最新のマルクス研究
本書は「NHK100分de名著ーーカール・マルクス『資本論』」のテキストを大幅に改稿して、新書で出版したものである。すでに10万部を突破しており売れ行きは凄まじい。
その理由を推測するならば、もちろん斎藤氏の人気というのもあるが、現代日本における資本主義社会の息苦しさが挙げられるだろう。斎藤氏が「はじめに」で述べるように、「毎日が楽しくてしょうがない人が、この本を積極的に手に取る確率は低いはず」である。資本主義、どうやら私たちがいつの間にかどっぷり浸かってしまっている経済システム、は私たちの生活をいつのまにか苦しくしてしまった。バブルが崩壊し失われた30年に突入している今、この経済システムで報われた!と感じている人はそう多くはない。
例えばここ10年、日銀が「異次元の量的緩和」をしても給料は上がらなかった。最近知ったのだが、それでも企業は儲かっていなかったわけではなく、異次元緩和による円安で企業が儲かったことで、海外への投資や株主の配当などが順調に伸び続けた(安倍晋三氏がアベノミクスはうまくいったとか言っていたのはそういうことだったのか)。唯一増えて行かなかったのが給料で個人の所得は横ばいである(なんたることか)。2023年になってようやく賃上げの兆しが見え、最後の金融政策決定会合後に「ようやく10年間の努力が実ってきて、賃上げを伴った物価上昇が始まろうとしている」と元日銀総裁の黒田氏はおっしゃったらしいのだが、本当に実るのか、まだ先行きは不透明である。
経済的な閉塞感だけでなく、地球環境問題も深刻になってきている。これも資本主義がなんらかの悪い影響を与えているとされる。熱波や洪水、干ばつなどの被害が増えてきて、今後どうなっていくのだろうかという不安も募る。思えばこの延長線上の世界を『ペリフェラル』は描いている。ジャックポットと呼ばれるような現象が確かに、20年後、30年後に起こってもおかしくないような気がする昨今である。
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そういうわけで立ち返るべきは『資本論』なわけだ。『ゼロからの『資本論』』は、マルクスが切り開こうとした突破口を解説している『資本論』の入門書となっている。ではいかにして、この資本主義時代を乗り越えることができるのだろうか。
本書は初心者でも読める入門書というだけでなく、マルクス研究の最先端でもあるという点で画期的な入門書だ。素人がコミュニズム(共産主義)と聞けば、中国やソ連あるいは日本の共産党を思い浮かべるのが大半だろうが、本書はそのようなイメージを刷新してくれる。あんなものは、コミュニズムでもなんでもない。むしろ資本主義の一形態(国家資本主義)であり、どっぷり資本主義につかっているというのだ。グッバイ・レーニン!、これが第4章の章題だ。
なぜ中国もソ連も資本主義なのだろうか。それは一般に考えられていることとは異なり、国有か私有かという生産手段の所有の違いが資本主義とコミュニズムを峻別するのではないからである。実は「労働者の搾取による剰余価値生産」(167頁)が資本主義の本質であり、その観点から見ると、国有化されようが国有企業に雇われた剰余価値を生み出す労働者が存在するのだから、ソ連も中国も資本主義だということになる。
この剰余価値というのは、労働者に返ってくるのではなく資本家に吸い取られる分のことである。つまり、平たく言い換えれば、労働者は割りに合わない仕事をさせられているということであり、これが搾取ということになる。それではどうしてこのような構造が生まれてきてしまうのか。そこで重要となるのがマルクスの哲学観である「物質代謝論」という考え方だ。ここらへんは柄谷行人のマルクス観と比較すると大変面白い。柄谷行人の最新著作『力と交換様式』の書評はこちらから。
物質代謝論というマルクスの哲学
『ゼロからの『資本論』』では第一章でマルクスの基本的な哲学観が語られている。これを哲学観だと述べるのは、彼がその体系を普遍的なものとみなしていたっぽいということが読み取れるからなのだが、その哲学観の基礎となるのが物質代謝論だ。
