概要
『坊っちゃん』は、1906年(明治39年)に『ホトトギス』第9巻第7号の付録として発表された夏目漱石の長編小説。夏目漱石の代表作の一つであり、人情ものの小説として多くの人から意されている(他の夏目作品:『こころ』「夢十夜」「現代日本の開化」)。
東京で育った不器用な青年が、愛媛の教師になり正義のために理不尽と戦う物語。
純文学にはほかに安部公房『砂の女』、遠藤周作『沈黙』、村上春樹『海辺のカフカ』、小川洋子『博士の愛した数式』、芥川龍之介「鼻」「羅生門」「河童」「蜘蛛の糸」、宮沢賢治「注文の多い料理店」などがある。
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登場人物
坊っちゃん:本小説の主人公。
清(きよ):坊っちゃんの家の下女のお婆さん。主人公を溺愛しており、最終的に同じ家で暮らすことを夢見ている。
山嵐(やまあらし):本名は堀田。山嵐はあだ名。坊っちゃんの同僚の数学教師。坊っちゃんと気が合う。
狸(たぬき):坊っちゃんの中学の校長。狸はあだ名。
赤シャツ:赤シャツはあだ名。坊っちゃんの中学の教頭。文学士である。
野だいこ:本名は吉川。野だいこはあだ名。坊っちゃんの同僚の美術教師。
うらなり君:本名は古賀。うらなり君はあだ名。坊っちゃんの同僚で中学の英語教師。
マドンナ:うらなり君の婚約者。
あらすじ
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る」という有名な書き出しで始まる。主人公の坊っちゃんは、冒頭通りの江戸っ子気質で真っ直ぐな性格である。子供の頃はその性格のせいで周囲から疎まれ続けていたが、下女の清だけはかわいがってくれていた。
父親が卒中で亡くなった年の四月に、坊っちゃんは私立の中学校を卒業した。兄は六月に商業学校を卒業して会社に就職し、九州に行くことになったので家を売らなければならなくなった。兄は坊っちゃんに600円を渡して、九州へと発っていった。坊っちゃんは600円をどう使おうか考えていたが、物理学校の前で生徒募集のチラシを見つけ入学することにした。三年で卒業すると、四国の旧制中学校の教師の職を紹介される。坊っちゃんは「親譲りの無鉄砲」で教師になることにする。
四国の中学校に赴任して、そこの教頭の赤シャツや数学主任の山嵐、英語教師のうらなりなどと出会う。そして、生徒とのトラブルに巻き込まれながら、教師生活を送ることになる。
やがて坊っちゃんは、赤シャツがうらなりの婚約者であるマドンナへの恋からうらなりを左遷したことを知る。それに憤った坊っちゃんは山嵐と意気投合し、赤シャツに天誅を加えることを決意する。陰謀により山嵐が辞職に追い込まれるなか、赤シャツを監視し続け、ついに芸者遊び帰りの赤シャツを取り押さえ、ポカポカと懲らしめることに成功する。
その後すぐに辞職した坊っちゃんは東京に戻ってくる。帰郷後、清を下女として雇い街鉄の技手となって暮らすこととなる。
解説
「『坊っちゃん』論」について
『坊っちゃん』は同時代評では単純で愉快な物語として読む立場が多かった。例えば「呑気の如くして神経質なる人物を描き、滑稽の様にて真面目なる情緒(シュティムング)を写すこと蓋し氏が独断の場か」(峙樓「無題録」『帝国文学』明治39(1906)年5月10日)。なるほど、確かにあの圧倒的語彙と独特なテンポ、それにストーリ展開の面白さなど、とにかく笑うに事欠かない。
その後、そういった定説を背景にしてさまざまな『坊っちゃん論』が登場する。唐木順三は「要するに『猫』と『坊っつちゃん』は、お調子にのつた漱石の出まかせの余技にすぎない」としながらも「そこに匂い出てゐる封建的正義感と癇癪は、同時に彼の骨にくっついてゐるものに他ならない」(「夏目漱石論」『現代日本文学序説』春陽堂、昭和7年)とし、作品としては評価に値しないとしながらも、漱石本人の気概が表れていると一定の評価を与えている。この頃はこういった「作家論」が優勢だった。作者の漱石と作品世界を結びつけて、『坊っちゃん』を理解しようとしたのである。
