哲学とは何か|哲学者による定義をわかりやすく解説|ヘロドトス,ソフィスト,イソクラテス,プラトン,アリストテレス

哲学とは何か|哲学者による定義をわかりやすく解説|ヘロドトス,ソフィスト,イソクラテス,プラトン,アリストテレス

ヘロドトスによる「哲学」の定義

哲学の登場 — 知を愛すること

 まず「哲学= φιλοσοφία 」という言葉から見ていきましょう。

 実は、概念としては名詞の φιλοσοφία(哲学)よりも動詞の φιλοσοσοφεῖν(哲学すること)や形容詞のφιλόσοφος(哲学的な)の方が早く登場しました。紀元前5世紀の終わり頃に動詞・形容詞の「哲学」が使われ、紀元前480年頃にソクラテスの弟子たちのもとで名詞の φιλοσοφία が使われるようになりました。それ以前のタレスのようなイオニアの自然哲学者たちはどうかというと、自分たちのやっていることは哲学ではなく「歴史 ἱστορίη(historyの語源)」だと語っていました。

 φιλοσοφία は 分解すると φιλεῖν「愛する」と σοφία「知」に分かれます。このように φιλεῖν の後ろに名詞・形容詞をくっつけて新しい言葉を作ることはよく行われていました。例えば後ろに ποσία「飲むこと」(「飲むこと」は厳密に言えば ποσίς という名詞なので、φιλεῖν とくっつくときは -ια という形になるという原則があるのかもしれない)をくっつけて φιλοποσία 。これで「飲むのを愛する」となります。そういうわけでφιλοσοφία は「知を愛する」ということになります。そして、この σοφία「知」 という言葉は幅広い意味で使われていましたが、その中に「博識さ、賢さ」というような意味がありました。

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最初の登場 ヘロドトス『歴史』

 ヘロドトスの『歴史』の中にはこんなことを書かれている箇所があります。そこでは、ソロンという人が「他の国を見物をするために、様々な土地を訪れたこと」は「知を愛する(哲学する)ことのゆえに」であったと言われているのです。

そなたの賢者であることは素より、知識を求めて〔哲学して〕広く世界を見物して廻られた漫遊のことも聞き及んでおる。

ヘロドトス『歴史』松平千秋訳、岩波文庫、1971年、28頁[30]

 
 つまり戦争や商業目的ではなく知見を深めるために他の国を訪れることが「知を愛すること」だったのです。これがおそらくアテネでの「哲学」の動詞や形容詞の一般的な意味だったと言われています。

プラトン以前(ソフィスト、イソクラテス)

ソフィストの哲学

 紀元前5世紀中頃にはソフィストの時代がやってきます。その頃には政治的主体であるアテネ市民として、一般的教養を身に付けることが重要とされるようになってきました。そこでソフィストたちはそのための「知」を授けます。それによってその教えを授かったものたちは「哲学した」ことになるのです。つまりその頃の哲学する、ということはアテネ市民として政治に参加する能力を身につけようとすること/教養をつけること/知識を蓄えることといったニュアンスに近いものとなっていました。

 今度は別の観点から見てみましょう。ソフィストの教育の方法は議論でした。議論によって学び手は哲学的になるのです。ではこの議論という方法で一番重要なことはなんでしょうか。それは説得力のある論拠を示すことです。つまりここで教養を身につけるというのは、ただ単に知識を蓄えるだけでなく、議論の中で相手に説得のある根拠を示すことなのです。哲学する、というのは「議論をする」ことであり、哲学的というのは、「簡潔に短く論拠を示すこと」ともなっていたのです。

 そしてその文脈の中で名詞の φιλοσοφία「哲学」が登場してきます。文献上、最初に登場してくるのはソクラテスの弟子の世代たち(クセノフォン、イソクラテス、プラトン)の著作においてです。その頃はソフィストの影響を受けており、もっぱら哲学は「教養」や「学問」という意味を指していたことを窺うことができます。ですから、この哲学という学問の中には「音楽」「天文学」「幾何学」などの意味も含まれていました。それらを解明しようとすることも哲学的なことでした。

