『博士の愛した数式』あらすじ解説|内容考察|感想|美しいつながり

『博士の愛した数式』あらすじ解説|内容考察|感想|美しいつながり

概要

 『博士の愛した数式』は2003年に新潮社から出版された小川洋子の小説。初出は『新潮』2003年7月号。第55回読売文学賞、第1回本屋大賞を受賞。

 2006年1月に映画化。監督は小泉堯史。出演者は寺尾聰、深津絵里。

 記憶が80分しか続かない数学者の博士、家政婦の私、その息子のルートとのふれあいを描く。

 小川洋子の小説は『密やかな結晶』や『ことり』なども有名。

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登場人物

博士:64歳。数学の元大学教授。阪神タイガースのファンで、特に江夏がお気に入り。47歳で交通事故あい、それ以降記憶が80分しか持続しない。身だしなみに無頓着。コミュニケーションは苦手。メモを体中に貼り付けている。文章を逆さまから読むことと、一番星を見つけることが得意。子どもには強い優しさをみせる。

:28歳。家政婦。シングルマザー。18歳でルートを産む。その時に母と仲違いしたものの、母が亡くなる前に連絡を取るまでに関係は回復。博士の家政婦として働き、次第に親しみを抱く。

ルート:「私」の息子。10歳。髪の毛の形が「ルート」であったため、博士からそのように呼ばれる。大人になったルートは中学校の数学の教師になる。

未亡人:72歳。博士の義姉。55歳のときに博士とともに交通事故に遭う。それ以来、足が不自由である。過去には博士と恋仲にあった。博士の手紙やメモにでてくる「N」の正体だと推測される。

あらすじ

 私は息子を一人で育てるシングルマザーで、仕事は家政婦。今回派遣されたのは、家政婦が次々と辞めている、元数学者である博士の家だった。出迎えてくれた老婦人は博士の義理の姉で、彼女は離れに暮らしていた。彼女は、家政婦仕事に口を挟まないが、母屋に行くことは禁じられる。

 博士は交通事故をきっかけに記憶が80分しか持たない。家政婦は仕事に来るたびに、初対面の対応をされるのだった。博士は重要なことはメモを残していて、メモ用紙を体中に貼り付けていた。さらに彼はコミュニケーションが苦手で、会話に困ると数学の話をした。

 家に着くと決まって、靴のサイズと電話番号を尋ねられた。博士は、一見すると無意味にみえる数字たちが、如何に素晴らしいかを説明した。友愛数や完全数、素数などに結びつけ、数学の美しさを説いた。そんな博士の姿に、私は次第に親しみを抱く。

 ある時、私に息子がいることを知った博士は、子どもを一人にすることに反対し、翌日から博士の家に通うようになる。息子は髪の毛の癖から、「ルート」と呼ばれるようになる。博士の仕事は、論文雑誌に掲載された懸賞問題を解くことだった。彼は仕事の邪魔をされることをひどく嫌ったが、ルートに対してはいつでも優しく接してくれた。

 ルートは博士に懐き、数学を教えてもらうようになる。ルートと博士は阪神タイガースのファンで、特に博士は江夏が好きだった。しかし江夏が現役なのは過去のことで、現在はプレーしていない。ある時、ルートは江夏が引退したことを口走ってしまい、博士はとても落ち込んでしまう。それ以降、私とルートは、博士の過去の記憶に辻褄が合うように、細心の注意を払うようになる。

 博士と私とルートは、野球観戦に行ったり数学を教えたりと、かけがえのない時間を過ごす。ある日、博士が熱で寝込んだため、私たちは家に泊まって看病をする。しかし、そのことが未亡人にバレて、翌日から博士の家での仕事を辞めさせられる。他の家で仕事をするようになって数ヶ月経ったある日、ルートは放課後に博士の家に遊びに行く。ルートの行為に納得がいかない未亡人は、お金のためかと激怒するが、博士がオイラーの公式を書いたメモを置いて場を収める。それをみた未亡人は、私を家政婦としてふたたび雇う。

 ルートの誕生日を祝い、私たちは博士に江夏のカードをプレゼントし、ルートはグローブをもらう。しかし、先生の記憶障害は進行していてい、記憶できる時間が短くなっていた。その日を境に、博士は施設で生活するようになる。私たちは、博士が亡くなるまで、お見舞いに訪れる。亡くなる前のお見舞いで、ルートは中学校の先生になったことを報告する。博士の胸には、プレゼントでもらった江夏のカードが揺れていた。

