概要
「YES-YES-YES」は1982年に発表された日本のバンドオフコースの24枚目のシングル。
オフコースはほかに『言葉にできない』、『秋の気配』などがある。
音楽はほかに米津玄師『地球儀』、きゃりーぱみゅぱみゅ『きゃりーANAN』、くるり『奇跡』、スガシカオの『奇跡』、ラサール石井『おいでよ亀有』、和田光司『Butter-Fly』、Chara『ミルク』、米津玄師『Lemon』、RADWIMPS 『魔法鏡』などを解説している。
解説
分断された「僕」と「君」
「YES-YES-YES」はオフコースの中でも屈指の名曲でありながら、歌詞の解釈が多様にとれるため意味を理解するのが難しく、さらには途中で挿入される車のクラクションに被って歌詞にない女性の声が聴こえるという曰く付きの曲である。
名曲と呼ばれながらも視聴者の理解を阻もうとするこの曲の歪さは、すでに題名に現れている。「YES-YES-YES」。本来ならば一回で済むはずの「YES」が三回も繰り返されるこの題名は、強い肯定や同意を表現しているものではない。むしろ相手に強要するように、自分に言い聞かせるように、そして消え入るように発する「YES-YES-YES」なのだ。その証拠に歌詞では「YES-YES-YES」ではなく、「YES-YES-YES……」となっている。この曲は「YES-YES-YES……」という過剰な肯定を隠れ蓑に「何か」を隠している。その「何か」とは何か。
君が思うよりきっと僕は君が好きで
でも君はいつも そんな顔して
『YES-YES-YES』歌詞
一人称が「僕」であることから男性だと思われる語り手は、冒頭から「君」への愛を告白するが、「君」は「いつもそんな顔」をしている。ここからだけでも分かるように「僕」と「君」の関係は上手くいっていない。「僕」は「君」を「好き」なのに、「君」は「僕」を好きではない、という非対称の関係が存在している。だがここで歌われているのが、男性の純愛と女性の無関心だと考えるのは早計である。何故なら次に続く歌詞が「あの頃の僕は きっとどうかしていたんだね」と、過去の「僕」の後悔を匂わせているからだ。「僕」は「あの頃」と呼ばれる過去に、「君」に不快な思いをさせて、それによって「君」の心が離れてしまった。「君はいつも そんな顔して」いるのは、「僕」が告白しているように、「どうかしていた」「僕」のせいなのだ。
しかしこれに続くのは「失うものはなにもない 君の他には」という、これまでとは真逆の言葉であり、最初の言葉「君が思うよりきっと僕は君が好きで」と同質のものになる。つまりこの曲の全体を貫くのは、「僕」と「君」は引き裂かれであり、過去の「僕」と現在の「僕」の分断である。
天邪鬼と自己陶酔したロマンチック幻想
この引き裂かれは、曲の全体を貫く一つのテーマである。明らかに「僕」と「君」の関係が上手くいっていないにも関わらず、「僕」はサビで「僕のゆくところへ あなたを連れてゆくよ 手を離さないで」と歌うが、その言葉は「君」に届いているのだろか。
この不一致が最も顕著に現れるのは、二番のメロディー「君の嫌いな東京も」から続く一連の歌詞である。おそらく「君」が嫌っている東京を「僕」は好いているか、もしくは、東京に住んでいる。それでも「東京」を「嫌い」という「君」に、「秋はすてきな街」なんだぜ、と応答してみても虚しさは増すばかり。何故なら「君」が嫌っているのは、「僕」が住み好きでいる「東京」なのだから。そのことを知っている「僕」は、すぐさま「でも」と続ける。東京を「僕」が好きで「君」が嫌いと意見が正反対に分かれても、「でも大切なことは ふたりでいること」なのだ。しかしその言葉ですら白々しい。当然のことだが「ふたりでいること」が「大切なこと」と感じられるのは、相手のことを好いてる側だけなのだから。
結局「僕」と「君」の不仲がもたらしたのは、自己陶酔した「僕」の歪んだロマンチック幻想と、「天邪鬼な性格である。「どうかしていた」と自ら告白するほどのことを過去の「僕」はしたのに、現在の「僕」が「君が思うよりきっと僕は君が好きで」と歌うのは、「君」との関係が相対的なためである。「君」が近くにいるときは「君」から離れようとして、「君」が遠くにいるときは「君」に近づこうとするその天邪鬼な性格が、「失うものはなにもない 君の他には」などというロマンチックな男性の妄想を可能にする。ただしそこに「君」はいない。「君」が現実に側にいないだけでなく、「君」のことを思いやり「君」の立場で考えていないという意味で、「僕」の思考に「君」はいない。あるのは都合の良い「君」と、思いを伝えるだけでの一方的な関係だけだ。そしてその「君」も「僕」の思考の中だけにしかいないという点において、この歌詞には「僕」だけしかいない。
考察
偽るためのYES-YES-YES——心に灰を
唯一「君」の声が聞こえてくるのは、「YES-YES-YES…… ……もっと大きな声で」の間にある車のクラクションのなる場所である。そこでクラクションの騒音に掻き消されながらも、どうにか聞こえてくる女性の声は「ねぇわたしのこと好き?」と問いかける。歌詞にない女性の声。その声は、「僕」しかいない歌詞に突然現れ、「僕」を困惑させる。男に都合の良い妄想から排除された「君」の声は、当然「僕」に届くはずがない。だから「……もっと大きな声で きこえない きこえない」と訴えるが、聞こえないのではなく、そもそもが聞こうとしていないのだ。
そしてここを境に、「僕」は更なる妄想へと取り憑かれる。離れていく「君」をそれでも愛し続ける「僕」だけでなく、「振り返らないで」消えていく「君」すらも、ロマンチックの対象として崇めるのだ。そしてこれは君を捕まえたいという願いのコインの裏表である。だからこそ離れていく君を「すてきだよ」と崇めることと、「ぼくのゆくところへ あなたを連れていくよ」という希望が、正反対の意味を持ちながら並列されるという、一見すると矛盾した歌詞が成立するのだ。
そして歌の最後「あなたを連れていくよ」は3回も繰り返される。繰り返しになるが、これは「あなた」に対する宣言でも、愛の告白でもなく、離れていく「君」をそれでも愛するという自分に酔った「僕」のエゴイスティックな妄想の発露である。
だが、そこまで「僕」を悪く言う必要も、実はない。何故なら「YES-YES-YES……」の「……」が示すように、「僕」は無意識にしろ意識的にしろ、このことにすでに気付いているからだ。「僕」は手に入らないものを身勝手に掴もうとして、エゴイスティックな妄想に浸っている自分を理解しながら、それでも自分を慰めるために「YES-YES-YES」と、そして「あなたを連れていくよ」と繰り返し自分に言い聞かせる。そうやって「君」がいない世界で、自分でしか自分を慰められない「僕」に、これ以上鞭打つ必要はない。人と別れ絶望の淵に立たされたとき、誰もが自分を安心させてくれる妄想で自らを偽るのだ。そして「僕」が幻想の「君」のから「手を離」したとき、そこには「君」ではなく、後悔と記憶と愛の灰が残るだう。