概要
『モモ』は、1973年に刊行されたドイツの作家ミヒャエル・エンデの児童文学。1986年に西ドイツ・イタリア制作により映画化された。
1974年にドイツ児童文学賞を受賞した。日本の発行部数は本国ドイツに次ぐ。
聞き上手の少女モモが時間どろぼうに立ち向かう物語。
小説はほかに、星新一「ボッコちゃん」、梨木香歩『西の魔女が死んだ』、谷崎潤一郎『春琴抄』、中島敦「山月記」、辻村深月『ツナグ』などがある。
登場人物
モモ:10歳くらいの女の子。人から話を聞き出す才能がある。廃墟になった円形劇場の舞台下にある小部屋を住居としている。
道路掃除夫のベッポ:掃除夫。特別な友だち。仕事が丁寧で、何事にも時間をかける。
観光案内のジジ:観光案内人。特別な友だち。口が達者で、観光客に作り話を聞かせてお金を稼いでいる。
左官屋のニコラ:古い友だち。モモの住居を住みやすいようにしてくれる。
居酒屋のニノ:居酒屋の店長。古い友だち。
マイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラ:通称、マイスター・ホラ。人間に時間を配分している。灰色の男たちには見つかることのない「どこにもない家」に住んでいる。
カシオペイア:カメ。30分後まで予知ができる。甲羅に文字を浮かび上がらせることができる。「どこにもない家」にモモを案内する。
灰色の男たち:時間どろぼう。人間から時間を盗み、時間の花にして貯蔵庫に保管している。それを葉巻に加工し吸うことで存在している。
名言
いいんだ——これでいいんだ——なにもかも——おわった——(p.390)
あらすじ・ネタバレ・内容
モモとその友だち
都会から離れた場所に、松林に覆われた円形劇場の廃墟がある。これの舞台下の小部屋に、10歳くらいのモモという女の子が住んでいた。モモは施設から逃げ出してきたらしく、ここを自分の家だと言う。
近所に住む人は、この部屋を住みやすいように改築したり、食べ物を持ってきたりする。そして引越し祝いパーティーを開くことで交流が始まる。
モモには人の話を聞く才能があった。ももがいると想像力が膨らみ、素直に話すことができた。左官屋のニコラと居酒屋のニノの喧嘩も、モモがいるだけで、仲直りすることができた。子供たちのごっこ遊びも、モモがいるだけで大冒険へと変貌を遂げた。
モモには2人の特別な友達、道路掃除夫のベッポと観光ガイドのジジがいた。ベッポは何事も時間をかける人で、自分の考えをモモにだけはゆっくりと伝えていた。一方でジジは、溢れ出る作り話で商売をして、大金持ちになる夢があった。
灰色の男たち
時間どろぼうである灰色の男たちは、都会の人たちに「時間貯蓄銀行」の口座を開かせ、時間を節約するよう口説いていた。騙された人々は、常に時間に追われる日々を過ごすが、灰色の男たちのことは忘れてしまう。
時間を節約するようになると、怒りっぽく、不機嫌になってしまい、街は高層ビルが建てられていく。次第に廃墟には人が寄り付かなくなり、そのことをジジとベッポに相談する。
大人たちは時間に追われる一方で、廃墟を訪れる子供たちは増えていた。しかし高価なおもちゃを持ってくる子供が現れ、昔のように想像力を働かせる遊びができなくなっていく。
友人のニコラや居酒屋のニノも仕事に大忙しで、金を落とさない常連の客を追い出そうとする。本当はこんなことをしたくないんだと告白したニノは、翌々日、かみさんと共にモモの元を訪れる。ニノは常連客に謝りに行き、また来てくれるよう頼んでまわったという。
モモも古い友達を訪ね、もう一度戻ってくるよう約束を取り付ける。しかしモモの行動は、灰色の男たちの邪魔になっていた。そこで灰色の男がモモの元に訪れ、人形や服を与えようとする。
灰色の男の話に全く心動かされないモモは、聞き上手の力によって、灰色の男の本心を引き出してしまう。時間貯蓄銀行などについて話しすぎた灰色の男は、忘れてくれと言い残しその場を去るが、モモは灰色の男のことをジジとベッポに話す。
ジジとベッポ、それに子供たちは、灰色の男たちの正体をみんなに知らせるべく街でデモを開き、円形劇場に集まるよう呼びかける。しかし時間に追われた大人たちは、誰一人として円形劇場に足を運ばなかった。夜になってベッポはゴミ山に向かうと、灰色の男たちが裁判を開いていた。モモに本心を離してしまった男は、有罪判決を受け葉巻を奪われたあと消えてしまう。
モモは甲羅に文字が浮かび上がるカメのカシオペイアと出会い、街へと導かれる。灰色の男たちはモモを捕まえようと円形劇場を訪れるが、モモがいないため総動員で彼女を探す。
