「小僧の神様」解説|神話の誕生|あらすじ内容感想・伝えたいこと考察|志賀直哉

「小僧の神様」解説|神話の誕生|あらすじ内容感想・伝えたいこと考察|志賀直哉

概要

 「小僧の神様」は、1920年に発表された志賀直哉の短編小説。雑誌「白樺」1月号に掲載された。志賀が「小説の神様」と呼ばれるきっかけとなった小説である

 秤屋に奉公している仙吉と若い貴族院議員Aの、鮨屋を巡る偶然と必然が重なった奇妙な物語。

 教科書に採用された小説は他に、中島敦「山月記」、魯迅『故郷』、梶井基次郎「檸檬」、宮沢賢治「注文の多い料理店」「やまなし」などがある。

 本作は「日本純文学の最新おすすめ有名小説」で紹介している。

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登場人物

仙吉:十三、四の小僧。神田のある秤屋に奉公している。

番頭:秤屋の番頭。若い番頭と鮨屋について語る。

若い番頭:秤屋で働く。幸と呼ばれている。鮪の脂身が好き。

A:若い貴族院議員。Bの話から屋台鮨に行く。

B:Aの同僚。鮨についてAに語る。後にY夫人の音楽会にAと行く。

Y夫人:音楽会を主催。

屋台の鮨屋の主:仙吉とAが最初に入った鮨屋の主。金が足らないために仙吉が残した鮨を器用に食べる。

松屋の近所の鮨屋の主:仙吉とAが二回目に入った鮨屋の主。Aにお代を渡され、仙吉に鮨を提供する。

かみさん:仙吉を案内する鮨屋のかみさん。仙吉に配慮して障子を閉める。

細君:Aの細君。Aが語った淋しい気持ちに共感する。

伯母:仙吉の伯母。お稲荷様信仰がある。

作者:物語の最後に登場。書かなかった結末について、仙吉に残酷だから書かなかったと記す。

名言

「勇気かどうかは知らないが、ともかくそういう勇気はちょっと出せない。すぐいっしょに出てよそでごちそうするなら、まだやれるかもしれないが」(p.12)

到底それは人間わざではないと考えた。神様かもしれない。それでなければ仙人だ。もしかしたらお稲荷様かもしれない、と考えた。(p.19)

あらすじ・内容・ネタバレ

 仙吉は神田の秤屋で奉公をしている。客のいない店で番頭たちが鮨屋の話をしており、仙吉は行ってみたいと思った。それから二、三日した日暮れに、往復の電車賃だけもらって、京橋のSまで使いに出された。帰りがけに鮨屋を見つけた仙吉は、片道を歩くことで貯めた僅かな金を持って中に入る。

 若い貴族院の男Aは、同僚のBから聞いてた鮨屋を見つけたので中に入った。すると後から小僧が入ってきて、鮪の鮨を一つ掴んだ。しかし店長が6銭すると声をかけると、鮨を置いて走って外に出た。後日、鮨屋に入ったことと小僧の様子をBに語り、どうにかしてやりたいと語った。

 Aは子供のために秤を買いに出かける。秤屋で小僧を見つけたAは、彼に秤を運ぶ手伝いをしてもらい、そのお礼として鮨を奢る。しかしAは金を先払いして店を出て、仙吉は一人で鱈腹になるまで鮨を食う。

 後になって仙吉は、Aは何故自分が鮨を食いたいと望んでいたのかを疑問に思う。そして仙吉はAを神様なのではないかと思い始める。辛い時はAのことを考え、再び思わぬ恵みを持って現れると信じていた。

 逆にAは店を出た後、変に寂しい気がしていた。そのことを細君に告げると、そういうことはあると共感される。その後、寂しい変な感じは消えて無くなったが、秤屋にも鮨屋にも行こうとは思わなくなった。

 秤を買った時、Aはデタラメの住所を店に残していた。Aの正体を知りたい小僧がその住所に向かうと、そこには小さい稲荷の祠があって大変驚いた、ということを作者は書こうとしたが、小僧に対して残酷な気がするのでやめたと書かれている。