 まとめると哲学という概念には、ソフィストの登場以来二つの軸があることになります。一つが「教養をつけること」。これは元々の「哲学=知を愛する」の意味をかなり残しており、哲学と知という軸に沿った方向性です。それがもっと先鋭化されると、単なる教養という意味だけでなく、専門的な学問的探究という意味にもなっていきます。もう一つが「議論をすること」です。これは哲学と広い意味での実践という軸に沿った方向性です。後者はしかし問題も帯びていました。議論はそれ自体正しい知を獲得するためにやるものですが、議論には勝ち負けがつきものです。それゆえその勝ち負けに主眼をおくのも哲学の一種とみなされました。それゆえ、空虚な言葉で若者を拐かし、相手に策略的戦略的に勝利するという哲学のいかがわしさが批判されるようになります。『ゴルギアス』の中で政治家のカリクレスは次のように言っています。

というのは、いいかね、ソクラテス、哲学というものは、たしかに、結構なものだよ、人が若い年頃に、ほどよくそれに触れておくぶんにはね。しかし、必要以上にそれに拘っていると、人間を破滅させてしまうことになるのだ。

プラトン『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫、2014年、139頁[484c]

 「哲学というのはいかがしい」「実践には役に立たない」という観念が定着していきました。そしてそのようにして哲学はソフィストたちの空虚な言葉遊びとして、喜劇や同時代の市民から非難されるようになりました。
そんな中で、哲学界隈内部からも批判が起こっていました。その中心人物であり、哲学の概念を刷新しようとしたのがプラトン、イソクラテスです。彼らが成したのはソフィスト的な知からの脱却、つまりソフィスト的な哲学概念からの脱却でした。とりわけプラトンの場合はソフィスト的な σοφία「知」という概念の理解からの大きな転換だったのです。

イソクラテスの哲学

 イソクラテスは保守的な概念の転換を試みます。ソフィストが考えたように、教養を蓄えることが哲学なのでもないし、そのための訓練や議論が哲学なのでもありません。それらは「魂の鍛錬であり哲学の準備」なのです。では哲学とは何か。

人間の本性は、それをもつことによって何を語るべきか、また何をなすべきかを知る知識を獲得しうるものでなく、したがって私は残された可能性から結論して、憶断によって概してほとんど場合に最善を狙い当てることのできる者を「知者」と認め、そのような実践的な知恵が最もすみやかに獲得される学業に励む人びとを「哲学者」とみなしている。

『イソクラテス弁論集2』小池澄夫訳、京都大学学術出版会、2002年、240頁[270]

 ここで言われる「学業」が何なのかは明言されていませんが、少なくとも重要なのは、イソクラテスがソフィストを批判するのは、彼らがあまりにも「空虚な論」や「誇大な約束」をするからであり、そのようなものを排して「実践的な知恵」を求めるもののみをイソクラテスは「哲学」としていることです。要するにイソクラテスが行なったのは、ソフィスト以来の哲学という概念にはびこった無駄な部分、空虚な部分を拭い落として、残った「意味のある哲学」を抽出することだったのです。哲学という概念を根本的に刷新したわけではありません。
 イソクラテス的な哲学の概念は後世まで残っていきませんでした。おそらくこの考えは当時のプラトンの哲学の立場と真逆のもので、当時からそこまで受け入れられなかったということでしょう。イソクラテス的な「非哲学」に対して、逆にプラトン的な革新的な「哲学」が隆盛を迎えていたのです。

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プラトン

知を得ようと頑張ること

 プラトンはソフィストともイソクラテスとも異なる新たな定義を哲学に与えました。哲学は金のための道具でも議論によって知識を授けることでもありません。哲学は「知を得ようと頑張ること sich-Bemühen um Wissen」(p. 575)なのです。彼はそれを初期の著作でソクラテスに語らせています。

