概要
『西の魔女が死んだ』は、1994年に発表された梨木香歩の青春家族小説。2008年には実写映画化された。
日本児童文学者協会新人賞、新美南吉児童文学賞、小学館文学賞を受賞した。
亡くなったおばあちゃんの家に向かう間、2年前に1ヶ月一緒に過ごした日々の素晴らしい思い出と後悔を回想する物語。
文学はほかに安部公房『砂の女』、田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』、村上春樹『街とその不確かな壁』、森絵都『カラフル』、志賀直哉「小僧の神様」、星新一「ボッコちゃん」、リチャード・バック『かもめのジョナサン』、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』、辻村深月『ツナグ』などがある。
本作は「日本純文学のおすすめ」で紹介している。
登場人物
まい:イギリス人と日本人のクオーター。喘息持ち。中学校で人間関係が上手くいかず、学校を休むようになる。二年前におばあちゃんの家で1ヶ月間ほど生活する。
おばあちゃん:母方の祖母。まいと母の間で「西の魔女」と呼ばれる。まいに魔女になるための修行をつける。自然を愛し自給自足をしている。
ママ:母親。日本人とイギリス人のハーフ。おばあちゃんと確執がある。まいが学校に行かないことに理解を示す。
パパ:父親。T市に単身赴任中。家族全員でT市に引っ越すと提案する。
ゲンジ:おばあちゃん家の近所に住むおじさん。無遠慮であるため、まいに嫌われている。
おじいちゃん:母型の祖父。おばあちゃんの回想に登場する。おばあちゃんと仲が良かった。
名言
そして、そのとき、まいは確かに聞いたのだった。
まいが今こそ心の底から聞きたいと願うその声が、まいの心と台所いっぱいにあの暖かい微笑みのように響くのを。
「アイ、ノウ」
と。(p.163-164)
あらすじ・内容
西の魔女が死んだという一報が入ったまいは、中学校を早退し、母と一緒に6時間かけて田舎のおばあちゃん(西の魔女)家に向かう。母が運転する車の中で、まいは2年前におばあちゃんと過ごした1ヶ月の生活を思い出していた。
2年前、まいは中学校に進級すると人間関係が上手くいかず、不登校になっていた。ハーフであり同じく学校に馴染めなかった母は、まいに理由も聞かず自由にさせてくれる。
しかし、まいは単身赴任の父との電話の中で母が「昔から扱いにくい子だったわ」と言うのを聞いてしまう。ショックを受けたまいは、喘息の療養も兼ねて、田舎のおばあちゃんの家で生活することにする。
英国人のおばあちゃんは自然を愛し自給自足する魅力的な人物であり、魔女としての能力があった。おばあちゃんはまいを感受性豊かな人として褒めてくれる。まいが「おばあちゃん、大好き」と言うと、おばあちゃんは「アイ、ノウ」の返すのだった。
まいはおばあちゃんから魔女になるための訓練を受ける。超能力とは精神世界のものであるから、魔女になるためには精神力を鍛える必要があると言う。そのためには規則正しい生活と、自分の意思を持つこと、そして決めたことは最後までやり抜くことを意識するように教えられる。
3週間経ったある日、飼育していた雄鶏が殺されているのを発見する。おばあちゃんは野良犬かイタチの仕業だといい、金網で囲むよう近所に住むゲンジに頼む。
まいは昔に父から聞いた死後の世界に不安を覚えており、おばあちゃんにも死について質問する。おばあちゃんは、死とは精神と身体が分離することだから、自分が死んだら精神だけになったことを教えてあげると伝える。
まいはゲンジに嫌悪感を持っており、彼の家の犬を見たとき、雄鶏を囲っていた柵に似た色の毛が付いていたのを思い出す。犯人がゲンジの犬だと確信したまいはおばあちゃんに伝えるも、思い込みはよくないと嗜められる。
まいの父が家に来て、そろそろ家族で単身赴任先のT市に住もうと提案する。最初は拒否しようとするも、おばあちゃんに相談した結果、引っ越すことを決断する。
翌日、おばあちゃんがまいに与えてくれた土地にゲンジが侵入しているのを見つけたまいは、おばあちゃんに文句を言い、怒ったおばあちゃんに叩かれてしまう。その日以来、二人の関係は微妙なものになっていく。
