1. 伝染について
「底辺の仕事ランキング」をご存知だろうか?ある就職情報サイトが2021年5月18日にインターネットに公開した記事で、1年のタイムラグを経て多くの批判が集中し「炎上」した(現在は削除されている)。「一般的に底辺職と呼ばれている仕事は、社会を下から支えている仕事です。そのような方がいるからこそ、今の自分があるのだということには気づきましょう」、「世間一般的に言われている底辺職について解説しましたが、何を底辺職と呼ぶのかは人それぞれです。」、等々公平性を担保するための幼稚な言い訳をタテマエにしつつ、「底辺職に就かない方法/抜け出す方法4つ」をトピックにするというしぐさから、この記事の著者あるいは企業が持つホンネは明らかである。「底辺職」のデメリットは「結婚の時に苦労する」などという記述はロスジェネ論壇を経由した2020年代のものと思えず、昭和日本の悪しき偏見を再生産しているだけだ。「底辺職と呼ばれる仕事に就きたくない方は、転職したり、スキルや資格を身に付けることが重要です。」という職業差別を剝き出しにした結論も含め、批判されて当然であると思う(余談だが、私は「スキル」という言葉を振り回す人間を基本的に信用していない。「政治はコンテンツではない 『平成転向論』書評」もいつか参照されたい)。
「底辺職①:土木・建設作業員」から「底辺職⑫:コールセンタースタッフ」まで並べられたリストを見るだけでだんだん腹が立ってくる。しかし、この記事が「炎上」したのは、「間違ったこと」が書かれていたからだけではなく、「どこかで自分もこの偏見を共有しているのでは」というやましさを、攻撃することで振り払いたい人々が多かったからではないかという推測も成り立つ。コロナ禍以降、「エッセンシャルワーカー」という言葉が公共のメディアで大手を振ってまかり通るようになったが、社会にはエッセンシャル(=本質的)な仕事とエッセンシャルでない仕事があるとでも言うのか(しばしば「エッセンシャルワーカー」の例に挙がる介護士は「底辺職⑩」にも分類されており、別の意味で日本社会の病理を感じる)。こうした得体の知れぬ言葉を何も考えずに使うことによって私たちは偏見に「感染」し、ともすれば偏見を「伝染」させることに加担してしまうのであり、言語が社会を分節する力を持っている以上、その使用・不使用には繊細でありたいものだと強く思う。
さて、村田沙耶香の小説『コンビニ人間』(2016)の中には、この「底辺の仕事ランキング」を読んでいるとしか思えない人物が登場する。『コンビニ人間』が当該記事の5年も前に発表されているというのは、なんとも不思議なことだ。
「この店ってほんと底辺のやつらばっかですよね、コンビニなんてどこでもそうですけど、旦那の収入だけじゃやっていけない主婦に、大した将来設計もないフリーター、大学生も、家庭教師みたいな割のいいバイトができない底辺大学生ばっかりだし、あとは出稼ぎの外人、ほんと、底辺ばっかりだ」
『コンビニ人間』文藝春秋、2016年、p. 64。以下『コンビニ人間』の引用はこの単行本のページ数を記す。
このセリフを発しているのは、「白羽さん」という男性。小説後半で、「私」=「古倉恵子」と奇妙な「同棲」を行うことになる人物だ。「この店」とはもちろん、作品の主な舞台となるコンビニ、「スマイルマート日色町駅前店」(p. 14)。社会のコードを共有しないため偏見から自由に物事を観察し叙述できる恵子は、新参バイトの白羽のことも、「差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。白羽さんは後者のようだった。」(p. 64)と分析している。白羽のセリフの後、小説がどう続くか引用しよう。
「なるほど」
まるで私みたいだ。人間っぽい言葉を発しているけれど、何も喋っていない。どうやら、白羽さんは「底辺」という言葉が好きみたいだった。この短い間に、4回も使っている。(p. 64、強調筆者)
