『現代日本の開化』要約と解説|内発的な開化とは何か

『現代日本の開化』要約と解説|内発的な開化とは何か

漱石は悲観的?

 夏目漱石は小説もさることながら講演も上手だった。落語的な枕から入り、興味が湧いてきたところでスパッと鋭いことをいう、さてどうするのかと思いきや、しかしどうにもならんといって終わってしまう。

初めの十分間くらいは私が何を主眼にいうか能くわからない、二十分目くらいになってようやく筋道が付いて、三十分目くらいにはようやく脂がのって少しはちょっと面白くなり、四十分目にはまたぼんやりし出し、五十分目には退屈を催し、一時間目には欠伸が出る。

夏目漱石『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年、59頁

『私の個人主義』に収録されている『現代日本の開化』もそういった構成である。だから要点だけをかいつまんで書くことにしよう。

 『現代日本の開化』は文明開化をしたあとの日本がどういう状態にあるのかを捉えた一種の日本論である。結論を先にいってしまうと、講演時の1911年において漱石は日本に対してかなり悲観的だ。

とにかく私の解剖したことが本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。

夏目漱石『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年、66頁

日本を解剖し診断を下したところで「妙案が何もない」と漱石はいう。ではその解剖とはなんだったのか。

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「消極的」と「積極的」な開化

 漱石はまず初めに「開化」を「人間活力の発現の経路」と定義し、この経路が二つあると指摘する。一つは積極的なもので、一つは消極的なものだ。

 消極的なほうは節約だと思えばいい。時間を節約したい、労力を減らしたいといったことは誰しも思う。その結果が電話や汽車を生み出す。

 逆に積極的なほうは消耗のほうだ。例えば汽車に乗っていても時には無駄に歩きたくなることもある。そしてこの消耗活力は学問を含めた「道楽」のことでもある。

 相反する二つの活力、消極的と積極的、節約と消耗のそれぞれが混ざり合って「開化」が実現する。そして「開化」のおかげで生活は楽になったはずだ。ところがである。

活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生じる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。否昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。

夏目漱石『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年、51頁

「開化」は生活を贅沢にするし楽にもする。しかし同時に競争は激しくなり努力を強いられ不安に陥る。かえって苦しいくらいなのだ、という漱石の主張は現在にも響く鋭い指摘だ。

「内発的」 と「外発的」

 そして話は「日本の開化」に移る。ここで漱石は有名な一節をのべる。

西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。

夏目漱石『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年、54頁

「開化」はゆっくりと内側から起こるものだ。それは「自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すよう」なものである。

 翻って日本はどうか。黒船の到来で起こった変化は内部からの変化というより外部に押し付けられた変化だった。外部から押し付けられた変化のせいで、日本では無闇に西洋のものをありがたがる。理由もわからず機械的にありがたがるのだ。

これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるということに帰着するのである。

夏目漱石『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年、62頁

この現状認識は虚しい。どうすることもできないからだ。もう一度「開化」を、それも「内発的な開化」を望むのは無理な話なのである。

 漱石の見立ても悲壮感も今から見ても正しい。漱石が看破した内発的ではなくて外発的に開化をしてしまったという日本独自の問題は、いまなお我々に強く問題提起をしている。

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