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解説

小説の神様と呼ばれた志賀直哉

 志賀直哉は白樺派を代表する作家である。白樺派とは、1910年に創刊された同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸運動の一つで、自然主義に代わって文学の中心になった。他に反自然主義として台頭した文芸思潮は、夏目漱石が代表する余裕派や(夏目の作品:『坊っちゃん』『こころ』『夢十夜』「現代日本の開化」)、芥川龍之介が代表する新自然主義などがある(芥川の作品:「蜘蛛の糸」「」「羅生門」「芋粥」「河童」)。

 志賀直哉の無駄を省いたスマートな文体は高く評価されていて、文体の理想の一つと見做されてきた。1927年に勃発した文学論争で、文学の本質に物語の面白さを置いた谷崎潤一郎に対し、面白さは文学の価値を規定しないと主張した芥川龍之介は、物語らしい物語がない代表例として志賀直哉の小説が引き合いに出されたのである。この論争の発端となった芥川の評論「文芸的な、余りに文芸的な」で、志賀直哉を「最も純粋な小説」を書くと評している

 このように無駄のない文体を称賛されていた志賀は、文学青年たちから「小説の神様」と崇められるようになった。そのきっかけとなったのが、本作「小僧の神様」なのである。

一つの事象と視点の異なる二つの物語

 本作は10章からなる短編で、短いながらも作者を含め11人もの人物が登場する。その中でも最重要となる人物が、若い貴族院議員のAと神田のある秤屋に奉公している仙吉である。

 全体の構成を確認しておこう。まず、仙吉が奉公している秤屋の番頭たちの会話で鮨屋のことを聞き、食べてみたいと思う。そこでタイミングを見計らってその鮨屋に入るが手持ちの金銭が足らず店を出ることになる。その様子を見ていたAは可哀想だと思い、その後に偶然出会った仙吉を他の鮨屋に連れて行き、何も言わず颯爽と帰る。Aは奢ったことに変に寂しい気がしていたが、仙吉の方はこの幸運からAを神様だと確信する。仙吉はAが記した出鱈目の住所を訪れると、小さい稲荷の祠があって大変驚いたのだが、それを記すのは仙吉に対して残酷だと作者が述べて物語が終わる。

 この簡単なまとめからも分かるように、鮨屋を訪れるという一つの出来事に対する、「仙吉の物語」と「Aの物語」の二つの視点が存在している。村上春樹の『海辺のカフカ』とは違い、これらの物語は独立しておらず、異なった入射角からみた一つの事物を示している。では、鮨屋での食事という一つの出来事を、仙吉とAはそれぞれどのように認識したのだろうか。

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考察・感想

情報の非対称性と仙吉の物語——小僧の神様の誕生

 ある出来事に対して二つの物語が生じたのは、単に複数の視点があったためというだけではない。そこには、情報の非対称性が必要なのである。

 仙吉は番頭たちの会話を聞いて最初の鮨屋に入った時、Aはその様子を後ろから見ていたが、仙吉はAが見ていたことを知らなかった。したがって秤屋でAが仙吉を認めたとき、仙吉にとってAは初対面の相手になる。そのうえAは、過去に仙吉の行為を見たことを伝えないどころか、貴族院議員という身分も隠して仙吉に接する。

 この情報の非対称性に、Aが立ち寄った秤屋に仙吉がいたという偶然が重なることで、仙吉はAをより大きな存在だと勘違いする。自分の居場所が分かったことも、鮨を食べたいという欲求が見透かされたことも、偶然だと納得することができようか。否。仙吉に生じた疑いの種は、大きな疑念へと成長し、いつしか確信へと変わる

とにかくあの客は只者ではないというふうにだんだん考えられてきた。自分が屋台すし屋で恥をかいた事も、番頭たちがあのすし屋のうわさをしていた事も、その上第一自分の心の中まで見とおして、あんなに充分、ごちそうしてくれた。到底それは人間わざではないと考えた。神様かもしれない。それでなければ仙人だ。もしかしたらお稲荷様かもしれない、と考えた。(p.19)

 ここでようやく「小僧の神様」が誕生した。神様の前に「小僧の」が付いているのがポイントだ。神様は存在する。だがそれは、誰に対しても同じ顔をしているわけではないだろう。ある人は夕暮れ時に渡った橋の上で、ある人は小学生の時に不意にかけられた言葉に、「神様」を見る。だから正確には「神様」は存在していなくて、「〇〇(にとって)の神様」がいるだけなのだ。