・・・知恵を愛し求めながら〔哲学しながら〕、そして自分自身をも他の人たちをも吟味しながら、生きていかなければならないというのに、その場合にもし私が死を恐れたり、何であれ他の事柄を恐れたりして、持ち場を放棄するとしたならば、まさにそれはとんでもないことでしょう。・・・なぜなら、私は神託にしたがわず、死を恐れ、知恵がないのに知恵があると思っており、神々の存在を認めていないことになるからです。

プラトン『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』「ソクラテスの弁明」、朴一功 西尾浩二訳、京都大学学術出版会、2017年、94-95頁[28e-29a]。

 まずいっておかなければならないことですが、ここにはよく言われる無知の知の前提があります。「頑張る=哲学する」のは哲学者が無知の状態にいるのを知っているからです。それゆえ哲学者は知を求めます。ですからここで求められる知はもはやギリシアで一般的な意味での知ではありません。これはつまり最善知、根源知のことです。この知に向かって努力することが哲学なのであって、この知を持っていることが哲学なのではありません。しかもこの知に向かう努力は生きることと同じなのです。というのも「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのに知恵があると思っていることにほかならない」(同書、95頁[29a])からです。ソクラテスの登場によって「哲学=知を愛すること」という概念が善く生きることと同じ意味で扱われるようになったのが見て取れます。

哲学は死ぬことなのか

 (『ソクラテスの弁明』などの)初期の対話編ではそこまで哲学という概念が重要視されることはありません。プラトンの中で哲学が特別な概念として重要視されることになってくるのは中期からです。ここではまた『ソクラテスの弁明』での哲学概念をさらに発展させたような意味を見ることができます。
 『パイドン』を見てみましょう。かなり驚くべき記述があります。次の引用はソクラテスの言葉です。

すなわち、本当に哲学にたずさわっている限りの人々は、ただひたすらに死ぬこと、そして死んだ状態にあること、以外のなにごとをも実践しないのだが、このことに恐らくは他の人々は気づいてはいないのだ。

プラトン『パイドン』岩田靖夫訳、岩波書店、2006年、29頁[64a]

 ソクラテスによれば、これが本当の哲学だということなのです。哲学者は死を望んでいるのであり、その定義上望むべきものなのだということなのです。哲学と死ぬことがどうして関わってくるのでしょうか。哲学と死はどんな関係なのでしょうか。このことに深く関係してくるのが魂と肉体との関係です。ソクラテスは問いかけます。肉体において我々は欺かれやすいのではないか。しかし哲学は真理を目指すものであり、それならば肉体から魂を解放すべきではないのか、と。そのようにして魂は純粋な思惟に到達することになりますが、その時に肉体は欺くものとして破棄されなければなりません。すると哲学者の最も善き状態というのは肉体から魂が解放された状態ということになるので、死こそが最も善き状態ということになります。このような意味で哲学することは死ぬことなのです。

 このソクラテスの激しい主張は明らかに地上の束縛と天上の至福といったような二項対立の価値観が含まれています。「人間に可能な知と完璧な神の知という区別」(p. 578)はこれを原型としてキリスト教哲学からデカルトまで、さらには現代哲学にまで影響を及ぼし、哲学の一つの象徴制度となっています。

哲学と絶対知

 さて、この二元論と哲学は無知の知の中で神々のみぞ知る知を追い求めるのだ、というような哲学の考え方は哲学の厳密化、徹底化を意味します。同じく中期の著作である『国家』では、これまた当時のギリシア市民には通常認められないような哲学の意味をプラトンは表明しています。 

哲学者たちが国々において王となって統治するのでない限り・・・、あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつ十分に哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、・・・国々とって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だと僕はおもう。

『プラトン全集11』田中美知太郎 藤沢令夫訳、岩波書店、2005年、394頁[473c-d]

 『プラトン全集11』の注でも述べられていますが、この見解は「常識はずれ」なものでした。思弁にふける哲学は政治や社会の現実の事柄には通用しないといつも批判されてきたのです。「実情はといえば、哲学を志して、若い時に教養の仕上げのつもりでそれに触れたうえで足を洗うということをせずに、必要以上に長いあいだ哲学に時を過した人たちは、その大体数が、よしまったくのろくでなしとまでは言わぬとしても、正常な人間からほど遠い者になってしまう」(『全集11』「国家」427頁[487c-d])。哲学は実生活上に何の役に立たないという現代にも通じる価値観はすでに遠くギリシアの頃からあったわけです。まさにそれはプラトン的なイデア論という思弁にも当てはまるものでした。

