ボルヘス『隠れた奇跡』解説・考察|奇跡は現れるのか

ボルヘス『隠れた奇跡』解説・考察|奇跡は現れるのか

神ー私ー作品の三対

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 ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『伝奇集』には19編の短編が収められている。どの作品もボルヘスの世界観が鮮明に描かれていて読み応えがあるため、ボルヘスの小説を読んだことがない人にお勧めだ。後世に多大な影響を与えた『バベルの図書館』も収められているのだが、今回はちょっとマイナーな『隠れた奇跡』についての評である。簡単なあらすじから。

 1939年3月14日のプラハ、『仇敵たち』の作者、ヤロミーク・フラディークは長いチェスの夢を見る。翌15日の夜明け、プラハに第三帝国の前衛が乗り込んでくる。19日、官憲が告発状を受け取り、同日フラディークは逮捕され、29日の朝9時に銃殺刑が執行されることが決定される。
 フラディークは戯曲『仇敵たち』が未完であることの後悔と、死刑に対する恐怖に恐れ慄きながら猶予期間を過ごす。死刑執行当日29日の明朝、夢の中で偏在する声から「そなたの仕事のための時間は許された」と告げられる。
 死刑が執行され銃弾が発射された瞬間、物理空間が停止する。停止した世界で丸一年かけて『仇敵たち』を完成させる。完成の瞬間、物理空間ががふたたび動き始めフラディークは死去する。

 あらすじを簡単に追うだけでも分かるように、題名の『隠れた奇跡』の「奇跡」は三重に「隠れ」ている。

 一つ目の「隠れ」は、この小説最大の「奇跡」である物理空間の停止である。この現象がフラディークしか認知できない点で奇跡は「隠れ」ている。二つ目の「隠れ」は、完成された『仇敵たち』である。『仇敵たち』はフラディークの思考の産物であって単に妄想でしかない。この戯曲の内容はフラディーク以外に誰も知ることができない。つまり奇跡の間の作られたが故に戯曲『仇敵たち』は「隠れ」ている。さらにこの二重の奇跡が誰にも知られていないことで、この奇跡を起こした偏在する声の持ち主=神の存在が「隠れ」ていることになる。「奇跡」の三重の「隠れ」は「奇跡」の重さを反転させ、ある種の軽さを生んでいる。奇跡が起こったが故に実は何も起きていないのだ。これはフラディークの死の儚さや『仇敵たち』に捧げられた時間の無意味さだけでなく、この小説自体の空虚さを表している。

 死刑される前夜フラディークは闇の中で神に以下のように話しかけていた。

仮にわたしがなんらかの意味で存在するものであり、仮にわたしがあなたの反復と錯誤のひとつであるならば、わたしは『仇敵たち』の作者として存在するものです。わたしに根拠を与え、あなたに根拠を与える可能性を持ったこの戯曲を完成するためには、さらに一年が必要であります。

『伝奇集』岩波文庫、1993年

 ここに無限に循環した存在証明の不可能性が横たわっている。神がファラディークに奇跡を授け、フラディークが未完の戯曲『仇敵たち』を完成させ、それゆえに産み落とされた『仇敵たち』自体がフラディークと神を根拠づける。作品と私と神はそのような三角関係なのだ。しかし完成した『仇敵たち』は日の目を見ることはない。したがって「奇跡」の三重の「隠れ」は、神、ファラディーク、『仇敵たち』が無意味であることを証明している。『仇敵たち』は完成されず、フラディークは意味を持たず、神は存在しないのだ。

フィクションの隠れた可能性

 しかし驚くべきことに「隠れた奇跡」は、単純な事実ーー『隠れた奇跡』が存在しているということーーによって。三人称で書かれたこの小説はフラディークしか知り得ない奇跡が外部に開かれていることを物語り、末尾の一九四三年という日付はフラディークが処刑されてから4年後に書かれたことを示している。

 勿論このことは『隠れた奇跡』が史実ではなく、ボルヘスが作り出したフィクションであるという呆れるほど自明な事実を意味しているに過ぎない。ところが『隠れた奇跡』で描かれたフィクションのおかげで、一つの可能性が消え、あるいは生まれているのだ。どういうことか。

 フラディークは死刑までの10日間、死刑の光景を詳細に想像する。

やがて彼は、現実はおおむね予想とは一致しないことに気づいた。妙な論理だが、ある情況の細部の予見によって、それが起こるのを妨げると結論した。彼はこの心許ない魔術的論理に忠実に、まさに起こらしめないために恐ろしい細部を練り上げていき、当然のことながら最後には、それらの細部が予言となることを恐れた。

 想像と現実は一致することはない。フラディークはこのテーゼを逆用し想像することで、将来訪れる免れ得ない残酷な未来を回避するわずかな可能性に賭けていた。想像した未来は現実には決して起こり得ない。全ての死のパターンを想像することができれば死すべき未来は消失させることができる。

 重要なことは、想像と現実は一致しないというこのテーゼは、未来とは逆の方向、つまり過去への方向にも伸びているということである。想像することは将来の可能性を潰すことと同様に、過去に起こったであろう可能性も潰している。繰り返しになるがのだ。

 神は訪れた。が、明かされはしなかった。神は不条理で無意味で存在しない。しかし『隠れた奇跡』が書かれることによって、書かれたようなフラディークの死の可能性は消滅している。「隠れた奇跡」がが故に書かれたような死はフラディークに訪れなかったのである。

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