劇場と小説における空想について|マルク・リシール論文読解

劇場と小説における空想について|マルク・リシール論文読解

概要

2003年のテキスト。« Du rôle de la phantasia au théâtre et dans le roman », Littérature n° 132 – Larousse – Paris – déc. 2003 – pp. 24-33.

内容

三章からなる。主題は題名通り、劇と小説の中で作動する(知覚的)空想についてである。

第一章 想像と空想

 マルク・リシールの読解によれば、フッサールは『フッサリアーナ23巻(空想、像意識、想起)』で想像と空想の区別を行っている。その研究に関しては、リシール自身『射影する現象学』(2000年)で発表しているが、ここでは再度想像〔imagination]〕と空想〔phantasia〕の区別について手短に取り上げることになる。

 まずは想像である。フッサールの分析では「想像はそのつど対象を思念する志向的作用である」ということである。想像は構造化されており、そこには像主題〔Bildsujet〕と像客体〔Bildobjekt〕がある。像主題は、現在的であるが想像作用の中で定立されるのではなくて、疑似定立されるだけのものである。像客体は物理的なサポート(例えば写真や絵の色など)を受けて成立する客体である。しかしながら、そのイメージを持つことはできない(ex. パンテオン神殿)。少なくとも想像は志向的な作用である。

 それでは空想〔Phantasie〕はどのようになっているのか。空想の本質的な特質には想像にないものがある。まず「いなずまのように現れたり消えたり」「間欠的で非持続的」「プロテウスのように変幻自在」「非現在的」ということである。そして時間化も想像とは異なる時間化の仕方をしており、空想は現在〔présent〕なのではなく、割り当てられうる現在のない現前〔présence〕である。それゆえ非定立的、非志向的でもある。しかし、その一部が想像の形象化の中で現れるということは、空想は想像作用において位相転換をするということである。例えば常に夢は、あいまいな空想と場所とか人物とか行動とかを認識している想像との混合である。しかし想像は、物理的なサポートによりその非安定性を固定化して生き生きとした空想の非安定性を殺してしまうこともある。

第二章 劇場のパラドックス

 『23巻』のテキスト18番でフッサールは劇場について語っている。リチャード3世やヴァーレンシュタインのの劇である。劇では、俳優が上手なら演じられている人物が俳優に受肉し、観客は「劇場の魔法」にかかる。逆に下手なら、下手にもいろいろあって、俳優が機械的であったりマニエリスム的に演じていたり、あるいはナルシスティックに演じていたりする(精神分析)という場合があるが、そうだとその役を思い描くことはできず、むしろ失望したり劇場の光景が派手に見えたりする。

 すでにディドロが分析していることだが、俳優はその演じられる人物のために自らの生き生きとした身体(Leib)を貸し与える。演じられる人物は物語の展開の時間化に沿って現前化されるし、俳優は演じられている人物の形象をもっているわけではない。つまり、例えばリチャード3世ならば、リチャード3世は知覚も想像もされていないのである。それは、現在にはいないが「空想の中で、それ自体直観的に形にならないもののように現前している」ということであり、それは空想それ自体によって知覚〔Perception〕されている。空想が知覚されているので、フッサールはこれを知覚的空想〔perzeptive Phantasie〕と呼んでいる。 

 

第三章 文学における《知覚的空想》

 とりわけ小説に焦点を当ててみよう。小説は劇場との類似点も見出されるが、しかし小説には生き生きとした登場人物たちの時間的なプロットがあるわけではないし、また俳優によって受肉された存在がいるわけでもない。もし直観的な形象でも描き出そうと思うなら、それは想像的同一性という幻想的〔fantasmatique〕な罠にはまり込んでいる。劇場の中にあった自由は、劇場よりも小説の中でより多くの自由を知覚的空想に与えている。

 書き手に対しても読み手に対しても、小説における「生」は「知覚的空想」の中で目覚めさせられる。しかもその時間化は現在〔present〕において行われるのではなく、割り当てられる現在のない現前〔presence〕において行われる。つまり敵は想像にあり、あまりに描写が過剰に詳細になりすぎると(リシールはバルザックやロブ・グリエを挙げている)、息苦しい倦怠感がたちこめてくる。

 ということは、小説を読むときはパラドキシカルな状況に身を置いていることになる。つまり、テキストに対する知性的な関心と同時に空想の能動性が必要となるのである。空想というのはその意味で「非実在性」であり、言い換えるなら「地平としての現実性〔La réalité comme horizon〕なのである。