 プラトンはそういった批判に対して 哲学という概念を極限まで押し進めることで対処しようとします。つまり哲学というのは単なる教養として身につける知識のような相対的な知識(ドクサ)をではなく絶対的な知を追い求めているというのです。つまりこれは彼のイデア論におけるイデアのことであり、究極的には「善のイデア」のことになります。しかもこの絶対的な知は、単なる教養では捉えきれないので「大衆は哲学者たり得ないということ」(『全集11』「国家」443頁[494a])になります。哲学をすることができるのはごく限られた才能の持った一部の人だけであり、それゆえ哲学はあらゆる学問よりも上位の究極の学問ということになります。ここに到達する方法がプラトンのいわゆる「弁証術」です。哲学は「旅」とか「道程」になぞらえられます。哲学の目的は『国家』の洞窟の比喩で言われていたように、「何か夜を混じえたような昼から転向させて、真実の昼へと向け変えること・・・、それがつまり、新実在への上昇ということであり、これこそまさにわれわれが、まことの哲学であると主張するであろうところのものなの」(『全集11』「国家」508−509頁[521c])です。ここまでくると現代哲学でいういわゆる第一哲学(形而上学)と呼ばれるような哲学の形が透けて見えてきます。

哲学と政治(実践)は切り離されるべきか

 しかしながら諸学の学としての哲学は依然として思弁的であり、実生活や政治に有用でないように見えます。それにもかかわらずプラトンは『国家』で示しているように哲学と政治を結び付けます。プラトンからすれば哲学を政治に生かすことができるのです(当時の一般的な考えからしてみれば「グロテスク」(p. 579)な考え」)。すると仮に哲学者が政治家同様に意味のある存在ならば、実生活に役に立つ存在とされた政治家、あるいはソフィストたちとはどこが違うのでしょうか。

 ここで興味深い語り口をプラトンはしています。まずソフィストは哲学者と対立するものとして語られます。哲学者は真理を語りますが、ソフィストは仮象を語ります。それゆえ、ソフィストは哲学者からは遠い存在として語られているのです。それが『ソピステス』で詳しく検討されています。それに対してプラトン後期の著作では『ポリティコス』において(真の)政治家はまさに哲学者そのものとして語られています。ここではより一層ソフィストが堕落した存在とみなされていることが明らかとなります。真の知識を持っていない政治家は「各種のソフィストのうちのもっとも大仕掛けなソフィストどもにほかならぬ」(『プラトン全集3』「ポリティコス」水野有庸訳、岩波書店、1976年、349頁[303c])と辛辣に言われます。では政治家が持つべき真の知識とは一体何なのでしょうか。「戦闘」「説得」「裁判」などの能力や知識は真の政治家が持つべき能力・知識ではありません。真の政治家が持つべきなのはそれらの全ての知識を統括する「全体をまとまった一枚の織物となるように織りあげていく知識」(『全集3』「ポリティコス」359頁[305e])なのです。ここでは哲学者については言及されていません。にもかかわらず、この「織りあげていく知識」が本来は哲学者に要求されるべき知識であることは明白です。要するに、真の政治家は真の哲学者は本当は同一人物なのです。よく言われる哲人王の思想もここにあります。哲学者は政治から切り離されることは決してないのです。

 最終的に、プラトンの哲学概念は、おそらくプラトンの生きていたギリシアの状況と彼の思想の発展が相まって、全く独自の哲学概念にまで到達しました。要するにプラトンにおける哲学概念は「純粋に実践的であると同時に純粋に思弁的なものとして理解される」(p. 581)のです。ソフィストの時代からプラトンの時代まで、実践的に役に立つのか、実用的なのかという批判が哲学になされていました。イソクラテスはそれに対して、哲学とは思弁的なのではなく、実用的なのだという応答を提示していました。プラトンはそれを超えていきます。プラトンにとって哲学は最も思弁的な活動でありながら、最も政治的な、実践的な活動でもあるのです。

