『風の歌を聴け』トランスジェンダー文学と深い淵|あらすじ解説|内容考察|感想

『風の歌を聴け』トランスジェンダー文学と深い淵|あらすじ解説|内容考察|感想

概要

 『風の歌を聴け』 は、1979年に刊行された村上春樹の中編小説。村上春樹の第一作目である。群像新人文学賞受賞。芥川賞、野間文芸新人賞は候補になる。「鼠三部作」の一作目。

 21歳の「僕」と22歳の「鼠」に、1970年8月8日から8月26日の18日間におこる物語を、1978年の「僕」が描く。

 村上はほかに短編「かえるくん、東京を救う」「神の子どもたちはみな踊る」や、長編『海辺のカフカ』『1Q84』などがある。

 また日本の小説はほかに『ぼくは勉強ができない』『博士の愛した数式』『星の子』『旅する練習』『ジョゼと虎と魚たち』がおすすめである。

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登場人物

:語り手であり主人公。大学で生物学を専攻している。1948年生まれ。

:「僕」の一歳年上。地元に住んでいる。大学入学の年に「僕」と出会い親しくしている。金持ちの家に生まれたが金を嫌っている。三階建ての家に住む。

小指のない女の子:左手の小指のない女性。レコード店で働いている。

ジェイ:中国人。ジェイズ・バーを経営している。

病気の女の子:17歳。3年間寝たきりの生活を送っている。 ラジオに便りを送り放送される。

ラジオN・E・BのDJ:ラジオのDJ。

デレク・ハートフィールド:アメリカの架空の作家。

高校時代のクラス・メートの女の子:高校時代に「僕」にビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」のレコードを貸す。ラジオでリクエストがあり「僕」は思い出す。病気療養を理由に大学を退学している。

3人の叔父:(i)デレク・ハートフィールドの本をくれて、3年後に癌で死亡。(ii)終戦の2日後に上海で地雷を踏んで死亡。(iii)手品師。全国の温泉地を回っている。

僕が寝た3人の女の子:(i)高校のクラスメイト。(ii)16歳のヒッピー。(iii)仏文科の学生。のちに自殺する。

名言

うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。(p.8 – 9)

「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」(「気分が良くて何が悪い?」1936年)(p.10)

君は何を学んだ?(p.127)

僕は・君たちが・好きだ(p.149)

あらすじ

 「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る。」(p.13)

 僕と鼠は三年前の大学に入学した年に出会った。酔っ払って交通事故を起こしたことをきっかけに、チームを組んで行動するようになる。

 僕はもともと無口な少年で、心配した両親が精神科に連れて行った。14歳のある時、堰を切って喋り出すようになる。

 1970年の8月8日、ジェイズ・バーで左手の小指のない女の子が倒れていた。介抱して自宅まで送り届けるが、目を覚ました彼女は僕が何かをしたのではないかと怪しむ。

 ラジオで高校時代に「カリフォルニア・ガールズ」のレコードを借りた女性の言葉が流れたため、近くのレコード店に行ったら小指のない女の子が働いて、翌日デートを取り付ける。町を歩きながら彼女の過去の家族関係について話を聞く。

 鼠は徐々に元気がなくなっている様子がみられる。数日間会えない期間が続いたあとようやく出会うと、会わせたい女性がいると言われる。

 しかし約束の日になると、女性に会う計画はなくなっていた。僕と鼠は山の手のプールに遊びに行く。そこで鼠が大学を辞めたこと、小説を書こうとしていることを聞かされる。鼠は本を読まないためまだ一行も書けていなかったが、書くことで自らが啓発されるような作品を目標にしている。僕は鼠に、みんな一緒なんだ、と告げるが、鼠は本当にそう思っているのか?嘘だと言ってくれ、と言う。

 8月26日、僕はジェイズ・バーに寄ったあと、夜行バスで夜景を眺めながら東京に向かう。

 その後、ジェイズ・バーはリニューアルオープンする。鼠は執筆活動をつづけ、毎年クリスマスには自作の小説を送ってくれる。指のない女の子はレコード店を辞め、それ以来会っていない。

