生きながら死んだものたちの住処?——『死の家の記録』ドストエフスキー

生きながら死んだものたちの住処?——『死の家の記録』ドストエフスキー

感想

 ドストエフスキーが自身の4年間の監獄生活経験をもとに書いた『死の家の記録』。記録とはいうものの、ルポというより小説と呼ぶ方が正しいのだろう。

 小説=ノヴェルをその語源通り新規な、未知の物事をめぐる語りと捉えるならば、当時の大半のロシア人読者にとって想像外の世界だったシベリア流刑地の空間を、1人の新米囚人の経験に沿って、彼の驚きや苦悩とともに描き出したこの作品は、まさに小説の名にふさわしい作品と言えるかもしれません。(光文社、望月哲夫さんによる「読書ガイド」)(強調筆者)

もちろんこれを手に取った僕にとっても未知のことばかりであった。書き出しにしたって、舞台となるシベリアの地が何やら牧歌的で理想郷のような雰囲気で説明されるのである。シベリアと聞くだけで寒くて厳しい土地をイメージしてしまう僕のような無知の人間にはのっけから意外な感があるが、シベリアと言ったって何しろ広大だし、西南の方は土地も肥沃で気候も申し分のない「祝福された土地」(ドストエフスキー)なんだそうである。

さて、この地で暮らした1人の孤独な教師の死後に発見された手記を紹介する、という体裁でこの小説は始まる、のだが、その前に、この手記を残した「慇懃の権化」のような元貴族の強制入植者(罪人)の語られ方が、短いのだがドストエフスキー節がきいていて面白い。異常なまでに人付き合いを嫌う変人か狂人の類だが、インテリなだけあって町の有力者たちに重宝される向きもあるという人物で、結果的には語り手の知らぬうちに当然のように孤独死している。ドストエフスキーの処女作(『貧しき人々』)の主役? のおじさんを少し想起するところが僕にはあったが、しかしまあ似ているわけではないかもしれない、というか『貧しき人々』は確かあまりおもしろくなくてよく覚えていない。ともかく、この孤独死おじさんの手記をのちに発見した語り手によると、そこに書かれていたのは、「これまで知られてこなかった全く新しい世界であり、ある種の事実の奇妙さや、破滅した者たちに関する一種独特なコメントは私を魅了し、むしろ興味を持って読了した」。果たして本当にそうなのかは読者諸氏の判断に任せる、としてこの長い小説は幕を開ける。いや、本当に長い。本文だけでも650ページほどあるし、僕は図書館でこれを借りたわけだが、買ったところでいつまででも積読していた可能性が高いタイプの本だ。良かったかと聞かれても、そうだとも言いきれないし、ましておすすめしたいわけでもない。もう十分な時間──ところどころ斜め読みで済ませたものの──この書に(少しうんざりしながら)向き合った身としては、さっさと図書館の返却ボックスに放り投げて身も心もスッキリしてしまいたいのであるが(そういえばもう2週間以上返却を延滞しているのだ)、このサイトになぜかドストエフスキーのカテゴリーが作成されていてしかもまだ誰も記事を投稿していないというほんの些細な事実がぼくの頭を狂わせたのだ。この書に十分うんざりしたはずなのに、あろうことか書きたいことがあるわけでもないのに記事まで書き始めてしまっているのである。そしてもちろん、もうすでにそのことを後悔している。なぜこんなことをしているのか、わからない、ぼくの頭はますます狂いそうになっている。一刻もはやく終わらせることにする。

  記事を書く、といっても作品全体の感想というものもとくにないし、この書の文学や社会的な意義などについては専門家による「読書ガイド」を読んだ方がよっぽどいい。なので、ここでは私的に印象に残ったのものを二つ三つあげることにする。

本物の善意?

 上流階層には知られていない、庶民たちの本物の善意の行動。「隣人への崇高な愛とは同時に最大のエゴイズムである」というありがちな懐疑にも答えて、徹底的な無私の慈善としか思われないような行為があるのだ、というような驚きが語られる。「彼女から伝わってくるのはただその一挙手一投足ににじみ出ている尽きせぬ優しさと、どうにかして相手を満足させ、安らげ、何かしら相手の嬉しがることをしてやりたいという、強い願いのみであった。静かで善良な眼差しも、そっくり同じ願いを浮かべていた。」(p183)。ただ、エゴイズムの全くない愛の行動というものが本当に(原理的に)ありえるのかはやはり疑問が残る。これは実際にその場で「愛」を受け取ったものにしか語ることのできない問題なのかもしれない…。

タタールの天使

 タタール人の青年(ムスリム)にロシア語を教えて一緒に聖書を読むシーン。この記述だけでは、帝国主義的あるいは民族同化的な、微妙なイメージを持つ人もいるかもしれない。しかしここで描かれるのは、貴族として監獄で常に疎外感を味わわされてきた者が、この若く美しく天性の持ち主である青年と出会えたことの喜びであり、そしてまた、一組の人間と人間とが魂で通じ合えたようなときに感じる純粋な喜びである。