物質代謝というのは、元来化学・生理学の用語で「生体に取り込まれた物質が、多様な化学変化を経て、異なった物質となって体外に排出される過程」(19頁)を指す言葉なのだが、マルクスはその過程を「人間と自然の関係性」(20頁)に当てはめて分析する。例えば人間が家を建てる過程を考えると、この場合「生体に取り込まれた物質」というのが「自然=木々」で、「異なった物質」というのが「家」ということになる。それでは化学変化を起こすのは?というと、それが「人間=労働」ということになる。これは人間と自然との普遍的な関係性を表している。どんな自然もなんらかの形で人の手が加えられることで使える物となる。そして基本的に自然からしか生み出すことはできないのだから、これはマルクスの体系の基礎ということになる。
広い意味での自然への働きかけ、これがマルクスにとっての労働なのだが、この労働によって管理されるのが社会の富だ。社会の「富」というのはとても広い概念で、マルクスの用語では、「一人ひとりが豊かに生きるために必要なものがリッチ(潤沢)な状態」(26頁)を意味する。具体的には水とか空気、コミュニケーションなどもそこに含まれる。私たちは空気を吸い水を飲み、コミュニケーションを楽しみながら生きている。その意味でこれらは富だ。そしてこの富に働きかけるのがマルクスの言う(おそらく広義の)労働で、例えば水に関して言えば、水を飲んだり、蓄えたり、維持したりする活動が労働ということになる。
資本主義に関してはここからが肝心である。資本主義社会では、この社会の富が「商品」になるのである。それは要するに「値札がついて”売り物”になる」(30頁)ということであり、なんでも売買の対象になるということである。もちろん最初から「商品」だったものもあろう(贅沢品など)。しかしそれだけでないものも資本主義は商品に変えていく。そのうちの一つがマルクスが重要視する「コモン」、いわゆる共有財産である。
斎藤氏の説明によれば、生活必需品のようなものは昔はコモン(共有財産)であったらしい。木々や水のようなものはコモンであり、だからこそ貧しい人々も助けあって生きてこれた。しかしこれらが商品となったらどうか。買う必要が出てくる。そこで資本を持つものと持たざる者との経済格差も広がっていくというわけだ。コモンという観点からするとこの「〈コモン〉を解体して、独占」(31頁)することこそ資本主義の特徴なのである。
このように、原理から見ていくと確かにソ連のような国も資本主義だということがわかるだろう。国有化された企業にせよ、その企業自体が成長を続けようとするわけだから、コモンもへったくれもなく経済的な成長が最重要課題とされるだろう。そして共有財産のようなものは国のものとなり消えていってしまう。その意味で資本主義もソ連も変わらないのである。
そしてなるほど、ということはコミュニズムというのはこの商品化が始まる前の次元、即ちコモンを基礎におく思想だということになる。そこでは資本家からの搾取というようなものはあり得ない。というのも共有財産だからである。しかし、どうしてこのコモン=コミュニズムが理想とされるのであろうか。
コミュニズムというユートピアを思い描く
本書を読むと、どうやらマルクスは資本主義以前の社会を理想としていたような印象を受ける。しかし中学社会の授業では、それらの社会がそこまで豊かだったわけではないと教えられてきたはずである。生産力しても機械化されていない時代においては、現代の視点においては無に等しい。貧しい人々だっていたはずだ。どうしてそのような社会が理想のように描かれるのであろうか。