「作家論」の流れとは別に、作品自体を批評しようする「作品論」の流れも生まれてきた。その始まりが伊藤整(「解説」『現代日本小説体系第16巻』河出書房、昭和24年)と大岡昇平(「夏目漱石 坊っちゃん」『一冊の本 全』雪華社、昭和42年)である。彼らはこの作品自体を論じ、同時に高い評価を与えた。これに続くように昭和40〜50年代になると、いわゆる「作品論」の時代が始まる。
そんな中で斬新な解釈を提唱したのが平岡敏夫である。彼は「『坊っちゃん』試論ーー小日向の養源寺」(『文学』昭和46年1月)でこの作品は決して明るい作品ではなく、「末尾の痛切な悲しみの意味」こそが重要である悲しい作品だと述べた。坊ちゃんは最後に逃走する。坊っちゃんだけでなく、山嵐と清もハッピーエンドとはならない。平岡はこの3人に「佐幕派氏族という一点」の共通性を見出し、それこそ坊っちゃんの「批判精神」だと述べる。つまり、端的に言って虚しい話なのだ。
他にも坊っちゃんの年齢(24歳)に注目し、漱石より15歳ほど年下の坊っちゃんと、同じくらい年上の清を作品内に配置することで、妻子を引きうけた現在の状況から、過去と未来を繋ぐ生について思考を巡らしたとする山田晃の「『坊っちゃん論』」(『作品論 夏目漱石』双文社出版、昭和五一年)(また山田は父親の冷淡さは無私の愛の裏返しとして〈親の愛に恵まれない坊っちゃん〉という定説に、初めて反駁した論を展開している)。「おれ」一人称の語りの機能を論じた中島国彦の「坊っちゃんの性分、『坊っちゃん』の性格ーー一人称の機能をめぐって」(『日本文学』昭和53年11月)。坊っちゃんは本当に江戸っ子なのかという問いに取り組んだ小谷野敦「『坊っちゃん』の系譜学ーー江戸っ子・金平・維新」(『季刊 文学』、平成5年7月)などがある。とにかく論ずるに事欠かない小説である。
坊っちゃんは愉快な話かーー平岡敏夫の研究
ここでは、革新的な見方を提示した、平岡の「『坊っちゃん』試論」での解釈を覗いてみることにしよう。
最後の場面で坊っちゃんは東京に帰って街鉄の技手になるところで話は終わるが、平岡は、ここで、街鉄でも正義を振り回して辞職するのではなければそれはもはや坊っちゃんではないという。もうここでは親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている坊っちゃんではない。そのような気質をもった坊っちゃんは「死んだ」のである。
あの坊っちゃんは死んでしまった。しかし坊っちゃんが死ぬことで報われたこともある。下女の清と一緒に暮らすことである。坊っちゃんは四国では孤独の人であった。生徒には嫌われ、教師人にも、山嵐を除いては馬が会う奴はいなかった。そんな中で救いを求めるように坊っちゃんは清に手紙を書くのである。そう考えると、清の愛と坊っちゃんの愛が切実なものとして映ってくるのではないだろうか。しかし清と一緒になった途端に、清は死んでしまう。つまりである。平岡は語る。
坊っちゃんのたたかいが陽気にユーモラスにみえればみえるほど、その実、涙ぐましい存在、「父も母もない世界」に生い立った青年の存在として上っちゃんが浮かび上がってこざるをえないのだ。
「「坊っちゃん」試論」(『漱石作品論集成【第二巻】』18頁)
『坊っちゃん』には、その底部に、悲哀が漂っているのだ。
漱石の手紙から『坊っちゃん』の真意を読みとく
漱石は手紙でこんなことを言ったそうである。
山嵐や坊ちゃんの如きものが居らぬのは、人間として存在せざるにあらず、居れば免職になるから居らぬ訳に候。