 小説に一般的に与えられている定義の修正が必要となる。小説において大事なのは、小説的なプロットや筋立てにあるのではない。

重要なのは登場人物に固有の生であり、古典的な言葉遣いをすれば、魂の運動あるいは情動性〔affectivité〕の迷宮と名付けられるようなものなのだ。その迷宮において情動〔affection〕は親密な形で空想に結び付けられており、それゆえその運動を何らかの仕方でありのままに捉えることできる知覚的空想に結び付けられているのである。

p. 31

 例えば『ボヴァリー夫人』を例に挙げている。『ボヴァリー夫人』はフローベールの長編小説で、主人公のエマ・ボヴァリーが、田舎の退屈な夫との結婚生活に嫌気がさし、自由で華やかな生活に憧れた結果、不倫や借金などで追い詰められた挙句、人生に絶望して自殺してしまうという物語である。

 その小説で読み取られるべきは、善良で退屈な夫と放埒なボヴァリーのつまらない歴史なのではない。情動性こそが読み取られるべきであり、夢想に耽っているだけであった田舎生活での退屈な情動性が、だんだんとそのリアリティを薄れさしていき(「空気化して」)、夢想でしかなかったものが現実化したときには自殺にまで至ってしまう、その情動性の時間的な変転こそが読み取られるべきなのである。

 単なる歴史的な書物として何らかの記録が描かれているのではない。

私たちは、その途方もない平凡さの中に、登場人物が活躍した当時のフランス社会にあったはずのものを感じ取るだろう。そしてもはやそれ以上を必要としない。そして、歴史の教科書の中で感じ取れることよりももっと当時のフランス社会を感じ取り、それを空想の中で知覚する。そして、それを通して、フローベールをあれほど誘惑したものや、彼があれほどうまく記述したものを未だに感じ取ることができる。すなわちそれは、人間の凡庸さと底知れぬ愚かさがいつの時代もあるということなのだ。

ibid.

 リシールはこれらのこと小説における「錬金術〔alchimie〕」と呼んでいる。小説はこのように単に言語学や統語論や心理学、精神分析の理論に収まらなりきらない何かを持っているのである。またその領野においてこそ、情動性と身体性〔Leiblichkeit〕が結びつく。そしてこの錬金術に対する分析として現象学はなにがしかの貢献をする。というのも現象学は現実に定立されないものを分析するからである。というわけで、志向的対象に固有の虚構(フィクション)と非定立的な事象性〔Sachlichkeit〕の区別する必要がある。後者が空想の領域で、それはリシールによればフッサールもすでに気付いていたことだった。

 つまりリシールからすればこの非定立的なものを分析する、あるいは基盤に据えようとするのが現象学なのだから、現象学の領野は未規定性や未規定なものに覆われている。しかしやはり現象学からすれば、そこれ生の基盤になるものである。

文学の反響の中で、現象学は未規定性や未規定なものを伴って作業しなければならないという革命的な斬新さを持つ。しかし未規定性や未規定なものは最終的に我々の生の基盤を構成する。それは、ときおり私たちが日常で現実に出会う人々よりも生き生きとしている、文学の中の登場人物の生の基盤も同様に構成している。

p. 33

 ここにおいてこそ劇や小説における現象学というのものが成立すると言えるだろう。

考察

 ポイントは空想が地平であるということだろう。現実の地平であって、現実ではない。これが空想と想像を分かつ境界線である。要するに空想は見えないものであり、地平という形で、リシールがいうように、生の基盤をなしている、

 もう一つが情動性である。これは空想よりも理解するのが難しい。『ボヴァリー夫人』の例からもわかるように、情動性は時間的な隔たりを超えて当時のフランス社会を理解することができる。それも史実的な理解というよりもより身体的な理解である。しかしながら悲しいとか楽しいとか感じることが情動性なのではない。リシールには情動性も現象学的な区分があり、いわゆる志向的な情動は触発〔affekt〕になるからである。情動性とはそういうわけで雰囲気のようなものであり、ある意味で無意識であるだろう。たしかにボヴァリー夫人の心の動きを感じ取ったり共感したりすることができるが、それを明証的にとらえることはできない。しかし、情動性も生の基盤だというのはどういう意味なのだろうか。例えば情動性によって、言語以前のコミュニケーションのようなものや様々な感受性が可能になるということだろうか。ここらへんは情動性に関するリシールの論文を読むのがよいのだと思われる。

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