「蜘蛛の糸」解説|教訓は何だ?|あらすじ感想・伝えたいこと考察|芥川龍之介

「蜘蛛の糸」解説|教訓は何だ?|あらすじ感想・伝えたいこと考察|芥川龍之介

概要

 「蜘蛛の糸」は、1918年に執筆された芥川龍之介が26歳の時の短編小説。芥川龍之介が手掛けた初めての児童文学作品である。映画化やアニメ化もされている。

 初出は鈴木三重吉の始めた文芸雑誌『赤い鳥』の創刊号である。鈴木は夏目漱石門下であり芥川の先輩である。短編小説「芋粥」を『新小説』に載せて芥川を文壇に手引きしたのも鈴木であり、芥川の人生の恩人である。

 近代文学はほかに、芥川龍之介「河童」「アグニの神」、梶井基次郎「檸檬」、太宰治『人間失格』「走れメロス」、谷崎潤一郎『春琴抄』、梨木香歩『西の魔女が死んだ』などがある。

 本作は「日本純文学の最新おすすめ有名小説」で紹介している。

登場人物

犍陀多:数多くの悪事をはたらいた大泥棒。現在は地獄で業火に燃やされている。過去に一度だけ蜘蛛を踏み殺さないという善行をしていたおかげで、お釈迦様に地獄を抜けるためのチャンスを与えられる。

御釈迦様:極楽に住む。地獄にいる犍陀多の過去の善行を思い出し、地獄を脱出するチャンスを与える。

蜘蛛:御釈迦様の近くを歩いていた蜘蛛。糸を地獄に伸ばし、犍陀多が登って来れるようにする。

名言

後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう

あらすじ

第一章

 ある日のこと、御釈迦様は極楽の蓮池のふちを独りで散歩していた。やがて御釈迦様は立ち止まり、蓮の葉の間から下の地獄を眺めた。地獄では罪人たちがもがき苦しんでいた。御釈迦様は罪人の中に犍陀多かんだたという男を見つけた。

 犍陀多かんだたは人を殺したり家に火をつけたり、色々と悪事を働いた大泥棒であったが、過去に一度だけ善い行いをしたことがあった。犍陀多かんだたは深い林の中で見つけた小さな蜘蛛を踏み殺そうとするが、命を無闇にとるのはかわいそうであると考えを改めて、その命を助けたのだった。

 そのことを思い出した御釈迦様は、地獄から犍陀多を救い出してやろうと考えた。近くにいた蜘蛛を見つけると、一本の蜘蛛の糸を地獄の底へ下ろしたのである。

第二章

 地獄の底の地の池で、犍陀多かんだたは他の罪人と一緒に浮いたり沈んだりしていた。針の山や血の池などの地獄の責め苦によって、流石の犍陀多もただもがいてばかりいた。

 ある時、犍陀多かんだたは何気なく上を見上げると、銀色の蜘蛛の糸が光ながら自分の上に垂れてくるのを発見した。犍陀多かんだたは蜘蛛の糸に縋りついて登れば極楽にはいれると考え、両手で蜘蛛の糸にしがみつき一生懸命に登り始めた。

 しかし地獄と極楽は随分と距離がある。犍陀多かんだたもくたびれて休むつもりで蜘蛛の糸にぶら下がりながら、遥か下を見下ろした。すると、罪人たちが蜘蛛の糸に捕まって登ってきてるではないか。ただでさえ蜘蛛の糸は細いのである。ましてや大勢の罪人の重みに耐えることなどできそうもない。

 どうにかしなければ糸が切れてしまい血の池に落ちてしまうと考えた犍陀多かんだたは、蜘蛛の糸にぶら下がっている罪人に向かって「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と叫んだ。その途端、蜘蛛の糸はきれてしまい、犍陀多かんだたは真っ逆さまに落ちてしまった。

第三章

 御釈迦様は極楽で、この一部始終をじっと見ていた。犍陀多かんだたが落ちて血の池に沈むと、悲しそうな顔をしてまた歩き始めた。自分だけ助かろうとした犍陀多かんだたの無慈悲な心が、御釈迦様からみると浅ましく見えたのだろう。