そもそもなぜ資本主義社会は良くない社会として描かれるのであろうか。私たちでもすぐさま思い浮かぶのは、”やめられない止まらない”というかっぱえびせん型の終わりなき商品化と資本蓄積の運動、それに伴う格差や低賃金長時間労働、地球環境破壊という自己破壊的な運動のせいである。一部の人間だけが使いきれない巨額の富によって満たされ貧しい人々も増えていく。また資本主義の発展により自然を簒奪して、よくわからないままに大洪水でも起こして世界沈没とでもなったら元も子もない。しかしそれらを食い止めるようなシステムは資本主義には内在していない。だからよろしくないということである。
しかしそれだけではない点をマルクスは挙げている。いくつか読み取ってみよう。
まずは「物象化」である。これは資本主義社会に人間が振り回される状況のことである。商品が作り出されると「価値」が生じるがその価値がどれくらいのものになるのかはやってみないとわからない。だから作ったものが無駄なものだったり、逆に全然足りないといった状況に出会すことになるがそれには後追いでついていくしかないというように、価値が先行する状況を「物象化」と呼んでいる。物象化は最終的には「経済を回すこと自体が自己目的化して、人間は資本主義経済という自動装置の歯車としてしか生きられなくなっている」(46頁)とういことになり、これが問題だとマルクスは指摘しているのである。
他にも「分業による労働者の無力化」(105頁)が挙げられている。資本主義では分業によって生産効率を上げていくことになるが、分業では「構想」と「実行」が分離してしまう。その方が効率が良いからである。しかし「実行」では誰かが「構想」したものを、機械的に作っていくだけである。結果、この単純作業においては労働者は誰とでも取り替えが効くことになり、仕事を失いたくなければ、不平・不満をぐっと堪えて黙々と働くしかない。「自由な裁量の余地が失われた職場」(107頁)は苦痛であり、単純作業では「人間の労働が本来持っている技能という「富」が、どんどん貧しくなっていく」(110頁)とされる。
なるほど、確かにさまざまな欠点を、それも深刻な欠点を資本主義は抱えているようである。しかしそれらは本当に資本主義の欠点と呼ぶべきものなのだろうか。今度は逆に、マルクスが理想としたコミュニズムの状態を見てみよう。
斎藤氏がマルクスの理想として強調するのが「アソシエーション(自発的な結社)」である。これは「物象化の力を押さえつけるための社会運動」(171頁)であり、具体的には労働組合や労働者政党、NGO、NPOなどが含まれる。これらは自発的な相互扶助や連帯といった下からの支え合いのようなものであるが、お気づきの通り現代の私たちの社会で実践として行われていることもある。
そして、このアソシーエションの核としてマルクスが置くのが「労働者協同組合」である。この組合の大きな特徴は二つで、一つ目が共同出資だということ。これによって資本家ー労働者の従属関係を消すことができる。2つ目は、作るのは贅沢品とかではなく生活になくてはならないものだということ。そこではまた生産性を上げようと努力するのではなく、「労働者の働きがいや地域のニーズを重視する」(210)のを理念とする。
一見するとこのような活動は資本主義の枠組みの外に出ていない。そこには商品(値札のついた売り物)が以前として存在するからである。しかしコモン(共有財産)の領域が広がっていることに着目すべきである。例えば、労働者協同組合では、生産に関する意思決定が組合員同士の間でなされ、生産に必要な知識や手段がコモンになっていく(らしい)。つまりこのような活動は徐々にコモンの範囲を広げていくことで、脱商品化、脱資本主義を達成していくような運動なのだ。
その先に待っているのが、コミュニズムという真のユートピアだ。アソシエーションが広がっていけば、無計画な生産が制限され、「使用価値を重視する社会へと転換する」(211頁)。そして「大量生産や大量消費をやめた使用価値経済では、過剰な広告や頻繁なモデルチェンジ、計画的陳腐化なども不要に」(212頁)なる。残った仕事は「みなでローテーションしながらシェア」することで自由時間を増大させ、一部の人だけが楽しくやりがいのある仕事を独占する一方で、「特定の人がいつも介護や洗濯、料理といったケア労働を強いられるというような社会的分業は廃止され」(212−213頁)る。そして最終地点では来るべき成長コミュニズムが到来する。