 この哲学の思弁的側面と実践的側面という二つの側面は大抵切り離されて考えられます。例えばアリストテレスがそうであり、彼は哲学の実践的側面を強調することはありませんでした。逆に言えば、プラトンの哲学の特徴はこの両者の統合というところに極まるのです。偽作と言われていますが最後に『恋がたき』の一節を引いてみたいと思います。ここでは哲学の思弁的側面と実践的側面の統合がよく現れています。哲学者は五種競技者のように、幅広く専門的な知識を取りまとめるような人物のことを言うのではありません。なおかつ単に思弁的な技術を持つ人というだけでもありません。逆に実践的な側面までも兼ね備えた超人的な人物のことを指しているのです。

してみると、どうやら、王、僭主、政治家、家長、主人、それに思慮深い人と正義の人、かれらは、皆同じだということになるようだ。そして王侯の術、僭主の術、政治の術、主人の術、家長の術、それに正義と思慮の徳、これらも、ひとつの術だということになる。

『プラトン全集6』「恋がたき」田之頭安彦訳、岩波書店、2005年、206頁[138c]

 この「皆同じ」と言われているのが哲学者のことであり、「ひとつの術」と言われているのが哲学者の術のことです。最終的に哲学は全て、政治的な実践だけでなく、家政に関する事柄の知をも統括します。要するにプラトンは哲学を考えるときに実践を分けて考えなかったということです。しかしながらそのようなものが可能なのでしょうか。このような意味での哲学者は存在しうるのでしょうか。哲人王は現実に現れるのでしょうか(哲学を学んだローマ皇帝マルクス・アウレリウスのような人物もいますが)。『国家』第六巻を読んでみるとこの問いに関してかなり皮肉めいた調子で描かれているのが窺えます。そもそも、哲学者は選ばれたる少数しかなり得ません。しかしながらこの選ばれたる少数は大抵の場合世間から役立たずのろくでなしとみなされてしまいます。それゆえ善なる国家を導くためには、哲学者の王だけでなくそれに従う善き市民が必要となります。そして最終的な結論はこうなります。「われわれの案は、もし実現できれば最善のものである、しかるにその実現は、困難であるけれども決して不可能ではないと、こういうことになるようだ」(『全集11』「国家」464頁[502c])。不可能ではないといっても、この実現はプラトンの「理念」のようなものです。この意味でプラトンは思弁の限界、すなわち「理念」にまで到達しながら、何とかその理念を現実に接続させようと試みた人物とも言えるでしょう。

 哲学のプラトン的理解は現代の哲学の一般的な理解の土台を形成していますが、そのころのギリシア市民の哲学に対する、役に立たないではないか、という違和感や胡散臭さも現代に通じているところがあります。哲学は誕生の時から社会や世間、大衆の外部の存在でもありました。プラトンは哲学の思弁を守りながら何とか世間と調停しようと試みたわけですが、これは時代によって、哲学者によってどのような試みをするかがはっきりと分かれるところです。哲学解釈における内部の問題(思弁)だけでなく、外部との問題(実践)との関係の中で哲学概念は発展を辿るのです。

アリストテレス

暇の徳としての哲学

 どうやらアリストテレスは、人間が人生の最善の目的として暇を求めそれに近づけば近づくほど堕落すると直感していたらしいのです。戦争や仕事で忙しい時は良いけれど、暇になったら余程の節度がないと幸福になれない。そこでその暇の徳として役立つのが哲学だというのです。  

ところで勇気と忍耐は仕事にとって必要であり、余暇のためには哲学が必要であり、節度と正義はどちらのときにも必要であり、平和に暮らし、余暇を過ごすときにはいっそう必要である。というのは、戦争は正しさと節度を保つことを余儀なくさせるが、平和に伴う享受つと余暇の暮らしは、人々を必ずや傲慢にするからである。  

