カルヴィーノ『パロマー』解説|パロマーの釈明|あらすじ考察|感想

カルヴィーノ『パロマー』解説|パロマーの釈明|あらすじ考察|感想

概要

 『パロマー』は、1983年に発表されたイタロ・カルヴィーノの短編集。カルヴィーノはほかに『木のぼり男爵』がある。

 中年男性で職業不詳のパロマーは浜辺で、街で、沈黙の中で思索にふける、その様子が事細かにそして淡々と描かれる物語。

 海外文学はほかに、カフカ『変身』、サン=テグジュペリ『星の王子さま』、魯迅『故郷』、ヘッセ『少年の日の思い出』、ル=グウィン『オメラスから歩み去る人々』、フロベール『ボヴァリー夫人』などがある。

 また「海外小説のおすすめ有名文学」で、おすすめの海外文学を紹介している。

あらすじ

 パロマーは散歩がてら浜辺にむかうと、浜辺には普段は滅多に人がいないのだが、若い女性が一人で胸をあらわにしながら日光浴をしている。パロマーは女性の心情に配慮をして、女性の胸が目に入るやいなや目を逸らす。こうすることでパロマーと女性の間にある境界を礼儀正しく尊重していること示そうとする。

 しかし目を逸らす行為自体は「あらわな姿体を想像して、気をもんでいることが前提になっている」し、「胸を見ることが非合法だと考えるしきたりを強化することになってしまう」とパロマーは考える。彼女にそうとられては堪らない、ということで散歩からの帰り道では、あらわれた胸に反応することはせず、あたかも彼女の胸が風景のなかに溶け込んでいるように行動し、それは概ね成功する。

 ところがパロマーはまた悩むことになる。というのも女性の身体を風景の一部として扱うのは人間をモノと見做しているようなもので、ひょっとするとモノを女性特有の性質とみなす男性優位の習慣の反復ともとれてしまうのだ。そこでもう一度来た道を戻り、彼女の胸が視界に入った途端、飛び上がるような反応、つまり敬意と称賛を表す態度を示そうとする。

 しかしこの視線の滑空ですら、優越感の現れであり胸の存在と意味の過小評価であるかも知れないと考えたパロマーは、「視線は、風景をあやうげにかすめながら、ことさら慎重に胸の上で停止することになるだろう。だが、すべてのものに対する慈愛と感謝の発露に急いでそれを巻き込もうとする」態度で女性に向かって歩いていく。女性は近づいてくる男性に驚き「苛立たしげに肩をすくめると遠ざかっていった」。

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解説

意図が通じないから無限の釈明へ

 ことがある。自分の行為によって他人を傷つけてしまう可能性がある状態を想像してみよう。この場合、行為によって他人を傷つけてしまえば、その行為がどのような意図であろうと、行為者の人間性まで疑われてしまうことがあることを我々はよく知っている。善意のつもりが悪意に取られることは日常茶飯事だ。だから行為はリスクでしかない。このリスクにさらされるとき、我々に可能な選択肢は二つある。一つは意図が明確な行為をすること、もう一つは行為を止めてしまうことである。後者は突き詰めてしまえば家に閉じこもるしかない。だからパロマーは前者を選択した。ところがそこに罠がある。意図が明確な行為ですら客観的にみればどのようにも解釈できてしまうのだ。誰から見ても意図が一意に決まる絶対的な行為など存在しない。そのことに気がつくと無限の行為の後退を迫られることになる。AはXと解釈される恐れがあるのでAではなくBを行うが、BはYと解釈される恐れがあるのでBではなくCを行うが、CはZと解釈される恐れがあるのでCではなくDを行うが……。

 意図したとおりに解釈してほしいという想いは、しかし、意図が単に行為で表象されるが故に断念させざるを得ない。そして一つの行為に対して(パロマーにいたっては歩くという行為にすらなのだ!)無限の釈明を付けなければならなくなる(XXXの議論は知ってますが……、ZZZとYYYがいっているのは重々承知ですが……、)。

 しかしパロマーの場合は少し特殊である。パロマーと女性との距離が離れているため弁解が封じられているのだ。したがってパロマーは視線の動き、反応の仕方などの細かい動作で彼の高尚な意図を彼女に伝えなくてはならない。もちろんそれは不可能である。だからパロマーは最後に、女性の胸に敬意を払いつつ胸を風景に溶け込ませながら、一方で胸をモノとして扱わないという高度なテクニックをもってゆっくりと近づいていくことになる。

考察

ズレとアイロニー

 パロマーが危惧したように如何に高尚な意図があろうと、それは客観的には判断がつかない。あらゆる可能性を考慮し配慮を重ねて打ち出された近づくという行為は、あろうことか変質者が近づいてきたことと見分けがつかないのだ。

風俗紊乱という廃れたはずの伝統の重みのせいで、せっかくの最高に啓発的な意図が正当に評価されなかったのだ、パロマー氏は苦い思いで結論を下した。

 幾重にもなる解釈を背負った崇高な「散歩」という行為は、しかし、側からみれば単なる「散歩」でしかない。女性の胸を、男性優位の習慣の反復を逃れ、意識せず、風景に溶け込ませず、モノとして扱うのでもなく、肉体を賛美し、慈愛と感謝をしながら、非合法ではないように、眺める行為。それはパロマーからすれば「最高に啓発的な意図」に基づく行為だ。しかし女性からしたら近づいくる挙動不審の男性は間違いなく不審者でしかない。行為と意図、主観と客観がずれたところに、くすりと笑えるアイロニーが現れている。

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