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解説

「温かさ」と「悲しさ」の源泉

 80分しか記憶がもたない博士と、家政婦の私、それにルートという愛称で呼ばれる息子の三人が織りなす、温かさと悲しさに満ちた愛の物語。主な登場人物は、博士、私、ルートに、未亡人を加えた四人しかいない。しかも、未亡人の登場回数はとても少なく、基本的には三人の交流が描かれる。

 本作を包み込む「温かさ」と「悲しさ」は、その反対の「冷たさ」と「楽しさ」によって際立ち、そしてそのどちらも博士に由来する。博士はコミュニケーションが苦手で数学にしか興味がない元教授。家政婦として仕事をする私が仕事の邪魔をしようものなら鬱陶しそうにする。しかし、博士は数学の話になると、流暢に楽しそうに喋り、数学の魅力を語り出す。彼は大好きな数学を媒介にして、コミュニケーションをとっているのだ。また、彼の慈しみの感情は、数学に対するのと同様に子どもにも向けられる。「子供を独りぼっちにしておくなんて、いかなる場合にも許されん」(42)と言う博士は、実際にルートに無限の愛情を与える。もしルートが近くにいれば、彼の生活はルートを中心に回ることになるのである。「私」は博士の愛情の対象にはなっていない。でも、「私」は博士が愛する数学の魅力に取り憑かれることで、博士は「私」が愛する息子を抱きしめることで、つまり、同じものを温かく見守ることで、二人は次第に親しみを抱くようになる。

 だがここに「悲しさ」も芽生えてしまう。「私」と博士は、同じ記憶を共有できないのだ。博士の記憶は80分しかもたない。博士との団欒も数学の美しさを説いたこの時間も、それらが「楽し」ければ「楽しい」ほど余計に虚しさが増す。熱をだした博士を泊まり込みで看病したことを理由に、「私は」は博士の家政婦仕事を辞めさせられる。いつもなら次のお宅の仕事で忙しくなり悩む時間もないのだが、今回ばかりは博士のことが気にかかってしまう。「私を一番苦するめたのは、博士が私たちを、もう二度と思い出してはくれないという事実だった」(167)。「楽しい」時間も「私」やルートとの出会いも、記憶のない博士にとっては「無意味」に違いない。そしてこの「無意味さ」は本作に暗い「悲しさ」を忍び込ませているのである。

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考察・感想

三つの無意味さをめぐって

 本作の主題の一つは、この「無意味」をめぐって展開する。そこには三つの「無意味」、「記憶の喪失」「固有名の剥奪」「数値化」がある。

 「固有名の剥奪」と「数値化」について、別の文脈から確認しておこう。村上春樹は「固有名」を用いないことを特徴として、またそれを批判された小説家であった(村上春樹の小説には短編「かえるくん、東京を救う」「神の子どもたちはみな踊る」と長編『海辺のカフカ』などがある。)。彼の初期作品でいえば、主人公が「鼠」という普通名詞であったり、自殺した彼女を「三番目」と数に置き換える場面がある。批評家の柄谷行人は、村上の小説にみられるこのような、意味や固有名を剥奪し数に還元する態度を批判した。そこでは「固有の生」が失われているのだ。

 その意味で『博士の愛した数式』は、村上に対してなされた批判に向き合わざるをえない。なぜなら本作の登場人物は「私」「息子」「博士」「未亡人」という普通名詞で表現され、靴のサイズから誕生日まで見事なまでに数値化されるからだ。「固有名の剥奪」「数値化」に加えて「記憶の喪失」までもが、「意味」の喪失を表している。では、本作は「固有名」を、「記憶」を、あるいは「(数値の反対に位置する)生」を回復することで、「意味」を取り戻したのだろうか。否。小川はこの批判にたいして見事な形で別の角度から回答を提示しているのだ。

 「固有名の剥奪」は、戦争や震災を思い出させるかもしれない。戦争や震災で亡くなる人々には、記憶にとどまる固有な死ではなく、何名死亡といった数値化された名もなき死が訪れる。そのような大量死に起こる数値化の暴力に抵抗した作品に、『シンドラーのリスト』やアメリカ同時多発テロを題材にした『ユナイテッド93』などがある。そこでは、名もなき死者の死の直前を描くことで、固有名の回復を試みている。だが、小川が直面しているのは大量死における「固有名の剥奪」ではなく、消費社会を生き全てが数値に回収される大量生における「固有名の剥奪」なのだ。その場合、固有名の回復のためには、「固有な死」を描くのに加えて別のアプローチが必要になる。