どんな偏見丸出しの意見にも「なるほど」や「はあ」と相槌を打ってしまうのが恵子の癖で、『コンビニ人間』に漂うユーモアを生み出しているが、ともあれ白羽の無内容ぶりを言語使用から見抜く恵子の力は大したものである。「底辺の仕事ランキング」には「底辺職⑤:コンビニ店員」と記されていたので、やはりこの記事を読んでいたとしか思えない! 白羽はインターネットの記事・ツイート・スレッドにある情報を都合良く摂取して自分の意見のように語る人物である。後の場面で恵子が白羽を自分の部屋に泊めようとした時も、「いや、そういうのって、けっこう怖いですよね。ネットでそういう話よく読んでたけど、本当にいるんだなあ、そんなに必死に誘われても、引くっていうか…」(p. 95-96、強調筆者)と完全に誤解しているところを見ると、男女間の話題を含め様々なトピックに親しんでいるようだ。いや、ネットだけに限らない。彼が現代社会を縄文時代と同一視してマッチョ的な女性蔑視発言を繰り返すのは、「歴史書」を読んだ影響らしい。「歴史書」と言うからには、スマイルマートにも置いていそうなビジネス向けの薄手の本でも、日本n紀のような先行研究や史料吟味に基づかない本でもないことを切に願うが…。
「僕はいつからこんなに世界が間違っているのか調べたくて、歴史書を読んだ。明治、江戸、平安、いくら遡っても、世界は間違ったままだった。縄文時代まで遡っても!」
白羽さんがテーブルを揺らし、ジャスミンティーがカップから溢れた。
「僕はそれで気が付いたんだ。この世界は、縄文時代と変わっていないんですよ。ムラのためにならない人間は削除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」
「白羽さんは、縄文時代の話が好きですね」
「好きじゃない。大嫌いだ!でも、この世は現代社会の皮をかぶった縄文時代なんですよ。大きな獲物を捕ってくる、力の強い男に女が群がり、村一番の美女が嫁いでいく。狩りに参加しなかったり、参加しても力が弱くて役立たないような男は見下される。構図はまったく変わっていないんだ」
「はあ」(p. 85)
興味深いのは、恵子が白羽のことを「私みたいだ」と捉えていたことだ。幼少期から社会に適応しづらかった恵子は、「私」を周囲にいる人のパッチワークで作り上げることで毎日を過ごしている。業務もできないのに偏見を垂れ流し続けることでコンビニ店員仲間から疎まれている白羽も、恵子にとっては自分と同じシステムで「私」を保っている同類にすぎない。
今の「私」を形成しているのはほとんど私のそばにいる人たちだ。三割は泉さん、三割は菅原さん、二割は店長、残りは半年前に辞めた佐々木さんや一年前までリーダーだった岡崎くんのような、過去の他の人たちから吸収したもので構成されている。
特に喋り方に関しては身近な人のものが伝染していて、今は泉さんと菅原さんをミックスさせたものが私の喋り方になっている。
大抵のひとはそうなのではないかと、私は思っている。前に菅原さんのバンド仲間がお店に顔を出したときは、女の子たちは菅原さんと同じような服装と喋り方だったし、佐々木さんは泉さんが入ってきてから、「お疲れさまです!」の言い方が泉さんとそっくりになっていた。泉さんと前の店で仲が良かったという主婦の女性がヘルプに来たときは、服装があまりに泉さんと似ているので間違えそうになったくらいだ。私の喋り方も、誰かに伝染しているのかもしれない。こうして伝染し合いながら、私たちは人間であることを保ち続けているのだと思う。(p. 26)