『アリストテレス全集17』「政治学」神崎繁、相澤康隆、瀬口昌久訳、岩波書店、2018年、402頁[1334a]

 流石の慧眼です。つまり余暇をもてあますのではなく余暇を楽しむための理論的活動としての哲学を考えているのです。哲学は体を動かすことではなく頭を動かすことなのです。この「理論的活動」という部分を強調するのは、この哲学の理論的側面をどんどんと先鋭化させていったのがアリストテレス的哲学概念だからです。

様々な「哲学」の意味

 しかし、そうは言っても、他にもさまざまな意味合いで哲学という概念を彼は使用しています。まず次の例を見てみましょう。     

今述べられた知恵の愛求〔哲学〕についで、プラトンの哲学が生まれた。これは多くの点で彼らの哲学に従っていたが、しかしまた、あのイタリアの徒の哲学とはちがった独特な点をもっていた。

『形而上学(上)』出隆訳、岩波文庫、1959年、46頁[987a] 

 これは現代人の我々にも馴染みのある使用法ではないかと思います。要するにプラトンの哲学、イタリアの哲学(パルメニデスやピタゴラスなどイタリアで活躍したソクラテス以前の哲学者達のことだろう)と「哲学」を歴史的な観点から分類するためにここでは使用しているのです。もっと狭義の意味で使うとどうなっていくのでしょうか。 

 これに対して、クレタ人の共同食事の制度はもっと公共的な性格をもっている。というのも、公有地で生産されるすべての農畜産物とペリオイコイが納める年貢は、一方で神々と公共事業のために使用し、他方で共同食事のために使用することになっているため、女も子どもも男もみな公費で養われるからである。また、クレタの立法者は質素な食事を有益なことと考えて、そのためにさまざまな工夫を凝らしている[哲学を行っている(πεφιροσόφηκεν)]。

『全集17』「政治学」、114頁[1272a] 

  「工夫を凝らしている」という箇所には φιρόσοφεω  という動詞の現在完了形が使われています。これを訳者は日本語的に違和感のないように「工夫を凝らしている」と翻訳しているわけです。つまりここでの「哲学する」という言い方は「・・・について哲学する」という他動詞的な用法になっていることになります。ここの文章を含む段落を要約すると、ここでは「共同食事の制度」が考えられていて、その食事の制度がラコニア人よりもクレタ人の方が優れているのは、あれやこれやと制度が良くなるように工夫を凝らしたからだ、と言われているのです。つまり、「共同食事の制度について哲学する(工夫を凝らす)」という風に、その哲学する対象を見定めて他動詞的に使用しているのです。だから、理論的活動に限定されてはいるけれども、制度や仕事、食事などその他諸々のことについて具体的に考えることもアリストテレスにしてみれば哲学の一種なのです。それでは次の例を見てみましょう。

 何事を研究するにしても、その実用的な側面だけに目を向けるのではなく、哲学的に問題を考察しようとするものとにとっては、いかなる点も見落としたり省略したりすることなく、それぞれの事柄についての「真実[ἀλήθειαν]」を明らかにすることがふさわしいことなのである。

『全集17』「政治学」150頁[1279b]  

 「工夫を凝らす」だけだったら制度を改善してそれぞれうまく処置すればそれで良しということになるでしょう。しかし「哲学」はただ制度を改善することを目的とするような活動ではありません。哲学の目的は「真理を明らかにすること」なのです。これを解明することが根本的に哲学の目的なのです。実践を目的として理論的に探究するということが哲学なのではなくて、理論的に絶対的な知(真理)を追い求めるのが哲学なのです。

プラトンからの離反(哲学と政治的実践は切り離される) 

 しかし、「真理」「真実」を追い求めるのが哲学であり、しかもそれは理論的に知的に探究するのが哲学であると主張するならば、それはプラトンの哲学と何ら変わらないのではないか。要するにプラトン的「イデア」を追い求めるだけではないか、という風になってしまいます。しかしこの哲学の「理論的側面」の徹底化によって逆にプラトンから離れていくのです。