 「番頭たちがすし屋のうわさをするように、AやBもそんなうわさをする事は仙吉の頭では想像できなかった」(p.19)。それぞれの事柄はどれも単なる人間の行いに過ぎない。しかしそこに情報の非対称性と幾つかの偶然が重なるだけで、人はそこに神様がいると勘違いする。だがこの勘違いこそがむしろ本質である。言い換えれば、人と人や人と物の正常な交通の間にある齟齬にしか、神様は存在しないのだ。これほど鮮やかに神、あるいは、神話の誕生の瞬間を描いた小説を、これより他に私は知らない。

Aの物語——「変に寂しい気がした」ことの正体

 では、Aにとってこの出来事はどのように感じられたのであろうか。

 Aは仙吉のために鮨の金を先払いすると、「逃げるように急足で電車通りのほうへ行ってしまった」(p.15)。曰く、「変に寂しい気がした」(p.16)。しかしAは、「自分も満足していいはず」なのに、「この変に寂しい、いやな気持ちは」「何から来るのだろう」と自問し、「ちょうどそれは人知れず悪いことをしたあとの気持ちに似通っている」と言う。そしてAはすぐさま「もう少しした事を小さく、気軽に考えていればなんでもないのかもしれない。自分は知らず知らずこだわっているのだ」(p.17)と考える。

 何故Aは「変に寂しい気がした」のだろうか。それはAが「気の小さい人間」なのに、そしてやったことは事実「小さく、気軽に考え」るべきなのに、大きなことをやったと考えているからである。Aは仙吉に最初に会った後、Bにこう言っていた。

「小僧は喜んだだろうが、こっちは冷や汗ものだ」
「冷や汗?つまり勇気がないんだ」
「勇気かどうかは知らないが、ともかくそういう勇気はちょっと出せない。すぐいっしょに出てよそでごちそうするなら、まだやれるかもしれないが」(p.12)

あるいは、秤を買った店で住所を要求された時、「名を知らしてからごちそうするのは同様いかにも冷や汗の気がした」(p.14)。Aは金のために鮨を食えない仙吉を憐んでいたが、その場で奢るのは憚られた。

 ここでは「冷や汗」の理由も「変に寂しい気がした」原因も、明確に書かれていないため理解するのが難しいように思われるが、自分ごととして想像すれば存外やさしい。例えば、満員電車で座っている自分の目の前にお年寄りが立っているところを想像してみよう。それとの類推から、Aが気にかけていることは他人の視線であることがわかる。だから「よそでごちそうするなら、まだやれるかもしれない」のだ。その言葉通り、自分の名を知らせずよそで奢ったにもかかわらず店を飛び出したのは、そのような内面の変遷に気付いたからである。つまり彼は「恥ずべき事を行ったというのではない」(p.17)が、隠れて善を働くことで大きいことをしたと思い込みたいという欲求に隠れた欺瞞を恥じたのだ。それこそが「変に寂しい気がした」ことの正体である。

伝えたいこと——残酷な気がして来た理由

 この鮨屋の出来事は、仙吉に神様を見たのと同時に、Aにうちに潜む欺瞞を恥じさせた。ここに、神様と恥の誕生の瞬間がある。

 それもこれも情報の非対称性から生じたものだった。だから図らずも彼らは行動において対称的である。仙吉は掴んだ鮪を買うだけの金を持っていなかったことで、恥ずかしい思いをしてのれんの外へ出て行った。それと同じように、Aも「変に寂しい気がし」て急いで店を出た。彼らは二人とも逃げるように店を後にしたのである。

 作者は最後に何故「残酷な気がし」(p.21)たのか。それは偶然がさらに重なって小僧の「神様」の地位が磐石になったにもかかわらず、「あの客」の正体を読者が知っているからである。情報の非対称性は二者の間にあるが、それを無効にする第三者(作者や読者)からすれば、すべてが滑稽で残酷である。しかし出来事は神の視点を持つ第三者ではなく、情報の非対称がある二者の間で起こるのだ。そこは、滑稽で残酷なことかもしれないが、神様が偶然に宿る現実の世界である。

 

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