョセフ・フォン・スタンバーグ『嘆きの天使』(1930)、他にも数えきれないほどの名作を世に送り出した伝説の地だ(1920年代前半にはアルフレッド・ヒッチコックも助監督として働いていた)。蓮實はあえて書いていないものと思われるが、ユニバーサル怪奇映画を特徴付ける陰影に、ウーファが有名にした「ドイツ表現主義」の影響があることは定説となっている。『魔人ドラキュラ』の撮影はカール・フロイント、ムルナウ『最後の人』(1924)や『メトロポリス』の撮影監督その人である(一部演出も行ったらしい。フロイントは『ミイラ再生』では監督もしている)。

 いかにもアメリカ的な「明るさ」から、ヨーロッパ由来の「暗さ」へ。これは1940年代を通じてハリウッドに起きた深い変化であるが、ユニバーサルの怪奇映画はその先駆だった。しかし、「暗さ」ばかりではなく、胸のすく連続活劇にも人々は喝采した。今日ではクイーンの映画主題歌の方が有名になってしまったスペースオペラ『フラッシュ・ゴードン』も、ユニバーサルが新聞漫画を映画化しシリーズにした。これをリメイクしようとしていたのが、若き日のジョージ・ルーカスである。映画化権が買われているのを知ったルーカスは、代わりに「遠い昔、遥か彼方の銀河系で・・・」で始まる大冒険を映画化しようと決意する。

 ジム・シャーマン監督のカルト映画『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)は、主に1950年代のSF映画たちに最大のオマージュを捧げた名曲、巨大な唇が歌う「Science Fiction, Double Feature(SF映画二本立て)」で幕を開けるが、1930年代怪奇映画・冒険映画への言及も多い。そこには、1930年代の人々がどのように映画を享受したのか、想像的に追体験しようとする姿勢が見られ、映画ファンの心を熱くする。

①マイクル・レニーは病気だった 地球の制止する日に /でも彼は僕たちに立っている場所を教えてくれた

②フラッシュ・ゴードンもいた 銀の下着を履いて /クロード・レインズは透明人間だった

③何かがうまくいかなくなった フェイ・レイとキング・コングは /セルロイドのフィルムが絡まったみたいだ

④それからすごい速さで「それ」が外宇宙からやって来て /こんなメッセージが流れた

便宜上番号を振ったが、②がユニバーサル製作の『フラッシュ・ゴードン』シリーズと『透明人間』(主演: クロード・レインズ『スミス都へ行く』ではペイン上院議員を演じた芸達者なイギリス人男優)、③がRKO製作の『キング・コング』(1933、主演: フェイ・レイ)への言及だ。ぜひお時間があればYouTubeでこの名曲を再生し、原曲の歌詞で歌ってほしい。

 ともあれ、「二本立て」興行の確立とそれに伴う「B級映画」の誕生は、大衆の欲望に応えただけでなく、映画表現の可能性を試す絶好の場となった。前回私は、蓮實の提唱した「説話論的な経済性」という概念を紹介し、1930年代ハリウッド映画の名作たちがほとんど100~120分の尺に収まっていることを称賛した。ところが、『魔人ドラキュラ』は74分、『フランケンシュタイン』は71分、「B級映画の生みの親」フローレーの『モルグ街の殺人』はたったの62分!

「B級映画」の予算は「A級映画」のおよそ十分の一、撮影期間は六週間に対してほぼ二週間と短く、中には二日、あるいは五日で撮り上げられることも稀でなかったという。上映時間は六十分から七十分、長くて八十分というのがその基準である。

蓮實、p.125

 結論を先取りすれば、来たる1940年代は、このような低予算・早撮りのB級映画が黄金時代を迎えることとなる。しかしその種の一部は間違いなく、ユニバーサルの窮余の一策によって蒔かれていたのだ。(つづく)

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