まいは新種の花を発見したとおばあちゃんに報告すると、それはおじいちゃんが好きだった銀龍草だと教えられる。そしておばあちゃんはその花を、おじいちゃんの写真の前に飾る。
家に帰る当日、おばあちゃんはちょっと悲しそうにしていて、まいも素直に謝ることができずにいた。結局、最後まで言葉をかわせず、2年間は時々思い出すのだった。
そして舞台は冒頭のシーンに戻る。おばあちゃんの家に着くと、亡骸の前で母や号泣し、葬儀の手配を進める。
そこにゲンジが銀龍草を持って現れる。おじいちゃんによくしてもらったとゲンジが感謝を述べ、まいはゲンジのことを嫌いでなくなる。銀龍草を飾ろうとすると、汚れたガラスに、西の魔女から東の魔女に宛てた「タマシイ、ダッシュツセイコウ」のメッセージを見つける。
まいはようやく「おばあちゃん、大好き」と言うことができ、おばあちゃんの「アイ、ノウ」の声を聞いたのだった。
解説
祖母ー母ー娘、三世代にわたる女の物語
東の魔女に送られる西の魔女からの最後のメッセージに、私は顔面が崩壊するくらいボロボロ泣いた。あれはずるい、ずるいよ、絶対に泣いちゃうじゃん。
本書は1994年に刊行された梨木香歩の第一作。刊行当初から小学館文学賞など複数の賞を受賞し、累計発行部数が170万部を超えるベストセラーとしていまなお多くのファンに愛読されている。
描かれるのは祖母ー母ー娘の三世代におよぶ女の物語。娘のまいが母の支配圏から離れ、田舎に住むおばあちゃん家で1ヶ月間ほど生活するというのが大まかな流れである。まいと母、母とおばあちゃん、まいとおばあちゃんの関係は、愛で結ばれていると単純化することはできない。そこには愛だけでなく、憎悪と失望が複合的に絡み合っているからだ。
母からの逃走と成長
日本の家族形態は、しばしば母子密着型だと言われてきた。母子密着型とは母と子の精神的距離が近い家族形態を指し、この関係は子が結婚して家を出た後も続くことが多い。
母は子と密着する一方で、父は精神的かあるいは物理的に家から疎外されてきた。まいの父が単身赴任で一人暮らしている間、家庭は母と子だけで形成される。外で働く父と、家で子育てする母。子にとってどちらを精神的な拠り所にするかは明らかである。子にとって母は、絶対的な理解者、あるいは、安心の象徴として存在している。
この母子密着型は、しかしながら双方的な愛の関係だと言い切ることはできない。母子密着型の母子の間には、愛だけなく憎悪も交わされる。双方が互いに離れられず、近づけない、そういった緊張が母子の間には存在しているのだ。
この憎悪には始まりがある。愛によって包まれた子は母を絶対的な理解者だと信じてやまないが、母にとって子は理解の範疇を超えた存在である。子は母のこの不安を直接に悟ることはないが、ひょんなことからそのことを知ったとき、得体の知れない母の他者性に驚愕し、愛の反転物としての憎悪を覚えてしまう。
そのような出来事をまいもまた、父にかけた母の電話で不意に経験する。まいは自分が母にとって「感受性が強」く「生きていきにくい」(p.12)娘であると知り、その言葉が「錨のように重く沈」(p.13)む。この言葉は呪いのようなものだ。まいは何度もこの言葉に立ち戻り、このとき感じた失望を噛み締めることになる。
まいはそれは本当のことだと知っていた。
「認めざるを得ない」
まいは小さく呻るように呟いた。この言葉は初めてつかう言葉だ。まいはちょっと大人になった気がした。(p.13)
だがこの失望が、大人になることの第一歩でもあるのだ。「認めざるを得ない」という大人びた言葉が、母への愛の亀裂のすぐ後に置かれることで、これから生じるまいの成長を予感させる。
考察・感想
新たな自然を求めて
まいにとって「自然」であった母との関係が破壊されたとき、彼女はその外部へと向かわなければならない。その外部を象徴するのがおばあちゃんである。
母子密着の関係において、祖母はその関係の外部として存在している。まいが「わたしの全体を知って、おばあちゃんはがっかりしないだろうか」(p.14)と心配になるのは、母と同様おばあちゃんにも「扱いにくい子」という評価を下されないか不安だからだ。
まいと一緒に暮らせるのは喜びです。私はいつもまいのような子が生まれてきてくれたことを感謝していますから(p.18)
