最重要論文『「こころ」を生成する心臓』を読む – 小森陽一

最重要論文『「こころ」を生成する心臓』を読む – 小森陽一

序文

 夏目漱石の『こころ』は日本で最も読まれている小説といっても過言ではない。小学校と中学校の教科書で取り上げられているので、第三部「下ー先生と遺書」だけでも読んだことがあると思う。

 『こころ』は一般読者に親しまれていただけではなくて、学者にとっても魅力的で謎に満ちたテキストであった。小林秀雄の印象批評を一つの頂点とし多くのテクスト論がだされ、『こころ』の研究はもはや文芸批評理論の実験場といった具合だったのだ。しかし『こころ』の批評にはいくつかの弱点があった。一つ目は読解の重点が「下ー先生と遺書」に偏っている点、二つ目は先生の妻の静に対する言及の少なさである。1986年、この二つの問題点を克服するべく、小森陽一の画期的な論文が発表された。それが『「こころ」を生成する「心臓ハート」』だ。挑発的な序文、圧倒的に切れ味鋭い指摘、さらに魅力的な文体を携えたこの論文は、従来の『こころ』解釈を刷新しその後の『こころ』研究に多大な影響を与えたのである。この論文は『こころ』の受容のされ方の違和感からはじまる。

こころ』というテクストの<作品>としての享受のされ方ほど、日本近代文学をめぐる思考と感性の制度をあらわにしているものはない。

小森陽一は『こころ』が<作品>として享受されるさいに露呈する「日本近代文学をめぐる思考と感性の制度」を指摘する。制度というのは傾向と読みかえれば分かり易い。すべての批評が似通った傾向を示しているのだ。。

 それは例えば「下ー先生と遺書」の中心化であり、先生の遺書にのみ「<作者>漱石の思想と倫理を」解釈する固定化された視点でもある。実際教科書には今でも「下ー先生と遺書」が取り上げられている。しかし『こころ』が「上ー先生と私」「中ー両親と私」「下ー先生と遺書」という対話的に構成されている以上「下ー先生と遺書」を特権化するのは不当な解釈であり、むしろ先生ー私ー静ーKの対話性の中に「生の円環」を読み解くことが重要なのだ。

 「日本近代文学をめぐる思考と感性の制度」のもとで「精神」「倫理」が称揚され「父性的な絶対価値を中心化する」ことになってしまったせいで、『こころ』の若い読者の受容のされ方は歪んだものになっている。

若い読者たちは、「先生」の「倫理」的、「精神」的な「死」の前に脆かされ、萎縮し、自己の倫理性と精神性の欠如を、神聖化された<作者>の前で反省させられてきた。

このような享受のされ方を強制する制度を破壊するための新たな読解を示す根拠を、『こころ』のテクストの内部に発見することになる。

先生ーKと私ー先生

 これまた序文がカッコいい。

開くことでしか、再び<始まり>にもどることでしか、読むという行為ー言葉と出会う今を即座に覚悟しながら、その一つ一つの記憶を持続させながら、線をそして面を織りなしていく運動ーを停止することができないテクストとして、私にとっての『こころ』は存在しているように思える。

時系列を確認しておこう。先生と静かとKの出会い(下)、先生と私の出会い(上)、父の危篤(中)、先生の自殺(下後1)、「こころ」執筆(下後2)という時系列からも分かるように、『こころ』の冒頭自体がKの死の真相を知る私の視点から書かれた私と先生の出会いであり、だかろこそ冒頭の一文は先生とKとの関係と私と先生の関係の差異化を意識して書かれている。

私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆をとっても心持ちは同じ事である。余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない。

先生は親友のことをKという頭文字で読んだ。そのことを私は余所々々しいと揶揄しているのだ。ただしここに先生への嫌悪はないことに注意しよう。先生のKへの態度つまり他者への関わり方に対して差異化している。先生はKに「冷たい目」をむけ研究するように観察していた。それは叔父に騙された経験から生じた乾いた人間との交わり方であった。私の先生との関わり方はそうではない、先生が過去の人となりながらも先生と呼びかける「今ーあなたーとー共に在るという二人称的なまじわり」なのだ。

私ー静

 もう一つ重要な指摘がある。これまでの研究で俎上に上がらなかった先生の妻、静についてだ。先生は肉体ー精神の二分法を導入し、肉体的な性欲を下位に精神的な愛に上位の価値をおき、形而上学的な不変的な愛を志向することで、美しいもの=静の前ではそのことを隠蔽されなくてはならなくなる。

「奥さん」が「先生」をめぐる「疑いの塊り」を告白するとき、「私」は「私の頭脳に訴える代わりに、私の心臓を動かし始めた」と感じる。

この指摘は「奥さん」と「私」のまじわりがより親密になったことを意味している。この後「奥さん」は「私」同様、「先生」のことを先生と呼ぶようになる。

「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いて云った。

「一人貰って遣ろうか」と先生が云った。「貰っ子じゃ、ねえあなた」と奥さんは又私の方を向いた。

「どうするって仕方がないわ、ねえあなた。老少不定っていう位だから」奥さんはことさらに私の方を見て笑談らしくこう云った。

問題は先生が意識的に遠のけていた身体的領域、性欲にかかわる会話だけ「奥さん」が私に向けられていることだ。以上をふまえて小森陽一はこう解釈する。

否定でも止揚でもない私の「道」と「愛」は、「K」と「先生」の「白骨」を前にしながら、決してそれに脅かされることなく、それを取り込み、精神と肉体を分離させることなく、つきつめられた孤独のまま、「奥さん」ーとー共にー生きることとして選ばれたはずなのである。

「古い「血」の倫理=「家族」の倫理」ではない新たな生の倫理を生きること、それは「「奥さん」ーとー共にー生きる」に象徴されるような、家族的概念で縛られることのない共に生きることの倫理なのだ。

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