「私は~」と語っても、周りからの影響にさらされることで、その「私」の構成は日々違うものに入れ替わっている。物質や細胞のレベルで、「人間の身体の水は二週間ほどで入れ替わる」(p. 138)ように。そのことは、コンビニに勤務することでコンビニ店員らしい喋り方と振る舞いを獲得し、「コンビニ店員として生まれる」(p. 7)ことができた恵子にとっては自明である。彼女は日々「菅原さんの喋り方をトレース」(p. 27)したり、「菅原さんの表情を盗み見て、トレーニングの時にそうしたように、顔の同じ場所の筋肉を動かして」(p. 29)怒りを演出したりして、なんとか社会に適応しようとし、「ああ、私は今、上手に『人間』ができているんだ」(p. 29)と安堵する。その「過剰適応」ぶりは、姉想いの妹から「お姉ちゃんは、コンビニ始めてからますますおかしかったよ。喋り方も、家でもコンビニみたいに声を張り上げたりするし、表情も変だよ。お願いだから、普通になってよ」(p.122-123)と言われてしまうほどなのだが…。
私たちには、恵子のように「身に付けている洋服も、発する言葉のリズムも変わってしまった私が笑っている。友達は、誰と話しているのだろう。」(p.33)と考え続けながら、日々の生活を送ることはできないに違いない。そんな私たちをふと立ち止まらせ、「私」とは何か、「人間」とは何かを考えさせる力を持つのが、偉大な小説の特権である。
『コンビニ人間』は、奇抜な文体実験も言語遊戯もなしに、「私」の平易な語りのみによって読者を「私」の外に連れ去って行く優れた作品だ。今いちど『コンビニ人間』の言葉をたどり、「人間」の外に出てみようというのが、本稿の趣旨である。
2.「コンビニ」という場、「コンビニ店員」のハビトゥス
『コンビニ人間』の冒頭を読み直すと、「私は」「私が」という主語が、単行本では冒頭3ページにわたり登場しないことに驚かされる。代わって置かれるのは、「コンビニエンスストアは、音で満ちている。」という書き出しに始まり、様々な音が「コンビニの音」になって「私の鼓膜」に触れているという記述。それらの音から情報を拾いながら、「私の身体」はおにぎりを並べるという記述。音に反応して「身体が勝手に動く」とされる「私」は、音センサーによる行動機能を搭載したAIに「私」という名が仮に付いているようだ。「スピードが勝負なので、頭はほとんど使わず、私の中に染みこんでいるルールが肉体に指示を出している」(p. 4、強調筆者)。
社会学者のピエール・ブルデューは、『ディスタンクシオン』(原著1979)において、このような習慣化された行動を「慣習行動(pratique)」として分析した。「個人」という概念そのものや個人の「趣味」「マナー」がいかに社会の関数であるかを示す試み、と呼ぶべきこの著作の中で、個人の慣習行動はその個人が属する階級・集団の「ハビトゥス(habitus)」によって方向づけられるとされている。
ある一人の行為者がおこなうすべての慣習行動や仕事は、さまざまな場にそれぞれ固有の論理が要請する転換操作によって、同一の構造化する構造(modus operandi)がうみだす多様な構造化された生産物(opus operatum)であり、ことさらにそこに一貫性を探そうとしなくてもそれらのあいだでたがいに客観的に調和しているし、また意識的に他と協調させようとするまでもなく、同じ階級のあらゆる人々の慣習行動や仕事と客観的に調和しているものである。ハビトゥスはたえず実践レベルでのメタフォールを生みだす。[…]たとえば「筆跡」と呼ばれる性向、つまり文字を描く各々独自の方式というのは、ハビトゥスというこの類推作用素の身近な一形態であり、[…]とにかく即座に見てとれるような近親性を示す図形上の軌跡を生みだす。
『ディスタンクシオンⅠ』石井洋二郎訳、藤原書店、1990年。p.264-265
「私の中に染みこんでいるルールが肉体に指示を出して」おにぎりを並べている恵子の毎日は、ブルデューの用語で翻訳すると、「コンビニという『場』で、細かなルールを身体化した『ハビトゥス』によって、『慣習行動』としての商品並べをしている」となるだろう。ここで重要なのは、「私の中に染み込んでいるルール」=「ハビトゥス」は、スマイルマートの勤務マニュアルに書かれている事項の集積ではないということだ。新商品の明太子チーズは真ん中に、あまり売れないおかかは端っこに、という並べ方のコツはマニュアルに記載されていないだろう。「スピードが勝負」であるコンビニにおいて、恵子はいちいちマニュアル(実物はもとより、脳内のものも)の文言を参照して行動してはいない。むしろ、マニュアルに明文化されていない「暗黙知」を瞬時に呼び出して活用できることが、優れたコンビニ店員の条件である。