このおばあちゃんの言葉は、まいに直接言われたのではなく、母に向かって投げかけられたものであり、「扱いにくい子」を聞いたときと同じシチュエーションであるがゆえに、この傷を癒すことができる。
まいと母の母子密着関係にある「自然」の崩壊は、いわばそれが「人工」であることを明らかにした。この「自然」の崩壊の出発点には、学校という「人工」で負わされた傷があった。その傷を癒すために「自然」を求めて母と暮らす「家」に閉じこもったまいは、しかしながら「自然」であった「家」ですらも「人工」であることに愕然とする。だから彼女はこの傷を、新たな「自然」を発見することで回復しようとする。おばあちゃんが自然に囲まれた田舎に住み、自給自足で暮らしているのは偶然ではない。
「自然」の外部と魔女になるための訓練
「おばあちゃんーまい」の関係には、「母ーまい」とは違う心地よい距離がある。
それを洗って、ざるに入れておいて下さい。(p.19)
おばあちゃんのキチッとした喋り方や、おばあちゃんが英国人でまいが日本人(クオーター)であることが、祖母子が密着する可能性をあらかじめ排除する。そして適切な距離があるからこそ、母に見えなかったまいの素晴らしい側面が、おばあちゃんの目にはありありと映るのだ。
この田舎の暮らしはまさに新たな「自然」の構築そのものであった。だからおばあちゃんはまいに勝手にできる土地まで与えてくれた。
けれど、新しくおばあちゃんとまいの間にできた「第二の自然」は、ゲンジという外部によって常に脅かされている。まいはゲンジに汚いや醜いといった生理的な嫌悪感を示すのはそのためだ。
それを聞いて、まいは肩の辺りにもひどく重いものを感じた。ゲンジさんが来る。ミントティーの力もここまでだ。(p.89)
自分とおばあちゃんの間にできたまいと母との関係にも似た新たな「自然」は、おばあちゃんがゲンジと親しいことによって破られてしまう。新たな楽園に生じた他者であるゲンジは、「自然」の破壊者としてまいの前に立ちはだかる。
そしてもう一つこの自然を破るものがあるとすれば、それは「死」である。だからまいは鷄の死を発見したあと、これまで恐れてきた「死」の恐怖に動揺する。
幼い少女が望むものを距離のあるおばあちゃんは的確に把握している。そして自分にはまいが求めている「自然」を与えられないことも。だからおばあちゃんは魔法使いになる訓練として、「精神力が必要」(p.55)と説くのだ。
おばあちゃんの言う精神力っていうのは、正しい方向をきちんとキャッチするアンテナをしっかり立てて、身体と心がそれをしっかり受け止めるっていう感じですね(p.57)
精神力を鍛えきれなかったまいは、ゲンジという外部を受け入れられず、「第二の自然」も崩壊させてしまう。けれど、おばあちゃんに教わった訓練の習慣は、新たな学校という「人工」の社会で力強く生きる術を与えてくれた。
おばあちゃんが「あんな汚らわしいやつ、もう、もう、死んでしまったらいいのに」(p.145)というまいの発言を聞いて、咄嗟に彼女の頬を叩いたことは、双方にとって「第二の自然」が崩壊したことを意味していた。でも、それはおばあちゃんがまいを見捨てたということにはならないし、逆にまいがおばあちゃんを嫌いになったということでもまたありえない。
ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ
オバアチャン ノ タマシイ、 ダッシュツ、 ダイセイコウ(p.162)
おばあちゃんがまいに教えてくれた魔女としての生き方。それは身体ではなく、精神を鍛えることである。彼女はその精神の独立性を、死後になってもまいに示そうとした。「おばあちゃん、大好き」(p.163)。この時、まいは2年の時を経てようやくおばあちゃんとの和解をできたのだ。2年越しに伝えられたこの言葉は、死者に届くのだろうか。そして、まいは魔女になれたのだろうか。
そして、そのとき、まいは確かに聞いたのだった。
まいが今こそ心の底から聞きたいと願うその声が、まいの心と台所いっぱいにあの暖かい微笑みのように響くのを。
「アイ、ノウ」
と。(p.163-164)
亡くなった西の魔女の声は、東の魔女にはっきりと届いている。