 極楽の蓮池の蓮はそんな事には頓着しない。ただ良い匂いを溢れさせている。極楽も昼近くになったのだろう。

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解説

芥川龍之介の当時の状況と「蜘蛛の糸」の元ネタ

 まずは、芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を執筆した当時の状況を概観しておこう。

 1916年、芥川龍之介は「ウィリアム・モリス研究」の卒論で東京帝国大学文科大学英文学科を卒業すると、同年12月には横須賀にある海軍機関学校の嘱託教官になった(嘱託教官は身分は本教官と異なるが仕事内容は同じ)。1916年の夏には、古くからの友人である山本喜誉司の姪、塚本文にプロポーズをして、同年12月には婚約を成立させる。塚本文は当時16歳で、芥川龍之介の8歳下であった。塚本文とは2年後の1918年2月に結婚することになる(Wikipediaでは1919年3月になっているが間違い)。

 短編小説「」と「羅生門」の絶賛、さらには就職、結婚と立て続けに喜ばしい出来事が起こり、精神的にも充実していた。海軍機関学校の嘱託教官として多忙の日々を過ごしていたが、この年に「地獄変」「奉教人の死」「蜘蛛の糸」などの名作が生まれている。

 ただ「地獄変」の執筆はかなり苦労したようだ。このように幸福と困難が重なった時期に、文壇の先輩で恩人でもある鈴木三重吉から、雑誌『赤い鳥』の創刊号への寄稿を頼まれたのが「蜘蛛の糸」の執筆経緯である。

「蜘蛛の糸」の元ネタは、ポール・ケーラスの『カルマ』を鈴木大拙が訳した『因果の小車』とされている。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に挿入されている「1本の葱」に着想を得たという説もあるが、現在は信じられていない。

教訓臭さが抑えられた大正時代を代表する児童文学

「蜘蛛の糸」は、非常に高い文学性から、大正時代を代表する児童文学と評されている。

 だが本作は、原典とされる『カルマ』と比べて高い文学性を有する代わりに、教訓深さに乏しい。芥川が意図的に教訓深みの部分を削っているのだ。本作は児童文学として執筆されながら、教訓や結論に読者が安易に飛びつくのを警戒しているようである。

 したがって「結局何が言いたかったの?」と疑問に思った人は、本作の良き読者と言える。本作は安直な結論からは距離を置いている。一度の善行によってチャンスをもらった犍陀多はしかし卑しい心によって救われることはない。では一体この小説で何が問われているのだろうか?

表面的に読み取れる幾つかの教訓と伝えたかったこと

 ひとまず、表面的な教訓を抜き出してみよう。

 第一章で示されるのは、大悪党である犍陀多かんだたの過去の善行である。ここでは「どんなに悪い人でもどこかに綺麗な心をもっているものだ」という教訓が見られる。

 第二章で示されるのは、犍陀多かんだたの過去の善行を思い出した御釈迦様による救済と、犍陀多かんだたの自己中心的な行為による罰である。ここには「善行は他人に慈愛の心をもたらす(=情けは人のためあらず)」と、「他人への憐みがなければ、他人から慈悲を与えられることはない」という教訓がある

 どの教訓も生きていく上で大きな指針になるだろう。善行を積むこと、慈悲の心を忘れないこと、他人に憐れみの心を覚えること。だが、地獄という極限状態にいた犍陀多かんだたの行為に対して、叱責するのは酷というものだ。どれほど悲惨な状態にいたとしても自己犠牲を尊ぶことは非倫理的ですらある。どうやら本作に「極限状態でも他者を思いやれ」という苦しい教訓を見出すのは難しいように思われる。

 では次に、本文を精密に読解することで、芥川が伝えたいこと・伝えたかったことに迫ってみよう。

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考察・感想

上下の運動と御釈迦様の無頓着さ

 本作はテンポ良く流れる単線的な時間と、蜘蛛の糸を媒介にしてつながる極楽と地獄の縦の空間、さらに極楽にいる御釈迦様の散歩という横の空間によって、立体的で躍動感のある物語になっている。ここで縦と横の空間は、本作にとって決定的に重要である。

 下にいる犍陀多かんだたは、上にいる御釈迦様のおかげで一瞬上昇する事に成功するが、邪心が働いてしまい再び下に落ちてしまう。基本的には犍陀多かんだたの上下運動が物語のほとんどを占めているが、その前後で御釈迦様は極楽を散歩をしていて、犍陀多かんだたに意識が向けられるのは一瞬である。