僕は教育者として適任と見なさるゝ狸や赤シヤツよりも不適任なる山嵐や坊つちやんを愛し候。
(明治39年4月4日付、大谷繞石宛)
『ホトトギス』で発表されてすぐのことである。これを読んでみると、漱石自身、坊っちゃんのような人間が腐敗した人間社会で生きていけるわけがないと考えていた節があったようにもみえる。坊っちゃんの逃走は必然だったのか。しかし、話が愉快なのには間違いない。してみると、あの愉快さはつまらぬ社会に対する漱石流のアイロニーだったということになるかもしれない。
考察・感想
坊っちゃんのおかしさ。
坊っちゃんが単なる面白い話に収斂しないことはなるほどよく分かる。しかし、それはそうとして超面白いことも確かである。一体何が面白いのだろうか。
ゴーゴリーの『鼻』という小説があるが、これが面白いのは、鼻が歩いたり「あなたの鼻じゃありません」とかいって抵抗するからである。これは現実世界ではありえないことが起こることで面白さを引き起こしている。しかし坊っちゃんはそういった非現実的なことは起こらない。それでは『坊っちゃん』の面白さとはなんだろうか。
どうもそれは『坊っちゃん』のおかしさの連続にあるのではないか。
坊っちゃんが生徒と口論する場面を例にとってみよう。有名なイナゴ事件である。坊っちゃんが布団に入るとそこにイナゴが大量に入っている。それを坊っちゃんは生徒が嫌がれせで入れたのだと考え、犯人らしき生徒を呼び出して問い詰めることになる。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先の一人がいった。
ここが既におかしい。すでに坊っちゃんからして予想外のことが起きている。バッタをなぜ入れた?という問いに対して、「入れた・入れていない」でも、「そんなことは知らないでもない」でもなく、そもそもバッタた何ぞな?という答えが返ってくる。バッタを知らないのは普通におかしいし、現代感覚でいったらなおさらおかしい。バッタぐらい幼稚園児でも知っていそうである。
そこで坊っちゃんはバッタを知らないなら見せてやろうと言って、小使に掃き溜めに捨ててしまったものを拾ってこさせる。が生憎10匹ほどしか見つからず、「あしたになったらもっと拾って参ります」となる。もちろん明日に拾ってこられても意味がないのに、小使はまじめである。ここもおかしい。ちゃんと坊っちゃんは「小使まで馬鹿だ」と述べている。
そして、満を辞して坊っちゃんは生徒にバッタを見せつけるのだが、そこで驚愕の事実が発覚する。
おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。
バッタではなくてイナゴらしい。バッタとイナゴの区別がわかる人がどれくらいいるだろうか。生徒は無知だと思っていたら、坊っちゃんなんかよりもはるかに物知りだったわけである。このギャップもおかしい。そして坊っちゃんヤケクソになっって、「なもした何だ。菜飯は田楽での時より外に食うもんじゃない」と意味不明なことを述べる。おかしい。それに対して「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と至極真っ当な返答が返ってきた。このギャップ。おかしいww。
とにかく坊っちゃんは単に面白い・おかしいというよりおかしさの怒涛の連続なのである。このキレッキレな感じが坊っちゃんの面白さと呼ばれるところなのだと思う。
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参考文献
佐藤裕子・増田裕美子・増満圭子・山口直孝編『坊っちゃん』事典、勉誠出版、2014年。
三好行雄・平岡敏夫・平川祐弘・江藤淳編『講座 夏目漱石 第二巻〈漱石の作品〉(上)』有斐閣、1981年。
片岡豊・小森陽一編『漱石作品論集成【第二巻】ーー坊っちゃん・草枕』桜楓社、1990年。