誰が罹るかはじめから決まっているとしたら——カレル・チャペック『白い病』評

誰が罹るかはじめから決まっているとしたら——カレル・チャペック『白い病』評

あらすじ : 「白い病気」の年齢制限

 『白い病気』は、迫り来る未知の感染症と戦争を主題にした、チェコの作家カレル・チャペックの代表的戯曲のひとつである。E. A. ポーの「赤死病の仮面」やアルベール・カミュの『ペスト』などと並ぶ感染症文学の代表的作品でもある。新型コロナウイルス感染症の蔓延にともなう関心の高まりもあってか、2021年に岩波文庫から新訳も出た(阿部賢一訳。なお本稿での引用は、『チャペック戯曲全集』の田才益夫訳から)。

 「黒い病」と言えばペストのこと。それに対して今回は「白い病」。その全容が明らかになるまでのごたごたは、いかにも2020年初頭の人類のようすを思わせる。しかし、そんな新生の病がどんなに恐ろしいかと思いきや、「白い病」の特徴のうち本作の構造をなによりも規定するのは、いささか拍子抜け(?)なことに、50歳以上の人しかかからないという謎ルール、病のターゲット選びにかけられた厳しい<年齢制限>なのである。

 感染症と戦争をめぐるあれこれが絡み合って展開する本作では、富、社会的地位の向上、軍事産業、ナショナリズム(それぞれ顧問官、父、元帥、クリューク男爵などの登場人物が体現する)といった超越的な価値が、善良な医師ガレーンの奉じる平和主義と対立する仕立てになっている。しかし前者が最終場に至る直前までジリジリと後退させられるのは、単純に前者のグループに属する人物たちが「白い病気」に感染することによって、畢竟、彼らが50歳以上の高齢者であることによるに過ぎない。

 ガレーン医師が、自分だけが治療法を握っていることをテコにしておこなう交渉は、物語にサスペンスを与えているのだが、第3幕「元帥」に至ると彼はほぼ登場しなくなって、代わりに元帥を戦争放棄へと説得するのは彼の娘とその夫という若い世代である。ここに若いカップルがガレーン医師と共有するヒューマニスティックな良心を見て取り、それをもってある種の希望の表明と解釈する人もいるらしいのだが、元帥が命を捨ててでも実現しようとする戦勝、拡張主義の野望を「左様でございます」の連発で退けてしまう若い夫婦の振る舞い(特にクリューク男爵の様子)は、世代的な厭世気分や、年長世代のもつ超越的な価値への共感の欠如による「冷めた」反応として演出することも可能であるように思える。そもそも世代間対立的な枠組みは、第1幕第3場の父、母と息子、娘の、『ロボット』を思い起こさせる労働力と労働機会をめぐる会話でわかりやすく設定されており、父が科学の進歩や「国家の栄光」といった理念を信じているのに対して、息子、娘は白い病気による労働人口の減少によって自分たちの雇用機会が増えれば良いと冷ややかである。

 なお、この若い世代の現実主義が結果として社会をよい方向に導くかもしれないという期待は、最後の街路の場面で熱狂的に元帥万歳と叫んでいる人々の代表が「息子」であることによって、あっさり封じられている。元帥は最後に「白い病気の患者」を「もう一つの違った民族」と呼び「この連中と仲間にならんといかん」(292)と言っているが、結局のところ種々のイデオロギー的な対立が若者と老人という身も蓋もない二項対立に還元され、しかも両者の関係はときに反転しつつ反復されていくのだ、というのがこの戯曲のそれこそ現実主義的な一つのビジョンであるように思われる。

 アメリカの批評家スーザン・ソンタグは、病がいかに隠喩化されるかを論じた著書『エイズとその隠喩』のなかで、「白い病気」の基本的な隠喩的機能を「報復」としている。実際「報復」される価値は設定上50歳以上の罹患する登場人物たちによって担われているため、起こることはここでの議論と矛盾しないのだが、しかし疫病による特定のイデオロギーへの「報復」は、50歳以上の全ての人に分け隔てなく訪れる感染へとスライドすることで、微妙に空疎化されているように思われる。息子が「元帥万歳」と叫びながら元帥と同じように罰せられないのは、ただ若いからにすぎない。若者と老人の二項対立の持つこの身も蓋もなさによって、チャペックの作品は実際のところ、ソンタグが言うよりもややカミュ的な非隠喩性、不条理性に近い位置にある。

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身体の問題ではない病

 さらに言えばこの〈年齢制限〉は、感染の捉えかたにおいて身体性を薄める効果をもたらす(病気になるのは身体にほかならないのだからおかしな話なのだが)。顧問官の「予防ですと? とんでもない、絶対に不可能だ!(…)誰もがだ、四十歳をすぎれば、常に、誰もがこの病気にかかる……可能性がある。そうなる運命なのだ」(240)という発言に見られるように、それは個々の身体的な条件とは関係のない、ある決定論的な運命となるからだ。