こうした大転換の先にあるのが、脱成長コミュニズムです。コミュニズムとは、教育、医療、移動手段などが無償となり、食べ物、衣服、本なども、だんだんとお互いの贈与でやりとりされるようになっていく社会です。また職業訓練、デイケア、子育てのサポートが十分に整備・供給されることで、誰もが自分の能力を全面的に開花させることができる社会です。これこそが、「各人の自由な発展が万人の自由な発展のためのひとつの条件であるようなアソシエーション」なのです(『共産党宣言』)。
『ゼロからの『資本論』』213頁。
しかし、このような究極の社会は実際に成立しうるのか。なるほど、斎藤氏は部分的には資本主義にもコミュニズムの原理は作用していると言う。例えば日常の友人や知人との助け合いはコミュニストそのものである。しかし社会を下支えしているコミュニズムを全面的に展開するのは極めて困難なことだろう。だからといって意味がないわけではない。マルクスは資本主義とは別の形の社会を示しているのは間違いないからだ。
斎藤氏は本書の最後で、マルクスは「革命とユートピアの思想家だ」(228頁)と述べている。そう、マルクスはユートピアを描いたのだ。一切が幸福に満たされる存在しない場所としてのユートピア、これを基礎においたからこそ、世界の終わりよりも資本主義の終わりを考える方が難しいこの時代において意味があるのだ。資本主義の外部を思考する手がかりとして。
ユートピアの錯覚とこれからの未来
ここまで『ゼロからの『資本論』』で描かれるマルクスの根本思想と資本主義の外部としてのコミュニズムについてみてきたことになるが、なるほど体系としてマルクスの思想は一貫している。しかし、はたして彼のいうユートピアは本当にユートピアなのだろうか。
本記事ではあえて『ゼロからの『資本論』』で描かれるマルクスの基本的な世界観(物質代謝論)とそこから抽出される理想(ユートピア)に焦点を当てて読み込んできた。というのもこのような基礎的な世界の状況を置いて、そこから理想を取り出していく作業はまさに西洋哲学の営みそのものだからだ。彼の体系には西洋哲学の伝統が染み付いている。
少し考えてみよう。西洋哲学云々は抜きにしても、彼が現実に理想とした共同体は本当に幸せだったのだろうか。マルクスは晩年ロシアのミール共同体を理想として熱心に研究していたらしい。しかしすでに前節で語ったことであるが、中学校社会程度の知識でもそれを疑うのに十分である。なるほど、助け合いや相互扶助の精神のもとで運営がなされていたのかもしれない。しかし一般的には、そのような共同体は貧困だったと考えられるし、貧困ではなかったにしても、本当に生き生きとした共同体組織だったのかはわからない。そういった疑問は無視して、このような共同体が現実の理想とされるのはどうしてであろうか。
こういった共同体を理想とするには人間性に対するある前提が必要だろう。それは「だれもが有意義に労働に従事することが本質的には可能なはずだ」というような人間観である。言い換えると、人間は状況がよければ、皆やる気を出し、協力しあい、積極的にコミュニケーションをとり、活動するというような人間観である。ある種の性善説であり、楽観主義的哲学である。そうなれば理想だろう。しかし人間の中には怠惰な人間もいるし、協力が苦手な人間もいる。
例えば労働者協同組合では、自分たちで出資し共同経営者となることで「自分たちで主体的、かつ民主的会社を経営するようになる」とあるが、完全な民主主義など当たり前だが存在しない。性別や年齢によって意見の通りやすさは異なる。共同で出資すれば人が主体的になるなどありえないことは何十年か生きていれば十分すぎるくらいわかることである。
またあの書きっぷりだと、あたかも状況がよろしければ皆労働を生き生きとこなすことができると考えていた節があるようにみえるが、労働を面白くないと感じる人の方が多いのが現実だろう。しかもこれはその人が自分に合った労働に巡り合ってないだけだ、というわけではなく、本質的に人間は怠惰であり、暇を欲するからであろう。