モモたちは時間の境界にある白い地区に入る。そこは早く進もうとすると遅くなる不思議な場所だった。モモたちはゆっくり歩いていたため、早く前に進む。曲がり角の先は「さかさま小路」と呼ばれ、後ろ向きに進むと「どこにもない家」に到着する。
灰色の男の幹部が収集され、モモを孤立させる作戦が立てられる。彼女が孤独に苦しむタイミングを見計らって、友達を交換条件に「どこにもない家」への行き方を教えてもらおうとする。
カメの案内で銀髪の老人のマイスター・ホラと出会い、朝食をいただく。ホラは灰色の男たちが時間どろぼうであることを教え、人間の時間を取り戻す必要性を語る。ホラは時間の生じる場所にモモを連れていく。そこには黒い水があり、上に「時間の花」が浮かんでいた。
時間の花
モモは目が覚めると、こちらの世界では1年ほど経っていて、カシオペイアと共に円形劇場にいた。その間に、灰色の男たちはジジを物語の創作者として有名人に仕立て上げ、大金を稼がせていた。また、ベッポを精神病棟に隔離させ、開放する条件として総額10万時間を貯蓄する約束を取り付け、ひたすら働くようになる。
子供は「子どもの家」に入れられ、時間貯蓄家になるよう教えられたため、待てども待てどもモモの元に誰も来てくれない。モモはニノの酒場に行くと、時間に追われた客でごった返していた。ニノはモモとの再会に喜ぶも、時間に追われているため、ジジとベッポ、それに子供の現在についてしか教えることができない。
次にモモはジジの家に向かう。ジジは有名人となり仕事に追われていた。彼は灰色の男たちに悪い影響を受けながら、その生活から抜け出すことができない。モモは数ヶ月間も一人で生活し、深い孤独を感じるようになった。
弱りきったモモの元に灰色の男が現れる。モモは逃げるため街の中を歩き回り、三輪トラックの荷台で寝てしまう。苦しむ友達の夢を見たモモは、勇気を出してマイスター・ホラのところに案内すると灰色の男に伝える。
ホラの元への道を知っているのはカシオペイアだけだと知ると、灰色の男たちは総力を上げて探そうとする。立ち尽くしているモモの前に、カシオペイアが現れホラのところに案内する。しかし、二人の会話を聞いていた灰色の男が、こっそり後をつけてくる。
灰色の男は急ごうとしないのでモモたちに付いて来れるが、「さかさま小路」で振り返ったモモに見つかり、尚且つ消滅してしまう。ホラは、灰色の男は「時間の花」を冷凍して貯蔵庫で保管し、葉巻にして吸うことで存在できると、モモに説明する。その後、時間を止めた隙に奪われた「時間の花」を奪還せよという指令を受け、1時間分の「時間の花」をモモに渡す。
時間を停止すると、灰色の男は「どこにもない家」に侵入するも、時間が止まっていることを知って慌てふためく。灰色の男たちは互いの葉巻を奪い合い、数を減らしていく。モモは街に出て、ニコラが指差す土管の中の地下道に向かう。
ある広間では、時間節約のために、議長の権限で6人まで人数を減らすことにする。その隙にモモは「時間の花」で貯蔵庫の扉に触れ施錠する。灰色の男たちから逃げ彼らが消滅すると、再び貯蔵庫に戻る。
貯蔵庫が暖かくなると、「時間の花」が解凍し、持ち主の時間として戻っていく。春の嵐と共に地上に戻ったモモは、ベッポに再会できる。子供たちは時間を気にすることなく遊びだし、円形劇場ではモモと友達が祝賀会を開くのだった。
解説
お喋りに興じた古き良き時代
1973年にドイツで刊行され、その後またたくまに世界各国に翻訳された本書は、いまなお世界中で愛読される児童文学である。日本では、小泉今日子が本書のファンであることを公言し、広く読まれるようになった。その影響もあってか日本では幅広い世代にファンがいて、発行部数は本国ドイツに次いで二番目に多い。
本書は、「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」(p.7)。女の子は主人公のモモのことで、時間をめぐって彼女が対決するのは、時間どろぼうこと灰色の男たちである。
むかし、むかし、人間がまだいまとはまるっきりちがうことばで話していたところにも、あたたかな国々にはもうすでに、りっぱな大都市がありました。(p.11)
この始まりには、数百年とか数千年前といった途方もない時間を隔てた過去への憧憬がある。この「りっぱな大都市」には、「人びとがあつまってはおしゃべりをし、演説をぶち、話に耳をかたむける、うつくしい広場があ」り、「とりわけ大きな劇場もそういうところにはあった」(p.11)と言う。円形劇場と呼ばれるこの大きな劇場は、人が集まりお喋りをすることに時間を惜しまなかった古き良き時代の象徴である。
円形劇場が廃墟へと変形していることは、時間を気にせずお喋りに興じる感性が失われてしまったことを意味している。現代においておしゃべりは、最も無駄なことの一つである。お金にもならない、知識にもならない、何も生産しないその行為は、時間に余裕のある時代の特権であった。