無意味な数値を有意味化する新たなアプローチ

 小川は「記憶の喪失」「固有名の剥奪」「数値化」された現状を否定することはしない。「記憶の喪失」は深刻化し、「固有名」は剥奪されたままで、「数値化」は繰り返される。

 しかし、博士はその「数値」をそのままに美しい意味をもたせる。訪れるたびに聞かれる「私」の誕生日は、2月20日だった。このとき「私」は数値化されて、2月20日生まれの家政婦になったのではない。博士は「220」に、数学論文で受賞した学長賞の番号「284」を据えて、そこに友愛数という関係を発見する。無意味にみえた「私」の数値が、ほとんど存在しない友愛数によって、博士と繋がっているのだ。

フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれあった数字なんだ。美しいと思わないかい?君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて(32)

 奇跡的な確率で結ばれることで、無意味であったはずの数値が意味をもつ。この関係の連鎖は止まらない。「私」はほかの友愛数を探しているときに、「28」の約数の和が「28」であることに気づく。「28」は完全数なのだ。「珍しくないんですね」と呟く「私」に博士は、「いいや、とんでもない。完全の意味を真に体現する、貴重な数字だよ」(70)と言う。そして、博士が最も愛した阪神タイガースの江夏投手は、完全を意味する「28」を背負う選手だったのだ。「私」の誕生日からめぐりめぐって偶然見つけた「28」という数字が、またしても博士と繋いでくれる。「無意味」な数値は、博士によって「意味」を持ったのである。

 博士はメモに「新しい家政婦さん」「と、その息子10歳」(43)と書く。記憶のない博士にとっては、「私」の本名よりも「家政婦」という職業の方が重要なのだ。だが、博士は息子と出会い彼の特徴的な髪の毛をみて、「ルート」と呼ぶようになる。それも「意味の回復」であり、別ルートの「固有名の回復」に他ならない。「温かさ」の源泉は、博士の人柄だけではない、博士による「意味」の有機的な再生にも存在しているのだ。

愛するということ

 博士、「私」、ルートの三人の物語の裏に潜むのが、博士と未亡人の恋愛である。作中では明らかにならないが、「14:00図書館前、Nと」(130)や「〜永遠に愛するNへ捧ぐ あなたが忘れてはならないものより〜」(246)の「N」は、未亡人を指すと思われる。不倫関係にあったかは不明だが、博士に記憶障害を起こした自動車事故に、同伴していたのは未亡人だった。そして、「私」に対する異常な態度や博士に接近しない様子から察するに、未亡人の博士に対する恋は未だに終わっていない。

 だからこそ「記憶の喪失」の悲惨さが際立つ。時系列からいって、博士も未亡人を愛しているのは間違いない。未亡人が博士から距離を置くのはそのためだ。博士と未亡人は、記憶を共有することできず、進む時間は互いにズレている。博士と共に過ごすことは、未亡人にとって限りなく「無意味」なのだ。したがって未亡人にとっては、「私」とルートと博士の交流は意味をもちえない。

私がおります。義弟は、あなたを覚えることは一生できません。けれど私のことは、一生忘れません。(277)

 覚えることがなければ、そこに「意味」をもちえない。しかし、それは本当だろうか。「私」とルートは、博士に江夏のプレミアム野球カードをプレゼントしたのだった。記憶は消えても、物は残る。忘れてしまっても、あったことは消えないのだ。だから博士は、メモを残し、ルートにグローブを与え、収集した江夏のカードを大事にしまい、そして何より「〜永遠に愛するNへ捧ぐ あなたが忘れてはならないものより〜」と論文に記し、その間に未亡人との写真を保管したのではなかったか。

 最後の訪問はルートが22歳のとき、つまり博士が施設に入ってから10年以上経っていた。ルートは数学の教員採用試験に受かったことを報告する。先ほど会ったばかりであるはずの博士は、ルートを抱きしめようとする。

持ち上げた腕は弱々しく、震えてもいる。ルートはその腕を取り、博士の肩を抱き寄せる。胸で江夏のカードが揺れる。(282)

 記憶が80分しかなかったとしても、博士はその度に胸にぶら下げた江夏のカードをみた。江夏はまさにボールを投げた瞬間だ。記憶の喪失は、ある種の意味を失わせたかもしれない。しかし残るものもあるのだ。それは博士に幸福をもたらしたに違いない。

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