解説

否定から肯定へ、なぜ村上春樹の文学が評価されるのか

 『風の歌を聴け』は1979年に刊行された村上春樹の最初の小説である。群像新人文学賞応募時の題名は「Happy Birthday and White Christmas」であったが、刊行するにさいして『風の歌を聴け』に変更された。「Happy Birthday and White Christmas」という文字は、文庫の表紙の上部に残されている。

 村上春樹はいまや日本、いや、世界で認められる大作家であるが、デビュー当時は論壇に好意的に受け止められなかった。論壇の過剰な冷遇は比較的長く続き、最終的に村上は芥川賞を受賞できなかったことは、日本文学界の汚点の一つである。

 村上の登場は日本の文学史においてどのような意味があったのか。文芸批評家の加藤典洋は村上の文学を「否定から肯定へ」と位置付け、日本の文学史に大きな転換をもたらしたと評価した。それ以前の「否定」の文学で突出した傑作を生み出したのが、村上春樹が登場する3年前の1976年に『限りなく透明に近いブルー』を提げて彗星のごとく文壇に現れた村上龍である。クスリ、セックス、暴力を楽しむ複数の男女を描いた彼の作品は、退廃的な生活に文学性をみる点でそれまでの文学に連なる「否定」の文学であった。

 村上春樹の文学は村上龍とは反対に、これまでの日本の文学には欠けていた「肯定」を描いた。それは例えばハートフィールドの「気分が良くて何が悪い?」(p.10)や、「いや、お前のせいさ」(p.16)という「僕」の発言に代表される。逆に否定される「否定」は鼠によって代表され、「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」(p.14)などがその典型的な例になる。

僕はノートの真ん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことができなかった。(p.12)

 中央に引かれた線の右側には鼠が、左側には僕がいる。それは日本近代文学が背負い鼠が代表する「否定」の否定であり、僕が代表する「肯定」の肯定という文学の方向性を示しているのである。

考察・感想

18日間で認識できなかった本当の謎とジェイの性別

 しかし、否定から肯定へ、というだけでは本作の謎と魅力を汲み取れていないように思われる。加藤は「夏の十九日間」という論文(『村上春樹の世界』収録)では、本作の謎に応えるため異界説を唱えているので、興味があるかたはそちらも参照してほしい。

 本記事では加藤とは違う立場から考えてみたい。物語が始まる前の冒頭で、「僕」は象の比喩を用いながら、知らないことは書けないことに対して「絶望的な気分に襲われ」(p.7)ていた。「僕」はこの絶望的な気分を、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」(p.7)というハートフィールドの言葉に寄りかかることで克服しようとしている。だが「僕」は「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている」(p.12)、つまり何かを書ききれていないという感覚に苛まれている。

 では一体この18日間の物語の中で「僕」は何を認識できずにいたのだろうか。そして「失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの」(p.12)とは一体何なのか。

 ここでポイントとなるのがあまり注目されることのないバーテンダーのジェイと、後半に登場する病気の女の子である。一読してなかなか判別がつかないことにジェイの性別がある。ジェイの発言である「左の猿があんたで、右のがあたしだね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす」(p.15)や、「さあね、あたしにもどうもよくわかんないよ。夏が終わりかけてるからかね」(p.110)から察するにジェイは女性である。しかし地の文で「僕」はジェイを彼と呼ぶ(p.15、p.46)。ジェイは男性なのか、女性なのか。

 一見すると些細な問題であるこの謎が一転して重要性を帯びるのは、鼠が僕に持ちかけた相談の内容を一度は知らないと答えたジェイが、「ねえ、鼠はあんたに何も言わなかった?」(p.111)と本当は知っている素振りをするときである。鼠と僕は3年前に出会ってから、チームを組んで共に行動をするほどの仲であった。そうであるにも関わらず、鼠が僕に言うことのできなかった秘密をジェイは知っていたというのだ。しかもジェイによれば「相談したがっている」けれど、「馬鹿にされそうな気がして」(p.111)できないというのである。