つまりマルクスがユートピアを妄想的に現実社会に当てはめているようにしか見えない。マルクスが描くユートピアの住人というのは天国の住人のことだろう。人間がいまだかつてそのような存在だった試しがない。
哲学の歴史を考えても、マルクスのような人間観が後に更新されていくような歴史であった。ニーチェの「力への意志」は「善悪の彼岸」であり、そこでは真善美が同時に出会うような場ではない(ニーチェの概念:ニヒリズム、ルサンチマン、永劫回帰)。人間は根源的に道徳的ではないのであり、常識的な視点から見れば暴力的ですらありうる。またフロイトは社会をある種の抑圧の現場として考えている(フロイトの概念:不気味なもの、無意識)。つまりストレス発散の現場であり、私たちは生まれた時から自分のやりたかったことをできているわけではない。世界で生きることは諦めと慣れと発散でできているのである。
マルクスの哲学には素朴さがある。そして、その素朴さはそれを読解する斎藤氏にも伝染しているようにもみえる。「ワークシェア、相互扶助、贈与」といったコミュニズムの輪を広げてコモンを拡大することが大事だと斎藤氏は述べるが、そのとき市場を完全に否定する必要もないという。商品が全てを覆ってしまうような状況がなくなればいいのだと。しかしそれならコミュニズムは資本主義の枠組みでも可能であるし、名称もコミュニスト資本主義のようなものになるだけなのではないか。
「水」コモンであったが、ここ30年の間に商品化してわざわざお金を払って飲むようになったと斎藤氏は述べる。これが資本主義の商品化という力であると。しかしなぜ元々コモンだったものが商品化されるのであろうか。そうする必要は全くないにもかかわらずである。それは資本主義に毒されているからあらゆるものが商品に見えてきてしまうということなのだろうか。しかし突き詰めて考えてみれば、資本主義以前に資本主義はなかったはずである。結局資本主義が問題なのだろうか。商品化のような欲望こそが人間の一つの本質なのではないだろうか。
おそらくマルクスは違うと答えるだろう。それは資本主義のせいでそうなっているのだろうと。しかしそれだとしたら資本主義は発生しないだろう。儲けたいというのは思うに基本的な人間の欲望なのだ。「各人にはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」というスローガンがマルクスの楽観主義を物語っている。それは人間の本質ではなく、そうなったらいいなという願望でしかない。
というよりも、本当にそんな人間が善良なら、資本主義の枠組みだけで十分なのだ。というのも、金持ちが自律的に貧困層であったりにお金を提供するからである。もちろんここにも搾取の構造があるわけだが、マルクスが考えているように人間は単純ではなく、実際に寄付したりする人もおり金持ちにしたって誰もがそのシステムに巻き込まれているわけではない。
実際斎藤氏が訴えているのは相互扶助や贈与の精神であって、助け合いを達成するための社会システムではない。ここにコミュニズムの限界が示されているように見える。根本的にこの著作で主張されているのは、みんなが助け合いの精神を持てば社会は顧問に満たされより良い社会になるといったことでしかなく、経済システムの別の形ではない。市場は無くならなくても良いし、労働者協同組合も資本主義の枠組み内でうまく成立しているのである。
本書は10万部以上の売り上げを残した傑作である。しかしこれは果たして本書の実力から来る結果なのだろうか。「儲かる物」を商品化する資本主義の過度なビジネス広告のおかげではないだろうか。ビジネス書の棚に置かれ、カバーも新しくすることで実質以上に売り上げを伸ばしたのではないだろうか。「ひたすら売れそうな商品」だから本書は売られているのではないだろうか。人間の基本的なあり方に目を背けては、大量消費社会で消費されるいっときの流行として消え去っていくだけであろう。