 このように上下の運動は人間の利己主義や慈愛の心などを表していて、そのおかげで躍動感が生まれている。逆に左右の運動はそのような人間的な感性からは程遠い場所にある。だからこそ、左右の運動をする御釈迦様はどこか冷たい印象をうける。

 例えば、「悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。」「御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。」(7)と描写される御釈迦様は、犍陀多かんだたの救済を試みるがそれに執着することはない。犍陀多かんだたに対する御釈迦様の慈悲の心は、蜘蛛の糸が切れたら時点で無慈悲にも終わりを迎える。

 御釈迦様のこの冷淡さは極楽的ともいえる。「極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。」(7)と極楽の蓮も地獄のことには無頓着だ。高い地位のものは下の地位には興味を抱かないし、気になるとしても偶然のことに過ぎない。一見すると慈愛に満ちている御釈迦様の、無慈悲な暴力性が見え隠れしている

伝えたいことは、善き行い見えないからこそ誰かに届くということである

 ここで改めて小説の題名である「蜘蛛の糸」に注目してみると、当然ながら「蜘蛛の糸」が重要な意味を持つと推測される。

 「蜘蛛の糸」は、極楽と地獄を、そして御釈迦様と犍陀多かんだたを繋ぐ役割を果たしている。さらには、犍陀多かんだたが蜘蛛を助けたことが、この話の起点にあるのだから、空間的にだけでなく、時間的にも御釈迦様と犍陀多かんだたを繋いでいることがわかる。

 「蜘蛛の糸」とでてくる前後を確認すると、「蜘蛛の糸」が弱く光っていることが強調されていることがわかる。

 具体的には「銀色の蜘蛛の糸が」(4)「蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら」(6)「この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだ」(6)「細く光っている蜘蛛の糸」(6)といった具合である。「細さ」は犍陀多かんだたが蜘蛛の糸が切れること気にする理由に一役買っているし、「光」は地獄ですがりつく救いの糸の視覚的な効果を高めている。

 このような視覚的な効果に加え、この二つの特徴は「儚さ」を表しているようにも思う。御釈迦様と犍陀多かんだたの関係はを繋ぐのは、犍陀多かんだたの一回きりの善行の記憶という、そもそもが儚いものだった。御釈迦様と犍陀多かんだたは最初から今にも消えそうなギリギリの関係だったのである。

 そしてそれこそが善行の本質でもある。善行は見られることはないし、一般的に人は他人に対して御釈迦様のように無頓着であるため、知りたいとも思われない。時には善行も人に知られて自分に返ってくることもあるが、とはいえそれですら細い蜘蛛の糸のように、簡単に切れて無くなってしまう。とはいえ、一回の善行は決して犍陀多かんだたを極楽に導くほど強くはない。しかし善行を知ることやお返しをすることが義務などではなく極めて儚い行為だからこそ、偶然によって不意に他人に届いたり、たまに自分を救ったりできるのである。

改変された幻の「蜘蛛の糸」

 現在知られている「羅生門」の最後の一文である「下人の行方は、誰も知らない」が、初稿から書き換えられた文であることは有名だが、実は雑誌「赤い鳥」の載った「蜘蛛の糸」も我々の知る文章ではない。

 本作は芥川が執筆した初めての児童文学であった。加えて、まだ子供がおらず児童を具体的に想定することが難しかったため、寄稿した「赤い鳥」の発行者であり児童文学の父とも呼ばれる鈴木三重吉に、容赦のない書き換えをお願いしたのである。

 そういうわけで、雑誌「赤い鳥」に掲載された「蜘蛛の糸」は鈴木三重吉による大幅な改稿がなされている。具体的には、漢字を平仮名にしたり、文末表現を変えたり、改行を増やしたり。

 鈴木による添削のされた「蜘蛛の糸」は、県立神奈川近代文学館に現在保管されている。ぜひ文学館を訪れ、それぞれを比較してみよう。

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参考文献

関口安羲『芥川龍之介』岩波新書、1995年。

「蜘蛛の糸」青空文庫、1997年。

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