隠されたトランスジェンダーという性別

 全く別の角度から補助線を引いておこう。僕が夏休みに訪れている間に徐々に鼠が衰弱していくのは、「みんな何処かに行っ」てしまい「取り残されているような気がする」(p.110)からであった。これは夏に地元に帰省した仲間たちが、夏休みが終わると元いる場所に戻ってしまうことを嘆いていることを意味している。だがなぜ鼠は三階建の家に住めるほどのお金持ちであるのにもかかわらず、この場所を移動できないでいるのだろうか。

 ここで注目すべきはラジオに出演した病気の女の子である。送られてきた彼女の便りにある風景描写は、鼠が住む街と同じ場所に住んでいることを示している。彼女は三年前から病気で寝たきりなのだが、大学を辞めた「お姉さん」(p.147)が看病をしてくれているらしい。偶然にも登場人物で大学を辞めたものは二人いる。その二人とは鼠と高校時代のクラス・メートの女の子である。

 私がここで提示したい仮説は、病気の女の子を看病する「お姉さん」とは鼠である、ということだ。そして鼠は性自認は女性のトランスジェンダーであるという仮説である。

 三年前から女の子を看病していることを示す間接的証拠は幾つかある。例えば「三年振りに無性に煙草が吸いたかった」(p.27)という発言や、鼠が地元を離れられないことなど。そして「僕」が鼠の小説を「まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。」と褒めるのには、もっと直接的な意図があるように思われる。つまり鼠は、女性とのセックスを望んでないし、人が死ぬのもみたくないのである。

 冒頭から鼠は僕に対して疑問形が多く、問いかける主体であることは注目に値する。「ねえ、生身の人間はどう?大抵のことは許せない?」(p.23)と問いかける鼠は、自己に対する不安を抱えている。また一般的に固有名の剥奪と非難される「鼠」という呼び名も、実は「俺のことは鼠って呼んでくれ」(p.20)と自ら求めたものだった。鼠は固有名を剥奪されたのではなく、固有名を捨てることを望んでいたのである。さらに鼠が引用する映画監督の言葉、「私は貧弱な真実より華麗な虚実を愛する」や「優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を十分に発揮していくことができる、そういったものである」(p.67)は、自己を偽り対立する概念を内に潜ませる鼠が自らの生き方を表現しているかのようである。

横たわる深い淵と、嘘だと言ってくれないか?の意味

 この経緯を踏まえることでようやく「僕」が「失ったもの」が明らかになる。

 失ったものは僕が鼠に会った最後の日にある。鼠は僕との会話の中で「世の中にはどうしようもないこともあるんだってね」と、自らの苦悩を吐露する。しかし僕はこの発言を金持ちの悩みと誤解し、「金持ちもいりゃ貧乏人もいる」けれど「みんな同じさ」とそれを否定する。

。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?(p.121、傍点本文)

 「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間に」「横たわっている」「深い淵」(p.12)がここにある。「認識しようと努めるもの」が鼠の性の悩みであり、「実際に認識するもの」が彼の金持ちの悩みである。いうまでもなくここには「深い淵が横たわっている」。だから鼠は問いかけずにはいられない。「」と強調する僕は一体何を思っているのか、と。

「ひとつ質問していいか?」

僕は肯いた。

「あんたは本当にそう信じてる?」

「ああ。」

鼠はしばらく黙りこんで、ビール・グラスをじっと眺めていた。

「嘘だと言ってくれないか?」

鼠は真剣にそう言った。

p.121-122

 それを機に僕と鼠は会っていない。交流があるのはクリスマスに毎年鼠から送られてくる小説だけだ。会うことのない人、失ったもの、裏切ったものを想って、「泣きたいと思」っても「涙は出てこない」(p.155)。ハートフィールドの『火星の井戸』のラスト「ひとつ質問していいかい?」(p.155)は、鼠のあの発言に重なる。それに続く「君は何を学んだ?」という問いかけは、いまなお「僕」に響いている。

参考文献

村上春樹『風の歌を聴け』講談社文庫、2004年

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