 哲学することは王にとって必要でないだけでなく、かえって妨げとなる。むしろ、なすべきことは本当の哲学者たちと交わって、その言葉にしたがい耳を傾けることである。なぜなら、その統治を言葉によってではなく、善き行為によってみたしたことになるからである。

『アリストテレス全集20』「王であることについて」岩波書店、2018年、123−124頁[62] 

  痛烈なプラトンに対する批判です。プラトンが哲人王を考えたのは、理想としてもし哲学者が王になればそれが最も良き状態を生み出すからです。それが逆にアリストトテレスによれば「妨げ」となってしまうのです。  

 プラトンはアテナイ出身の貴族でありました。当然政治に積極的に影響を及ぼせる身分であり、シラクサに行って理想国家を実現しようとするあたり、プラトンの政治に関する熱意は相当なものであったと推測できます。逆にアリストテレスはスケダイロスというところの出身で、ここはマケドニアの勢力下に置かれていた都市でありました(マケドニアの王様にはアレクサンドロス大王がおり、その家庭教師をしたことがあるというのは有名な逸話です)。当然、政治的な出世を望めるはずもなく、それゆえ政治的実践に関してはそれほど興味を注げなかったのではないかと言われています。プラトンの熱意は、アリストテレスにしてみれば、熱狂であり、狂気に映ったかもしれません。

 アリストテレスは政治的実践と哲学を切り離しました。政治的な善に関して言えば、それは実践なのだから、その実践においてなされるべき「こと」が重要なのであって、そのなされるべき「理由」が重要なのではないと述べています(『ニコマコス倫理学』1095b参照)。では政治的実践と切り離された哲学はどこに向かっていくのでしょうか。

テオーリアとしての哲学

 哲学は理論的な活動であるということは先に示しておきました。アリストテレスによれば、この理論的な活動としての学が「第一の原理や原因を研究する」(『形而上学(上)』28頁[982b])学問であるということです。「理論的」ということでもって、アリストテレスは「詩的」「実践的」から区別しました。言い換えれば「詩的哲学」とか「実践的哲学」といった類のものはアリストテレスからしたらあり得ないことなのです。ありうるのは「実践的な事柄についての理論的哲学」なのです。だんだんと厳密になってきたが、それでは理論的な哲学とは何なのでしょうか。『形而上学』では理論的な学としての「自然学」「数学」「神学」のあり方を説明した後次のように述べています。 

 さてこのようにして、三つの理論的な[θεωρητικαί]哲学があることになる。すなわち自然学と数学と神学とである。

『形而上学(上)』217頁[1026a]  

 やっと「理論的」(テオーリア[θεωρία]の形容詞形。実は「観想(観照)生活」などと言われるときのその「観想」はテオーリアの翻訳なのです)という言葉を登場させることができましたが、少し驚きの事実です。本当のところは、哲学は理論的学問である、というのではなくて、理論的学問は全て哲学である、ということなのです。「理論的」であることそのものが哲学なのです。アリストテレスは、このうち「数学」(特殊な実在における普遍的なものを探究する学問)を「第二の哲学」と、「神学」(不動の実在における普遍的なものを探究する学問)を「第一の哲学」と考えました。そして最終的に、この「神学」の対象となる存在(永遠不滅の不動者)が存在するならば、それを探究することが哲学の主体である人間にとって最も価値のあることなのであると考えました。そしてこの最もなすべき探究が、人間にとって最もなされるべき探究である限りにおいて、単に学問的であるばかりでなく、倫理(善)的な生活とつながっていくのです。

 したがって、知性は、人間を超えて神的なものであるとするならば、知性(ヌース)に即しての活動にもっぱらな生活もまた、「人間的な生活」を超えて「神的な生活」であるとしなくてはならない。ひとは、しかしながら、「人なれば人のことを、死すべきものなれば死すべきもののことを知慮するがよい」という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、「自己のうちなる最高の部分」に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。

『ニコマコス倫理学(下)』高田三郎訳、岩波文庫、2009年、227頁[1177b]  