 むろん一方では、感染者の身体に対する嫌悪感が多分に表現され、実際に感染した登場人物たちの死への恐怖が散々語られてはいる(だからこそガレーンの交渉が成立する)。しかし、記者たちが患者病棟を気楽に視察に行き、元帥が男爵に握手を求めてしまうように、自分が白い病気にかかってしまうこと自体への恐怖心はあまり前景化してこない。隔離という対応が言及されてはいるが、これもどちらかというと、「強制収容所」という非人道的な方法として、提案した顧問官の人格的な悪質さを浮かび上がらせるために出てきているに過ぎない(271)。つまり『白い病気』の世界では、個々人の身体をめぐる確率論的な感染現象(への恐怖)は、実はあまり存在していないようなのだ。この「感染の欠如」とでも言うべき現象は、感染症文学たる『白い病気』の逆説的な特徴として際立っている。

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病は外から? それとも内から?

 スーザン・ソンタグは『エイズとその隠喩』で、疫病と「外来性」を結びつけており(208)、この特徴は設定上『白い病気』にも見られることがまずは確認できる。第1幕第3場で、父が「この病気はシナが発祥地だと」と顧問官の言葉を紹介するように、白い病気は中国から来たと、典型的にオリエンタリストな発想で捉えられている。

 しかしこの物語自体は、アジアにしろ何にしろ、そうした外部からの脅威に対して内部を守るという筋立てになっていない。むしろそれはすでに国家内部の一つの既成事実ないし条件となって、じわじわ広がりつつある。このことは上で述べたように、「白い病気」が、個人に感染するかどうか、つまり、外部からある一人の人間の内部に侵入するかどうか、という軸を中心にして捉えられていないこととパラレルになっている。疫病は、国粋主義的な戦争の機運(そして若者の厭戦気分?)とともに、基本的にはあくまで国家内部の勢力、気分として、生長しているのである。こういう見方から逆向きに言えば、男爵・元帥が代表する軍国主義的な価値は、内部から発してやがて自らを食いつぶしてしまう疫病のようなものだ、ということになる。

 ちなみに、この作品の舞台の「外部」は中国(アジア)だけではない。ガレーン医師はギリシャ出身だという細部が描きこまれているからだ(243)。実際急速に軍国主義化していく国家のなかでのガレーン医師の孤独な立場は、元帥=白い病気よりははるかに「外部」らしいとすら言え、顧問官がガレーンの理想主義を「君の平和主義ペスト」(263)と罵倒するとき、この「ペスト」は正しく「外来性」の隠喩となっている。しかし同時に、この顧問官の罵倒が示す、軍国主義も平和主義も敵対者からみれば変わらず疫病に見えてしまうというある種の相対主義は、結局のところ外から来るよりも内から発生する疫病のあり方に適合しているように見える。『白い病気』における疫病のイメージはどこまでいっても、外部(からの侵入)というより内部での相対的な配置の問題だという感じが優越する。

「白い病」の何が恐れられているのか?

 ソンタグの『白い病気』論にある「災厄が(医学的、環境的なそれが)管理された公の出来事になってしまいかねないさまを描き出している」(215)という評言は、こうした「内部性」としての疫病のあり方を、彼女なりの仕方で言い表したものだと考えられる。しかし、いささか矛盾するようだが、「白い病気」はそれでもなお、「管理され」切ったとは言えない仕方で、また「公」の領分をはみ出てしまうような仕方で(男爵や元帥は結果的に、公職の任務を裏切っていくわけなので)、恐怖の原因となっているのである。

 「侵入」してくるわけではない「白い病気」の、では何が怖いのか。この疫病は、「雪崩のごとく世界中に蔓延する」「パンデミー」で、それは「もう五百万以上の人々が死亡し、少なくとも千二百万もの人々が、現在、感染しており、少なくとも、その三倍の者が体に豆粒よりも小さな、大理石の、無感覚なポッチがあるのも知らずに」(239)と極めて数値的に捉えられている(そもそも五十歳という年齢制限自体が数字の話であった)。「外部性」に依らず、むしろ世界全体を内部としてしまう、グローバルで非意味(隠喩)的な現象であることそのものが、恐怖の源となり、(ガレーン医師の策略を通じて)現状を変化させるきっかけとなるのである。そうだとすれば「白い病気」は、イデオロギー的な「報復」どころかむしろ、ガレーンの平和主義も含めたあらゆる「主義主張」とは異なる、世界の変革の仕方のイメージとなっている。内部性としての非意味的な疫病をそういうものとして恐れること。ここにすべてが巨大な内部と化してしまうグローバリズム時代に届くチャペックの洞察がある、かも。

参考文献

・スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い エイズとその隠喩』富山太佳夫訳、みすず書房、2012年

阿部賢一note (岩波文庫版(2020年刊行)の訳者)

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