 「板寝床の私のすぐ隣がこの青年の場所だった。なかなかの美男で気取りがなく、賢そうであると同時にいかにも善良で純真そうなその顔をひと目見たとたん、私はこの青年のことが気にいってしまい、運命が他の誰でもなくまさに彼を隣人にしてくれたことを大いに感謝したものだ。青年の心根のすべてがその美しい、いや麗しいといってもいいような顔に表れていた。彼の笑みはいかにも人を信じきったような、子供のように無邪気な笑みだった。大きな黒い瞳はとても穏やかで人懐っこくて、なんだか見るたびに格別の喜びを覚え、たとえこちらが滅入ったりふさぎこんだりしている時でも、心が癒されるようだった。これは誇張ではない。」(p137)「この年端もいかぬ青年が懲役生活を通じて、これほどしなやかな心を持ち続け、絶対に曲がったことをせず、実に親身で好感の持てる人柄を身に付けて、粗暴にもならず堕落もしないで居られたのは一体どうしてなのか、私には想像もつかない。ただし見かけはどんなにひ弱そうでも、心は強くてしっかりした気性だった彼は、清い乙女のように清純で、誰か監獄のものが卑劣な、破廉恥な、醜悪な、あるいは不正な、暴力的な振る舞いをすると、その美しい眼に怒りの火がともり、それがなおさらその眼を美しくしたものだった。自分では喧嘩や罵り合いは避けていたが、だからといって侮辱されて黙っているような連中とは全く違い、自分の名誉はきちんと守っていた。とはいえ誰とも言い合いになるような事はなかった。皆が彼を愛し、可愛がっていたからだ。

 「あんたは俺にたくさんのことをしてくれた、それはもう」と彼は言った。「俺の父さんでも、母さんでもできないほどのことをしてくれた。あんたは俺は人間にしてくれたんだ。神様がご褒美をくれるだろう。俺はあんたをいつまでも忘れない……」 どこに、どこに今はいるのか、私の優しい、かわいい、かわいいアリよ……。(p146)(強調筆者)

超人

 囚人のうちにも何人かしいない「本当に強い人間」の存在。「哲学者ニーチェも、この作品のペトローフやオルローフの内に、自らのイメージするドストエフスキー的超人のモデルを読み取っています(『偶像の黄昏』)」(読書ガイドより)と望月さんは書いているが、ぼくが一応パラパラと確認した限りでは(『偶像の黄昏 アンチクリスト』白水社p133)、ニーチェ自身はペトローフやオルローフを名指ししているわけではないし、「超人」と形容しているわけでもない。したがって、この二人を「ドストエフスキー的超人」なるものとするのは望月さんの解釈が入っていることになる、がこの二人が超人的であること自体にさして異論はない。ただ、ニーチェの書いたものを読む限り、(たとえニーチェの「超人」がドストエフスキーから大きく影響を受けていたと仮定したとしても)この二人はドストエフスキー的超人というよりもロシア的超人とでも書く方が良い気がする。というのも、ロシアの地の高級で良質な木材から彫られたような人間だということらしいのだ。なんだかちょっとナンセンスな話な気もするけれど…。

 さて、この二人のうちのペトローフという人物は、なんだか掴みどころがない、何を考えているか計り知れないキャラクターなのだが、いったん頭に浮かんだ考えはたとえどんなことでも躊躇いはしないという人物だそうである。「いったん何かの欲望が生まれれば、もはやこの世にそれを妨げるものは存在しないのだ」(p234)。たしかに、ニーチェのいうような、その場で感情を発散できずに憎しみや恨みを溜め込むルサンチマンタイプの人間とは見事に対極をなしていると言えるかもしれない。なぜそんな「いったん仕事が見つかれば、もはや命も惜しくはない」という人物が脱獄もせず(逃亡もその気になれば十分やってのけるだろうと書かれている)鞭に打たれることに甘んじているのか? 「どうやらまだ頭がそちらには回らず、したがって本気でそんな願望を持つには至っていなかったのだ」。「ペトローフ、向こう見ずな、恐れ知らずの、どんな規範も受け入れない人間」…。

 一方のオルローフはどういう人物か。「この男ほど強靭な、鉄のごとき性格の持ち主の人間を、私は生涯見たことがない」(p126)。一見して野獣のような肉体を持っているということではなく、「内に秘められた精神のエネルギーが、肉体を強力に支え」ているのだ。なんだかジョジョの強キャラのようだ。「肉体に関する勝利の、完全な一例」であり、「明らかにオルローフは自分をどこまでも完全に統括していて、苦しみだろうが刑罰だろうが歯牙にもかけず、世の中に怖いものひとつなしだった。彼の内にあるのはただ無限のエネルギーであり、それが行動を求め、復讐を求め、決められた目標の達成を求めていたのである」。彼と語り手との会話のシーンで、「良心」の問題に触れようとした途端に彼があからさまな軽蔑の念を、さらには語り手に対して憐みのような表情さえ示すところもおもしろい。気になる方は本を手に取ってみてはどうか。

 そのほかにも、処罰の不平等の問題(事例判断を抜きにした刑罰の一律適用の問題のみならず、執行の段階における各人への個別作用の不平等をも問題にしている)への言及や、「人間」性の問題、「習慣」の持つ恐ろしい効果、などなど興味をそそられる箇所もあったが、それらについて書く気力はもう残っていない。ぼくは超人ぢゃない。さようなら

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