 哲学が最終目的にまで到達したときに、反ソクラテス的、反プラトン的なアリストテレス独自の姿勢が一段と良く見えてきます。ここで言われる知性による「神的な生活」はプラトン的な政治的実践による生活は含まれていません。これは「理論的」生活のことであり、いわば自らの内にある神的な部分をまなざすだけの「観想生活」のことなのです。またそれならば、「死ぬことが最善」ということもないのです。なぜなら、我々の魂のうちに「最高の部分」が宿っているからであって、我々の外部の何か天上界のようなところに「最高」なものがあるわけではないからなのです。

 ここまで見てくると、アリストテレスにおける「哲学」というものがどういうものか大まかに知ることができました。まずアリストテレスにとって「哲学」という言葉は幅広い概念です。「哲学=知を愛する」という意味をよく含んでおり、個人(プラトン)や集団(イタリアの徒)の思想や単純に何らかの知的活動を指す場合があります。その場合は、翻訳者は文脈を考慮して「知を愛する」とか「工夫を凝らす」という風にうまく訳出しています。狭義の意味になると、「哲学」は理論的学問のことを指すようになっていきます。特徴的なのは哲学という独立した学問があるのではなくて、アリストテレスにとっては、理論的学そのものが哲学だということです。そしてそれらが「自然学」「数学」「神学」という分類されます。「知を追い求める」という意味ではプラトンの哲学概念とさほど変わらないでしょう。ですが、実践は別にして、理論的活動としての哲学の意味も微妙にニュアンスが異なっており、アリストテレスが哲学の目的を知の獲得自体としたのに対し(「哲学が、我々が考えるとおり、知恵[σοφία]の獲得であり所有であるのであれば・・・」(『全集20』「哲学のすすめ」70頁[33(B53)]))、プラトンは知の探究そのものに重きを置きます(例:無知の知)。だからプラトンの場合、大抵の場合は知を獲得できませんし、そもそもそういった知は神や英雄しかたどり着けない、といったことまで言うのです(『ティマイオス』参照)。アリストテレスの場合は原理的に獲得できるのです。なぜなら神的なものは魂の「内に」あるからです。先に引用した『ニコマコス倫理学』の続きの文章ではこうなっています。「ところで人間に固有なのは、知性(ヌース)に即しての生活にほかならない。まことに、人間は、彼のうちにおける他のいかなるものよりも、このものであるわけなのだから-。したがって、こうした生活が、また最も幸福な生活たるのでなくてはならない」(228頁[1178a])。我々の内にある良き部分を良く活用すること(哲学すること!)が人間にとっては最善なのです。

 すでに政治(実践)に対するプラトンとアリストテレスの相違については述べましたが、先のように考えると、政治(実践)に対する態度は驚くほど錯綜しています。プラトンは政治について語る段になると、彼のいう理想は哲学によって実現しうると行って熱意を注ぎます。アリステレスは人間にとっての最善の部分(哲学)を行使しても理想国家など作れませんし、逆に良い国家を作るのを妨げることにもなります。というのも哲学は理論的学でしかないからです。プラトンは哲学の対象をあらゆる物事にまで拡張しました。アリストテレスは詩的、実践的と区別された、理論的な学に哲学を制限しました。なぜプラトンは明らかにアテナイ市民には受け入れらないところまで(哲人王などグロテスクな考え!)哲学概念を拡張したのでしょうか。逆にアリストテレスは師匠に従わず、なぜ冷めた視点で哲学を制限したのでしょうか。ここは彼らの実存の問題でしょう。何にせよこのようにしてアリストテレスはプラトンから離反し、独自の哲学概念を形成していったのです。

参考文献

 Hrsg. Joachim Ritter / Karlfried Gründer, Historisches Wörtebuch der Philosophie 7, Schwabe & Co.AG, Basel, 1989. 

*文中に出てくる参考文献を明記していない頁数はすべてこの著作の頁数である。
*引用文中の〔〕は筆者の補足である。

こちらは哲学用語特集 – 〇〇とは何か – に収録されています。こちらもぜひご覧ください。

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