『現代日本の開化』あらすじ要約と解説|内発的な開化とは何か

『現代日本の開化』あらすじ要約と解説|内発的な開化とは何か

講演構成が独創的なので要約すると講演の面白みが薄れてしまう

 講演の内容の要約はむずかしい。何故なら講演の形式は、目の前にいる聴衆に語りかけながら論を展開していくという、特殊なものだからだ。そのことに夏目漱石は自覚的であった(夏目漱石には『こころ』『夢十夜』『坊っちゃん』などの小説がある)。『草枕』の冒頭からも分かるとおり、夏目漱石は落語的な文体とテンポが好きな作家であり、そのことは講演においても通ずるものである。まずは落語的な「枕」から話が始まり、聴衆の興味を沸き立てたところで突然にスパッと核心めいた鋭い発言をする。さてどうするのかと思いきや、しかしどうにもならんと結論づけて論は終わりを迎える。

初めの十分間くらいは私が何を主眼にいうか能くわからない、二十分目くらいになってようやく筋道が付いて、三十分目くらいにはようやく脂がのって少しはちょっと面白くなり、四十分目にはまたぼんやりし出し、五十分目には退屈を催し、一時間目には欠伸が出る。(59)

 『私の個人主義』に収録されている「現代日本の開化」も、このような構成からなっている。本来ならこの「枕」の部分や、夏目漱石が自虐的に自らを評するところに、この講演の面白さがあるといえる。しかしここでは要約することに主眼を置き、このような付随する点はバッサリと切り捨て、要点だけをかいつまんで解説することにしよう。ただし、「現代日本の開化」の講演は短く平易であるため、実際に読むことを強くおすすめする。

 「現代日本の開化」はある種の日本論である。時代背景は明治中期。江戸の終焉を迎えた日本は、文明開化の音と共に明治が幕開けした。みるみるうちに文明化をしていく日本は、身分制度の廃止や西洋化を押し進め、生きやすい世の中へ発展していた。日本が住みやすい国に発展していくことは、素晴らしいことのように思われる。しかしながら文学者である夏目漱石には、文明開化後の日本の様子は違った風に見えていた。結論を先に述べると講演時の1911年において、漱石は日本の将来に対してかなり悲観的な評価を下している。

とにかく私の解剖したことが本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。(66)

 日本社会を俯瞰的な視点から解剖し否定的な診断をくだしてみても、「妙案が何もない」と漱石はいう。ではその日本社会の解剖で、見えてきた日本の特徴とは何だったのか。

開化のための「消極的」と「積極的」な活力

 漱石はまず初めに「開化」を「人間活力の発現の経路」と定義し、この経路が二つあると指摘する。一つは積極的なもので、もう一つは消極的なものだ。

 消極的なものとは、言いかえると「節約」ということができる。人間は本性として、時間を節約したいとか、労力を減らしたいといったことを感じる。時間や労力を最小限に抑えようという試みは、現代でいえば効率化であり、その目的のために作り出されたのが、電話や汽車などの生活を便利にする機械である。

 逆に積極的なものとは、「消耗」と言いかえられる。先程の例でも取り上げた汽車について考えてみよう。時間や労力を削るために作り出された汽車は、我々を短時間に遠くに移動させてくれる。ところが人間は楽になればそれで満足というわけではない。時には無駄に歩きたくなることがあり、またある時には予定の場所より余分に遠くに行くこともある。消極的な活力の反対にあるこの消耗的な活力は、学問を含めた「道楽」のことでもある。

 「開化」にとって、「消極的」と「積極的」な活力は、常に同時に存在している。相反する二つの活力、消極的と積極的、節約と消耗のそれぞれが混ざり合って「開化」が実現するのだ。そして「開化」のおかげで、生活は楽になったはずだ。ところが、漱石はそのような楽観的な立場をとらない。

活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生じる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。否昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。(51)

 「開化」は生活を贅沢にもするし楽にもする。しかし同時に競争は激しくなり努力を強いられ不安に陥る。物に溢れて便利になる社会は逆説的に努力を強いる社会であり、漱石は「かえって苦し」いくらいだと主張する。この指摘は、まるで現代社会について論じているかのようだ。漱石の問題的は100年後の現代でも全く古びていない。

文明開化の様式:「内発的」 と「外発的」

 ここまでを踏まえて、漱石は「日本の開化」に話題を移す。開化は「消極的」と「積極的」な二つの活力の相互作用で到達するものであった。ところが、漱石は開化にはもう一つの次元、「内発的」と「外発的」という新たな軸を提示する。

西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。(54)

 余りにも有名な一節だ。当然なのだが漱石のこの発言は、日本の開化の特徴である「外発」性を評価しているわけではなく、現代社会(明治)の問題の起源を「外発的」な開化にみているのである。そもそも「一般的な開化」とは、必要に応じてゆっくりと内側から起こるものであった。例に挙げられている西洋の場合を思い返せば良い。貴族の圧政や機械の発展など、「一般的な開化」は社会の変化に応じて、また社会を変化させながら進むものなのである。文学的な言葉でいえば、「自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すよう」なものであり、自然的であり自発的であり内発的なのである。

 では日本の場合、開化は如何にして起こったのだろうか。江戸の終わりに来航した黒船は、飛ぶ抜けた科学技術の差で日本人を圧倒した。この力量の差に焦った日本人は、外国の技術を学ぶことで、ほかの国ではみられない特異なスピードで文明開化を成し遂げた。ところが文明開化の起源に、その動機に漱石は疑義を呈している。黒船の来航とは、日本に文明開化を強いる、日本の外部からの力の到来であった。つまり日本の文明開化は、内部から自発的に生じた変化というよりも、外部に押し付けられた変化だったのだ。外発的な開花の影響は、日本人が無闇に西洋のものをありがたがる、という点からも確認できる。日本人は西洋のもの(外発的開化の原因)を、理由もなく機械的にありがたがるのである。

これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるということに帰着するのである。(62)

 この現状認識は虚しい。何故ならこれは開化の起源であり、変化することができないからだ。もう一度「開化」を、それも「内発的な開化」をやり直すことはどだい無理な話なのである。

 漱石の洞察と悲壮感は、今日の社会をも正確に捉えている。漱石が看破した内発的ではなくて外発的に開化をしてしまったという日本独自の問題は、いまなお我々に強く問題提起をしているのだ。

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参考文献

夏目漱石『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年

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