概要
『NARUTO -ナルト-』は、1999年から連載されていた日本のアクション忍者漫画。作者は岸本斉史。全72巻。
心に傷を負った少年ナルトが里の長である火影を目指して奮闘する物語。
ほかの漫画・アニメは『ホムンクルス』『ONE PIECE』『3月のライオン』『チ。―地球の運動について―』『しあわせアフロ田中』『失恋ショコラティエ』『君たちはどう生きるか』『僕等がいた』『僕のヒーローアカデミア』などがある。
イタチとの対面、その時サスケは
大蛇丸による火影襲撃事件は、木の葉の里のトップである三代目火影猿飛ヒルゼンの死と大蛇丸の腕の封印という痛み分けの形で終結します。この事件のせいで、三代目火影を含め多くの優秀な忍びを失った木の葉の里は壊滅的な状態に陥ってしまいます。その隙を狙って木の葉の里に現れたのがうちはイタチです。イタチはサスケの兄でうちは一族を皆殺しにした張本人であり、抜忍として指名手配中の超危険人物でもあります。カカシ率いる上忍4人組ですらイタチと鬼鮫のペアに太刀打ちできず、イタチの本来の目的であるナルトに接近を許してしまいます。その一報を聞きつけ駆けつけたのがサスケで、片時も忘れることのなかった復讐すべき敵(兄)とついに対峙することになるのです。
イタチと対面したサスケは開口一番「アンタを殺す為だけにオレは…生きて来た!!」と啖呵を切ります。普段は冷静沈着で周りからもクールであると言われるサスケにしては、些か冷静さを欠いているようにみえます。実際、発動された千鳥は通常よりもエネルギーを出しすぎてしまい、高密度のチャクラが自分の手の皮を剥がしてしまのです。
サスケのセリフを見てみましょう。「アンタ」という二人称はサスケのイタチに対する態度を明確に表明してると思われます。サスケにとってイタチは兄であり敵でもある両義的な存在ですが、お兄ちゃんやと呼ばないあたりに、この時は兄というより敵と見做しているのがわかります。つづく「殺すため<<だけ>>〜〜生きてきた」というのはかなり強烈です。普通の人は生きてきた理由などそうそう持ち合わせていないものですが、サスケは人生の意味をイタチの殺害と断言します。ここからも如何にその想いが強いかが伺えます。
実力差が人生を否定する
しかし一つの疑問が浮かびます。<<想いの大きさは、強さにつながるのか>>?。
もちろんサスケはある程度は強くなったことでしょう。ですが、推定13歳の若さでうちは一族を皆殺しにし抜忍だけで構成された「暁」のメンバーでもあるイタチは、サスケにとってあまりに強い敵であることに変わりはありません。案の定サスケの千鳥はイタチにダメージを与えるどころか触れることすらできず、片手だけで軽くあしらわれてしまいます。サスケの激しい想い、強い言葉、無茶な突撃、その全てがまるでなかったかのように、一方的にイタチにボコされます。イタチとサスケの間にある圧倒的な力量の差は、イタチを殺すためだけに生きてきたサスケの人生それ自体に疑問符を突きつけることになるのです。
あの時から…少しも縮まらない……この差はなんだ…?
今までオレは…何をしていたんだ!!!?
ナルトと修行で切磋琢磨し数々の修羅場も潜り抜け、中忍以上の実力をつけてきたサスケは自分の能力に対してそれなりの自負があったはずです。怒りに任せて無闇矢鱈に攻撃したわけではなくて、少なからず勝算もあったことでしょう。
しかし結果は象とアリの対決の様相を呈してしまいます。それはイタチが一族を皆殺しにした「あの時」と全く変わりません。実力をつけたはずなのにまるで強くなっていない。過去と現在で変わらない圧倒的な実力差は、あたかも成長した時間=人生がなかったかのように錯覚させてしまうのです。失望と焦りの中で、一体「オレは何をしていたんだ?」と自らを詰ります。
原動力になる感情は?
サスケは圧倒的な実力差によって人生を否定されて絶望に沈み、さらにはイタチの最強瞳術万華鏡写輪眼をかけられて放心状態に陥ります。意識が朦朧とするサスケにイタチは囁きます。
なぜ弱いか…足りないからだ…
…憎しみが…
サスケが弱いのはチャクラ量が少なかったり忍術や体術が弱いからでしょう。しかしそれはサスケが求めている回答ではありません。これから今までと同じように修行をしてみてもイタチほどには強くならないだろうという確信が芽生えているのです。
イタチの回答は明快です。「足りないからだ…憎しみが」。イタチは身体的能力には一切言及せず、精神的な側面とりわけ憎しみという負の感情に注目します。力が足りていないのではない、力を求める原動力が足りていないのだ、と指摘しているのです。
ここでは一つの矛盾が生まれています。イタチが教える「憎しみ」はあろうことかイタチに矛先が向いていて、サスケの願望としてはイタチを殺害するという形になるはずです。つまりイタチは自らが死ぬことを望んでいるかのようなのです。イタチの矛盾した発言という伏線は、数十巻後、見事な形で回収されることになります。
雑談——足りないのは憎しみ=違和感だ
「足りないからだ。憎しみが」これってとても深い言葉だと思うのです。憎しみというと大袈裟で分かりにくいかもしれないので違和感と言い換えてみてもいいでしょう。要は「こいつ / この世界おかしくね!!?」という感情だと思います。そしてその違和感から主張が生まれ行為として結実し社会に接続されていくのです。逆に言えば、あることを主張する時、その主張の手前には何かへの違和感があるはずです。社会、常識、定説、環境などなど。
最近は「憎しみ」がネガティブな意味でしかうけとられなくなり、「憎しみ」を抱いていると言いづらい雰囲気が蔓延しているように感じます。勿論、個人の中傷や暴力に発展するような負の感情は退けなければなりません。しかしながらイタチが主張するように「憎しみは」行為の原動力でもあるのです。我々は「憎しみ」という感情の負の側面だけでなく正の効果についても目を向けるべきだと思うのです。
主張することがない、という人がいます。もちろんそういう場合もあるでしょう。しかしそれはイタチに言わせれば憎しみ=違和感が足りないのです。そして人間生きていれば何かに違和感を覚えるはずなのです。その違和感を原動力にして、主張したいことを言葉に託すのは、なかなかに趣深い感情表現ではないでしょうか。
最後に雑談ですが、世の中的には足りないのは「憎しみ」ではなく(Yahoo知恵袋)、「努力」だそうです。意見が合わない!!
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