客の細かい仕草や視線を自動的に読み取って、身体は反射的に動く。耳と目は客の小さな動きや意思をキャッチする大切なセンサーになる。必要以上に観察して不快にさせてしまわないよう細心の注意を払いながら、キャッチした情報に従って素早く手を動かす。(p.6)
こうした慣習行動を生みだすハビトゥスは、おそらくこれまでの18年間周囲にいた他の店員の行動が「伝染」して作り上げられたもの(ブルデューの言う「構造化された構造」)である。「コンビニ店員になる(=として生まれる!)」ことは、周囲を見習いながらハビトゥスを獲得することと同義であり、だからこそ、周囲を見習わず真っ先にマニュアルに読みふける白羽は、コンビニという「場」で最も軽蔑される。「白羽さん、まずはマニュアルよりフェイスアップです!」(p. 49)というわけだ。
つまり、恵子の言う「私の中に染みこんでいるルール」は、明文化されたルールとはあまり関係がない(ブルデューが『実践感覚』(原著1980)で、ハビトゥスを「ゲームのルール」そのものではなく「戦略」に近いと説明していることを想起させる)。例えば、「勤務時間」という概念も、「ルール」が定める以上に拡張されている。「沢口さんが2時間も残業して作ってくれた、『大人気! ジューシーでおいしいからあげ棒、なんと今だけ110円!』というPOP」(p. 111)のように、終業後の残業が言語化されているのはまだ良い方だ。始業前のサービス労働はより規範化され、店長は白羽に対し繰り返し、早く出勤することが「普通」であるかのような物言いをし続ける。
「俺、30分前に出勤するように言わなかった? 遅刻だよー!」(p. 42)
「白羽さん、遅刻遅刻! 5分前には制服着て、朝礼してないと駄目だから!」(p. 61)
勤続18年の優秀なコンビニ店員である恵子はもちろん、定時(朝の場合は9時)よりはるか以前(8時)に出勤するハビトゥスを身に付けている。「仕事は9時からだが、早く来てバックルームで朝食を食べることにしている。店につくと、2リットルのペットボトルのミネラルウォーターを一本と、廃棄になってしまいそうなパンやサンドイッチを選んで買い、バックルームで食事をする。」(p. 22-23) 天気予報の確認(p. 23)や店の周りを歩いての情報収集(p. 39)も始業前の時間に行い、合わせて売れ残り商品の購入まで進んでしてくれるのだから、店長や企業にとってはなんと都合の良いアルバイトだろう。
恵子は、「時給の中には、健康な状態で店に向かうという自己管理に対するお金も含まれてる」(p. 96)というイデオロギーを内面化しており、白羽に説教するほどだ。勤務時間内に仕事をするだけでなく、「働いていない時間も、私の身体はコンビニのものだった。健康的に働くために眠り、体調を整え、栄養を摂る。それも私の仕事のうちだった。」(p. 138)と振り返るように、勤務外の時間もコンビニのために「仕事」をし続けている。それどころか、朝昼そして多くは晩もコンビニで買った食料や水を摂取しているため、身体すらもコンビニで満たされている(と考えている)のだ。「私の身体の殆どが、このコンビニの食料でできているのだと思うと、自分が、雑貨の棚やコーヒーマシーンと同じ、この店の一部であるかのように感じられる。」(p. 23)
こうした恍惚感すらにじませる物言いは、現代資本主義下の労働者としてとても奇異なものだ。そこでわれわれは、『コンビニ人間』を「コンビニ」という場や「コンビニ店員」のハビトゥスを描いた小説としてのみ読解する試みから離陸することにする。むしろ『コンビニ人間』は、「コンビニ店員」という「召命」を受けた者の信仰告白、という形をとった宗教小説として読まれるべきではないか。
(以下加筆します)