聞く力
モモが住み着くのは廃墟となった円形劇場の地下である。施設を抜け出した10歳の少女が主人公たり得るのは、喋りが上手いからでも魅力的だからでもない。彼女が持つ才能は、聞くことである。
この行為は、単純であるが故に強力だ。喋る行為は大抵の場合一人では成り立たない。喋る者の先には必ずそれを聞く者が必要である。聞く者によって話す内容が変わるという事実を一つとっても、話すことが聞く者に依存していることがわかる。聞く者の聞く能力が高ければ、話す内容もより濃密により豊かになる。
時間を気にせず喋る者がいなくなった時代に、真に求められる人は喋り上手ではなく聞き上手である。聞き上手を前にすると人々は、通常話すことのないことまで喋ってしまう。想像の翼が羽を伸ばし、心の内に抱え込む秘事を口にしてしまう。だから聞く力は、幸福の源である一方で危険でもある。時間の中を豊かに生き想像力に富む者たち、道路掃除夫のベッポ、観光案内のジジ、子供たちにとってモモは至福の存在であり、人々から時間を奪おうとする灰色の男たちにとってモモは最大の脅威になる。
考察・感想
資本主義の病
円形劇場を象徴に栄華を極めた過去の都市も、いまや寂れた郊外に追いやられている。そこで対比して語られるのは、時間に追われた現代の都会である。この街で暗躍する灰色の男たちは、近代資本主義の病理を象徴している。いつでもどこでもわずかでも時間を節約しなくてならない。この命題に従わない者は、現代を生き抜くことはできない。
節約した時間は何かのために使われるわけではない。何かのために時間が必要でだから時間を節約するということではなく、時間の節約それ自体が自己目的化している。節約するために節約するといった無限ループは、強迫観念となって人々を蝕んでいく。
なあモモ、いい子だから、またいつかべつのときにおいでよ。おまえのこれからのことについて相談にのるひまは、いまはほんとうにないんだ。ここで食事をするのは、いつでもできるんだよ、わかってるね。(p.293)
ニノが時間を節約してお金を貯め続けたのは、モモや子供と幸せな時間を過ごすためではなかったか。だが、ひとたび時間に追われて余裕を無くしてしまうと、節約していないことが人を不安にさせる。
この指摘はまさに現代を生きる我々にも鋭く刺さる。仕事でせっせと稼いだお金は、いつしか貯めるために稼ぐようになる。自由な時間を得るために時間を節約していたはずが、時間をかけて味わう対象にもタイムパフォーマンスを求めてしまう。映画や動画の倍速視聴が話題だが、それ自体は決して悪いものではない。他に時間をかけて味わうべき対象があるならば、動画にかけられる時間が少なくなるのは仕方がない。問題なのは倍速視聴して節約できた時間が決して他に使われることがないことだ。時間を節約する人は、何に対しても時間を節約してしまう。そしていつしか時間を節約すること自体が目的となってしまうのだ。
節約の末路
時間の節約の自己目的化、その罠に灰色の男たちに唆された都会の人々だけでなく、灰色の男たちも囚われている。時間の節約を迫る立場から迫られる立場へと追いやられた時、灰色の男たちはとても脆い。
「はやく節約をはじめればそれだけ長持ちする。」さっきの男はかまわずつづけました。「わたしの言う節約がなにを意味するか、諸君はおわかりだろう。われわれのうち少数だけがこの破局を生きのびられれば、それでじゅうぶんだ。ことは冷静に考えねばならん!したがって諸君、ここにいる人数ではおおすぎる!ずっとへらさなくてはいけない。これこそ道理の命ずるところだ。では諸君、はしから番号をかけてくれたまえ。」(p.383)
時間を節約するためならば人数を節約することも厭わないとは、本末転倒も甚だしい。だが、節約することが目的化した灰色の男ならば、そのような転倒も違和感なく行われてしまう。そしてそれこそが、結果として自らの破滅を招いてしまうのだ。
あんなふうにきびしく数をへらしてしまったのは、いささか軽率だったと思うね。そうしてみたところで、このさき得をすることはなにもない。(p.285)
結局、節約を信条とした灰色の男たちは、節約をしすぎたことで消滅してしまった。現代を生きる人々も時間を節約することで得たのは、自由な時間ではなく、節約せねばという強迫観念だけであり、豊かな時間だけが失われていく。我々は時間に囚われない生き方を取り戻すことができるのだろうか。おそらくそのための第一歩は、時間に追われていると認識することであろう。時間に囚われる生き方以外にも豊かな時間の過ごし方があるということ、それを本書は教えてくれている。